恋愛というのは、好きになったら始まりで、嫌いになったら終わり。
そんな単純なものじゃないと友人たちは言う。
好きなのに嫌い。
嫌いだけど好き。
付き合いだしたら安心ということじゃない。
ますます複雑でわからなくなる。
「坂本、合コン行かないか」
「あー、だめだめ、こいつ最近彼女ができたから付き合い悪い」
「合コンくらいいいだろ」
「行ってもしゃべらないぞ、こいつ」
周りは好き勝手に俺の合コン参加を決めている。
「いや、行かないから」
そう言っても聞いているのか。
「坂本君」
講義室の入口から、よく通る声が聞こえた。
講義中からかけっぱなしだったメガネをかけた目で見る。
「おお、坂本、彼女が来たぞ」
「どれどれ」
「どこで知り合うんだ」
「バイト先だってさ」
なぜそこまで知ってるんだ。
周りの連中は放っておいて、彼女のところへ。
「時間、過ぎてましたね。すみません」
学食へ向かいながら、彼女は言う。
「ううん、いいの。待っていればすぐに来るのに、待ちきれなかったのはわたしだもの」
そうやって彼女はすぐにうれしがらせることを言う。
言葉はいつでも直球なのに、気遣いも忘れない。
時々あまりにもかわいいので、みっともなくにやけてしまう。
「…クラスの連中に気を悪くしてませんか」
「してないよ」
あれこれ言うクラスの連中には、彼女も戸惑っているようだったが、あまり気にしていないようで助かった。
講義の話、バイトの話。彼女は思いついたことを楽しそうに話す。
ただ、伯母ちゃんが、と話し出したときは要注意だ。
先日、付き合うことになったと報告したらしい。
わざわざ報告するのもなんだが、送っていくのが契約である以上仕方がない。
店長には最初に言われていた通り、かろうじて彼女から告白したという話だったせいか、お咎めはなかった。
長谷部さんには、残念だ、とか、このむっつりめ、と散々な言われようだったが、その裏を知っている身としては彼女の「どう思う?」には安易に答えられない。
あの二人、絶対に何か賭けをしていたに違いない。
長谷部さんは明らかに俺が先に告白するとか、手を出すという方に賭け、店長は彼女から告白するほうに賭けたという感じだ。だからこそ長谷部さんはわざと煽るように彼女をデート攻撃していたんだろうし。
他人の恋愛で遊ばないでほしい。
「この間欲しいって言ってたDVD買ったの。一緒に見よう」
「…次の休みでいいですか」
「うん。すごいきれいなの、完全版のパッケージも」
彼女はあれからも何も考えずに部屋に遊びに来る。
もちろんそれは自分が誘ったことなので、気軽に来てほしいと思う。
思うが、時々それは拷問のように感じるときもある。
彼女がまったく何も考えていないときに余計なことを考えるのが男というもので。
どうしたもんかと時々悩む。
彼女はなんでもはっきりと言う。
直球すぎる言葉に戸惑うのも確かだが、あまりしゃべらないほうなのでありがたい。
疑問があればちゃんと口にして問いただす。
たじたじになること間違いなしだが、ちゃんと話せば自分なりに消化して納得してくれる。
ランチが終わった後はまた午後の講義に戻る。
今は基礎課程だから、サボったりできる講義もないわけじゃない。実際サボっている学生もかなりいる。
それでも欠かさず出てしまう俺をクラスの連中があきれても、彼女はサボって自分と一緒に過ごしてほしいとは言わない。
彼女も講義はサボらないし、自分の時間も大切にするからだ。
その日の講義が終わってから、合コンに誘ったクラスのやつが言った。
「坂本の彼女、学食で告られてたぞ」
さすがに何?と顔を上げる。
「でもさすがだわ。思いっきり断ってた。
坂本君で手一杯なんだとさ」
…ああ、そう。
「ほっとしたっしょ」
そりゃ、まあ。
「何でこんなやつがいいんだか」
放っておいてくれ。自分でも時々そう思うから。
付き合いだしたからといって、安心なわけじゃない。
今時は、付き合っているやつがいるからあきらめるやつばかりじゃないし、付き合っていても彼女にだって男友達や別の付き合いだって山ほどあるのだから。
それを思うとため息をつきたくなるが、そんなことでめげていたら多分彼女に笑われるだろう。
* * *
先ほど「今から行くね」と連絡があってから、思ったより到着が遅い。
何かあったかと心配になって様子を見に行こうかとドアを開けたら、ドアの前に考え込んでいる彼女がいた。
「小峰さん?」
「あ、坂本君」
「…どうぞ」
「あ、はい、お邪魔します」
今更部屋に入るのに疑問を持ったとか?
約束どおりDVDを見せてもらう。
これを二枚見終わると、ちょうど夕食時になる。
買い物でもするかとか、どこかへ食べに行くとか考えないとな、などと思っていた。
一枚を見終わって、コーヒーを入れて飲んでいると、彼女が不意に言った。
「ねえ、坂本君」
彼女はいつものようににっこり笑って言った。
「二人きりなのに、何もしないの?」
あまりなセリフに、思わずコーヒーを吹いてしまった。
彼女はいたって気にしていないようにティッシュを渡してくれて、俺は一人でそのセリフの意味を考えることになった。
「あのね、小峰さん」
「はい」
俺は仕方がなく彼女に忠告する。
「他の男の前では言っちゃだめですよ」
「もちろん、坂本君にだけよ」
いや、それはうれしいんだが。
そんなことを言われた男がいったい何を考えるのか、わかって言ってるのか。…わかってるんだろうなぁ、さすがに。
ちょっとだけ意地悪な気を起こして聞いてみた。
「何をしてほしいんですか」
彼女はひるむことなく少し考えてから言った。
「そこまでは考えてなかったなぁ」
ああ、そうだろうなぁ。
それでもね、あなたがスイッチを入れたんですからね。
彼女の体を抱きしめると、彼女はそのままふんわりとうれしそうに笑った。
こんな風に安心した顔をされると、ちょっとやりにくいんだが。
軽くキスをすると、もっととねだった目をする。
彼女は自分の欲にも正直だなと思う。
あまりはめをはずさないように注意しながら彼女の唇を味わう。
その吐息はあまりにも甘い。
うっかり唇から首筋に移動しかけたところで本気モードの自分に気がついてやめた。
目を開けた彼女が言った。
「坂本君ならいいよ」
ああ、もう、この人は、どうしようもなくかわいらしい。
それでも、だからこそ言っておかないと。
「小峰さん、初めてでしょ」
「うん」
素直にうなずく。
「このまま流されないで、もう一度ちゃんと考えてからにしようね」
「え、終わり?」
そりゃ俺だって本音は終わりたくはないです。
「準備もできてないからだめ」
そう、何も考えていなかったからこそ、このままするのはまずい。
「初めてだから、ちゃんと考えて、大事にしないと」
「そ、そうだけれどね」
彼女は納得いかないという顔をしている。
俺はともかく、大変なのは彼女だから。
それなのに、彼女はまたもやいいところを突いてきた。
「坂本君は、初めてじゃなさそうだよね」
「…小峰さん…」
過去の話は言うべきなのか?
いやそれはまずいだろう。すごくまずい気がする。こういうときは聞かれても答えない方がいいと聞いた気がする。
でも彼女はいつもはっきりと答えをほしがる。
でもやっぱり言わないほうがいいだろう、なぁ…。
「ごめんね、ちょっと嫉妬したみたい。
わたしのこと、大事?」
少しだけほっとして、彼女に感謝する。
「大事じゃなきゃ、こんなに悩まないし、途中でやめたりできません」
好きじゃなきゃ考えない。
好きだからこそ止まらなくなる欲望を無理やり押さえつける。
頭の中はとても彼女には見せられない。
「うん、わかった」
彼女は俺の耳元にこっそりささやいた。
「じゃあ、よく考えてくるし、今度は準備万端にする」
その言葉に小躍りしない男がいたらお目にかかりたい。
「あなたは本当に、何と言うか…」
だから俺は彼女に頭が上がらない。
泣かせたくない、と真剣に思う。
* * *
勉強もバイトも目一杯で、生活は充実している。
おまけにかわいい彼女もいるから、言うことはない。
なのに、水を差す人も中にはいるわけだ。
「彼女、最近来ないね」
実験室で顕微鏡をのぞいていると、後ろから声をかけてきた。
「新谷さん、そこに立つと影ができるからどいてください」
「文句を言うときだけうるさいってどうよ」
同じ実験班の中で唯一の女、新谷。
彼女は口が悪く、いつもやり込められる。
「彼女とけんかでもした?」
「…してませんよ」
今週はあまり会えないとスケジュールをお互いに確認していたはずだから、けんかではない。
この実験さえ終われば少し楽になる、と話してあった。
「ちぇ、つまんない」
「自分が彼氏と遠恋だからって、人の恋愛を壊すようなことしないでください」
「そうよ、会えないのよ、だからつまんないのよ」
「彼女にあらぬ事を吹き込むのもやめてくださいね」
「なんでわかったのよ」
「同じような思考の持ち主を知ってるんで」
「坂本、あんたじじくさい」
言われなくても知ってます。
どうでもいいが、早くこれを終わらせて彼女に会いに行きたいというのが本当なので、必死でやってるんだが。
「ねー、田口、最近彼女と別れたって?」
話をふられた田口は、見るからにびびって新谷を避けようとする。
新谷はそれをやすやすと見逃すほど優しくはない。田口はたちまち新谷の餌食に。
俺としてはそのほうが実験が進むのでありがたい。
こんな毎日の中で、彼女は唯一の癒し。
新谷は世間一般でいう美人だが、彼女とは違う。
彼女も美人の部類に入るが、それよりも何よりもその明るい雰囲気に惹かれるんだと思う。
だいたい普段はメガネをしていないせいで、近くで見ないとはっきり見えているわけじゃないのだ。
目を細めたりすればたちまち目つきが悪くなるので、メガネをしたほうがいいというやつもいる。
メガネをすると妙に凄みが増すからやめろというやつもいる。
どっちなんだよ。
実験が終わって実験棟を出たところで、見知らぬやつに呼び止められた。
「理学部の坂本さんって、あなたですか」
理学部に坂本は二人いるが。
「あっと、小峰さんの彼氏の」
「あなたは?」
「小峰さんと同じ国文学の永山です」
ようやくぴんときた。
彼女に告ったとかいうやつだ。
「振られたけど、彼女には今後もアタックするつもりなんで」
だから、なんだよ。
宣戦布告というわけか。
「どうぞ」
面倒だなと思いつつ、一応そう返して歩き出した。
アタックしたければすればいい。
やめろと言ったって、彼女を24時間監視できるわけじゃあるまいし、彼女が相手にするならば、それは俺にそれだけの甲斐性がないってことだろうし。
こういうことを言われてしまうのが、腹が立つというのか、自分の情けなさを再確認というのか。
彼女の存在に、俺は完全に振り回されている。
それは俺が望んでそうなっているので、人に言われても気にならない。
もしも俺が彼女にふさわしくて文句のつけようもないやつなら、わざわざ宣戦布告なんてしてこないんだろうな、と思うから腹も立つし情けなくもなる。
見た目はごついし、気の利いたこともしゃべらないし、傍目には楽しそうに見えないんだろうか。
そうは言っても今更この顔は変えられない。
もっと大声で笑うとか?
それこそ今更か。
* * *
「坂本君」
彼女はいつもよりこわばった顔をして呼んでいた。
実験が終わり、実験班のやつらと一緒に移動中だった。
「先行ってて」
新谷は見るからに面白そうな顔を見せた。後でまた何か言われそうだ。
「…あの、さっきの人たちは?」
「一緒の実験班の人たち」
「実験班…そうなんだ」
「何か気になる?」
「なるよっ」
いつもより強い語気で言われて驚いた。
もしかして、新谷に嫉妬、とか?まさか。
「実験班の人たちとは確かにずっと一緒に実験をしていくので、大学にいる間は一緒に行動することが多いと思います」
一応それだけは言っておかないと。
嘘はいけない。
彼女はわかってると言うようにうなずいた。
きっと彼女の学部だって男女混合でやることもあるだろう。あの宣戦布告男とも。
「あんなきれいな女の人もいるなんて思わなかったから」
やはり新谷か。
「…あの人は…新谷と言って、あれでいて男顔負けに厳しい人ですね。俺があまりしゃべらないので、無言なら無言でもっと早く手を動かせとか、へたれとか、いろいろ言われてます」
「そんなのは関係ないでしょ。バイトも減らして、あのきれいな人とずっと一緒なんて」
「バイトは…減らしてくださいって言った覚えはないです。まだそこまで忙しくないですよ」
店長と話したのは先週のことだが、前期考査の前だけは勘弁してくれと言った覚えはある。
「そう言われたんだもの」
それは多分店長の勝手な気回しです。
「俺は小峰さんほどもてませんし」
幸いなことに彼女が嫉妬してくれるほどには。
「小峰さんで手一杯なんで」
彼女の言葉を思い出して言ってみた。
ところが、彼女は明らかにむっとしている。
何か機嫌を損ねたらしい。
告白のことを聞いて黙っていたのがまずかったのか。
でも断ったと聞いてるんだが、何か感想でも述べるべきだったか。
「…坂本君の意地悪!
今度、部屋に行くときは覚悟してなさいよ!」
彼女は一息にそう言って、走って逃げていった。
呆気に取られて呼び止める間もなく、中庭を横切り、視界から走り去っていった。
言われたセリフを思い返してみる。
確かに彼女は怒っていた。
怒ってはいたが、その捨てセリフはあまりにも愛しさを誘う。
…覚悟するのはどっちなんだか。
そうか、意地悪か。
俺って意地悪なんだ。
講義室へ向かう途中一人で笑っていたら、後ろから新谷に「…むっつり」と言われた。振り向くと、講義室に着くまでずっとむっつり、むっつりと繰り返された…。
班の他のやつらからは、同情したように肩を叩かれた。
* * *
バイトのシフトは、確かに減らされていたが、その分彼女のシフトも早いほうに切り替わっていたので、店長には何も言わなかった。
代わりに言われたのは「坂本君、くれぐれも亜美ちゃんを泣かせないようにね」というとても力の入った言葉だった。
長谷部さんには「坂本君、女の子に用意させるのはどうかと思うよ?」と言われた。
いったい何の話だ、何の。
それは彼女が部屋に来てから判明した。
二人ともバイトの入っていない週末、今から行くから、と電話があった。
ああ、覚悟してくるんだな、と即座に思った。
女の子がそこまで覚悟して来てくれるのは、幸せだなと思う。
それにどうやって応えたらいいんだろう。
彼女は気合の入った様子でやってきた。
「ちゃんと考えてきたし、ちゃんと準備してきたからね」
でもその気持ちはうれしかったので、素直にうなずく。
あまりに緊張されるのも困るが、気合が入りすぎるのも困るかも。
ちょっと季節的に熱いとは思ったが、紅茶を出してみた。
熱い紅茶を冷まして飲むうちに、彼女は少し落ち着いたようだった。
「小峰さん」
紅茶のカップを置いたのを見計らって、彼女を引き寄せる。
「坂本君、後悔しないよ、大丈夫」
「やっぱり後悔すると思いますよ」
「…そう?」
彼女は俺を見上げて首をかしげる。
「今日は途中でだめと言われても無理ですからね」
「…うん」
そんな満面の笑みで言われるとなぁ。
それからはもう夢中。
夢中とは言っても彼女は初めてだし、怖がらせたりしないようにしないといけないし、どうせなら痛いだけではかわいそうだし…なんて思ってはいたが、彼女を目の前にすると余裕なんてないことがよくわかった。
今までのあれはなんだったんだろうな、とまで思う。
一通り事を終えて彼女とまどろんでいたら、彼女は自分の胸を見て言った。
「ねえ、あの肌についてる赤いしるしって、どうやってやるの?」
また何を言い出すかと思ったら。
「…あれは、つけるのも大変だし、つけられるほうも痛いですよ」
「え、そうなの?よく体中についてる子もいるけれど」
女の子はそんなものも自慢にするのか。
少し考えて言ってみた。
「そんなにつけてほしいなら、ためしにやってみますか」
「…うん、どうせもう痛いもん」
「…それを言われると…」
俺は苦笑して彼女に向き直った。
どんなにがんばっても初めてじゃ痛いもんは痛いよな。
とは言うものの、初めての子としたことがないからその痛さはわからないが。
彼女の白くてきれいな肌を見る。
細くて折れそうなのに、やわらかくてしなやかな体。
「今回だけですよ。こんなきれいな肌につけるのはもったいないですから。あれは赤の後は紫になって黄色になって…」
「うん、いいから、やってみて」
目をきらきらさせて期待している。
つけてどうするつもりなんだろうかと考えると、ちょっと躊躇するが、仕方がないので彼女のご希望通りにしるしをつけた。
意地悪と言った彼女の言葉を思い出して、開いた襟ならば見えそうなところにつけてみた。すでに薄着の季節なのに。
帰る前に彼女は思い出したように言った。
「忘れてた。これ、また使ってね」
差し出した袋の中身は、店で売っている避妊具だった。
こ、これか…!
俺はようやく店長と長谷部さんのあの苦言と笑いを悟った。
「やっぱり坂本君がちゃんと用意してくれてたから必要なかったけれど、また使えるでしょ」
とりあえず彼女は楽しそうに言ったので、もう二度としないと思っているわけではなさそうだ。
それはともかくとして、だ。
「…これ、自分でレジ打ちました?」
「うん。ばれたらどうしようって、どきどきした」
いや、ばれてます、ばれてますってば。
「ばれてもいいけれど、坂本君が困るかなって」
もう困ってます。
「小峰さん、多分、ばれてます」
「え、そうなの?やだ、恥ずかしい。ふふふふ」
さほど恥ずかしくなさそうなのは、何ででしょう。
「だって、坂本君のしるし、ついちゃってるもん。どうやったってばれちゃうよね」
ああ、そうですね。
…完敗です。
どうやら恋愛の卵は、まだ温め始めたばかりのようだ。
(2010/01/31)
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