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十二国記:颯淳の物語


序章


雲ひとつない空を見上げると、かの人を思い出す。
鍬を手に、少しだけぼんやりと見上げる。

「おかあちゃーん」

幼子が足元にやってきてじゃれ付く。
颯淳はやっと下を向いて、幼子に微笑みかけた。


*****


木戸の外を恐ろしい音を立てて風が渦巻いていた。
颯淳は家の中で震えていた。
今にも飛ばされそうな粗末な家の中で、ただ父と母を待つしかなかった。
父は外に出て行ったまま帰ってこない。
先ほどまで外に出て様子を見ていた母は、真っ青な顔をして戻ってきた。

「恐ろしい…」

ただそう言って颯淳を抱きしめた。
そのうち、うとうとと眠りかけた頃、大声で目が覚めた。
いつの間にか抱きしめていてくれたはずの母の姿はなかった。
代わりに姉が、泥だらけになって立っていた。
まだ幼い颯淳には、外で何が起こっていたのかわからない。
何か、ただならぬことが起こっているだけしかわからず、姉が震えているのは、雨に濡れたせいなのか、それとも何かを見たせいなのかすらわからなかった。
そのとき、父が、泥水の川へと落ちていったのだと後で聞いた。
姉は、一言「逃げないと…」と震える声で言った。

「お母さんは?」

颯淳の問いに答える余裕はないらしく、姉は颯淳の手をつかむと急いで外へと走り出た。
近くを流れる川をものすごい勢いで流れていく何か。
濁った茶色の水が、川のふちまで押し寄せていた。
颯淳はもつれる足を必死に動かしながら、辺りを見回す。
渦巻くほどの恐ろしい風とたたきつける雨。
誰かの叫ぶ声。

「もうここはだめだ!!」

「逃げろ、山へ!」

この天候の中、姉は颯淳の手を離すことなくつかんでいてくれた。
大人たちが走り出す。
小さな子供を抱えた母親が走り去る。
後ろから、颯淳たちを呼ぶ声がした。
母が来たのだ。
追いついた母は、颯淳と姉の手を握り、少しでも高いほうへと走り続ける。
足元はすでに泥にまみれ、ただ走るだけなのにやけに重い。
田は泥水で埋まり、すでにどこが道なのかも判別できないほどだったが、毎日田畑へ出ていた母の足が覚えていた。
後ろのほうで誰かが足をとられ、泥水の中におぼれていく。
母は振り向きもせずに走って行くのが子供心に恐ろしかった。
どんどん走り続け、ようやく山の斜面へと差し掛かったとき、一気に泥水が押し寄せた。
川の堤が切れたのだ。
風よりも激しく、泥水は渦を巻いて、あらゆるものを押し流していく。
颯淳と母は、水に足をとられなかなか這い上がることが出来なかった。
姉が必死の形相で母の手をつかんでいる。もう一方の手を颯淳へ差し出そうとするが、颯淳にはとてもそれをつかむ余裕はない。
更に水かさが増し、颯淳は母もろとも泥水の中へ吸い込まれていった。


その年の豪雨は特にひどく、噂によると、天が傾きかけていたと。
それを天の理では、失道、という。
それにも増して偶然起こったひどい蝕は、颯淳たちの村すべてを押し流した。
助かった人々にも更なる試練が待ち受けていた。
妖魔の襲来だった。
それは、慶国、江田近くの小さな村の話だった。