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十二国記:颯淳の物語

第一章




其の一

颯淳が気づいたとき、そこはただの泥沼だった。
手をつないでいたはずの母の姿はなく、握っていたのはただの枝切れだった。もう片方の手には草が握られており、どうやらそれをつかんでいたために、遠くまで流されるのを防いだらしかった。
空腹が颯淳を包んでいた。
泥の生暖かさが心地よく、しばらくそのまま横たわっていた。
日差しは容赦なく照りつけていた。
顔についた泥はすでに乾きかけており、颯淳のまつ毛を重くしていた。
母がすいてくれた髪の毛は泥で固まり、元の濃い紺の髪色ではなかった。
母は、どこへ行ったのだろう。
姉は、あのまま流されずにすんだのだろうか。
父は、あれ以来姿を見ていなかった。
里家の長老…じいじは、ちゃんと逃げたのだろうか。
いくつもの疑問が浮かんだが、誰も答えてはくれなかった。
またもやまぶたが重くなってきた。
颯淳は再びこん睡状態に陥った。


次に気がついたときは、暖かな火のそばだった。
身を包んでいた泥はなく、目の前には心配そうにのぞく二つの瞳。

「…気がついた…。気がついたよー!」

大きな声で瞳の持ち主はどこかに向かって叫んだ。
颯淳の鼻には、空腹をかきたてるような食べ物の匂いがしていた。

「…食べる?」

目の前に出された雑炊に手を伸ばしたが、体が動かなかった。なんとか手を差し出したものの、震えてとても食べられそうになかった。

「…無理だよ、ばかだねぇ。ほら、貸してごらん、花永(かえい)」

優しげな声はそうたしなめながら、雑炊の入った器を手に取った。

「あまり具は入っていないけどね。なあに、そのほうがおなかには優しいってもんだよ。
ほら、少しずつお食べ?」

口の前に差し出された雑炊を、颯淳は口を開けて迎え入れる。
少し熱い雑炊が、おなかに下りていくのを感じた。
一口食べると、後は勢いよく次から次へと飲み込んだ。
器を空にすると、空腹はなくなった。

「こんなに小さくて、大変だったろう?」

器を片付けながら女が言った。
先ほどからニコニコと笑ってみているのは、颯淳より年上の女の子だった。
だが、姉よりは幼い。

「お母さん…」

かすれた声でようやくそれだけ言った。

「一緒だったのかい?残念ながら近くには見えなかったよ」
「名前は?」
「こら、花永」

颯淳は微笑もうとした。
しかし、顔はこわばったまま微笑むことは出来なかった。

「少し元気になるまで、ここにいなさいね。お母さん、探してあげるから」
「あのね、あたし、花永」
「…じゅん」
「?じゅん?」
「そう…じゅ…ん」
「ああ、名前ね。どういう字を書くの?ああ、まだわからないかな」

花永はそのまま立ち上がり、外へと出て行った。
颯淳はその後姿をぼんやりと見つめながら、景色がかすむのを感じた。

「いいよ、まだ今目覚めたばかりなんだから、もう一度お眠り」

空腹も満たされて、あの泥の中で感じたような死は感じなかった。

「こんな小さな子に悪さはしないよ。安心おし」

颯淳はゆっくりとまぶたを閉じた。
次に目覚めたときは、母がそばにいればよいと思ったが、口には出さなかった。
パタパタと足音がして、誰かが戻ってきたようだったが、颯淳はまぶたを持ち上げることが出来なかった。

「また寝ちゃったの?せっかく長老様連れてきたのに」

じいじ?じいじなら会いたかった。
しかし、颯淳の知っている村の長老とは全く違うことを今の颯淳は知る由もなかった。



其の二

「颯淳!こっちこっち〜」

はしゃいだ声で花永が呼ぶ。
颯淳は急ぐでもなく、ゆっくりと花永に向かって歩く。
昏睡から目覚めても母の姿はなかった。
それはとても残念だったが、少なくとも花永とその母はそばにいた。
役所に届けると、同じ村の者から問い合わせはあったようだった。
しかし、先ごろの洪水で村ごと流された挙句、父母とも流され、姉が引き取るには幼く、その姉すら里家の世話にならねば生きていけない。
しかも、肝心の村が再興できていない。
元いた村が復興するまで、颯淳はこの村にとどまることになった。
急に妹が出来たようで、花永は何かと世話を焼く。
花永の村は洪水に流されることはなかったが、作物は大雨で弱り、例年通りの収穫は見込めないため、それほど裕福なわけではない。
しかし、颯淳のように洪水ですべてを失った者たちが手伝いに訪れているので、颯淳もさほど冷たい仕打ちを受けることはなかった。
冬でも北のほうよりは暖かい村で、里家が空になることはない。
それも、幸いだった。

颯淳はあれから一言もしゃべらなかった。
もちろん皆颯淳がしゃべることが出来るのを知っている。
声が出ないわけでもなかった。笑い声はするのだから。
ただ、何かの意思でしゃべろうとしないらしく、花永は何とかしゃべらせようとがんばった。それを母親に止められてからは、何も言わなくなったが、言葉もなくたたずむ幼子を子供心に不憫に思ったのか、何かの拍子によく頭をなでてかわいがったのだった。
そして、どんなに急がせようとしても走ることをしなくなった。足元を確かめるようにして歩く。
一度、妖魔が里に下りてきたときは、皆が必死で逃げる中、一人立っていた。
怖くて動けないのかと、大人が抱えて走って事なきを得たが、ぐっと歯を食いしばって足を棒立ちにしていた。
長老はそんな颯淳を見て、首を振った。
おそらくこの幼子は、母が目の前に現れない限り、今までと同じ生活をすることを拒むであろうと。
花永親子にとってはニコニコと言うことを聞く颯淳は、決して預かっても邪魔になるような子供ではなかったが、同じような子供たちの中にいると、それは排除されるべき存在だった。
ゆえに、花永以外に親しい子供が出来ることはなかった。



其の三

花永親子の世話になりながら、3年の月日が流れた。
その間に王は替わり、颯淳の元いた村では再興が終わった。…にもかかわらず、颯淳は村へ帰ることはなかった。
颯淳の姉は、きっと呼び寄せてくれると言ったが、花永親子と幸せそうな姿を見て、あまり村に寄り付くこともなかった。
そもそも子供は誰かのお供なしには村を出ることが出来なかった。
世情は常に不安定で、安寧することはなかったので、村々を移動するのも妖魔こそ少なくなったが、代わりに盗賊も多かったのだ。
そろそろ小学も考えねばならなかった。
しかし、颯淳は一向にしゃべらない。
さすがに村の者も慣れた様子で接しているが、このまま小学に行っても大丈夫なのだろうかという不安はあった。
そんなときだった。
村に一組の夫婦がやってきた。
花永は夫婦を見に出て行った。
見に行ってすぐに戻ってきて、興奮した様子で母に報告した。

「お母さん、あの人たち、子供捜してるって。颯淳のお母さんかもしれない!」

花永の言葉に颯淳は身体を震わせ、振り返った。

「行こう、颯淳」

花永は颯淳の手をひいて、長老の家へと連れて行った。
長老の家の中には、確かに一組の夫婦が座っていた。
花永たち以外にも村の子供が2、3人入り口にたむろしていた。

「はい、こちらに子供が流れ着いたとお聞きして…」

夫婦のうち、男のほうがそう言った。
確か、颯淳の父は川に流されたはずだ、と花永は颯淳の姉から聞いた。
では、父は生きていたのだろうか?
母も同じく?
颯淳の顔を見ると、首を振っている。
父、ではないらしい。
では、あの女のほうは?
女のほうは始終顔を伏せていて、花永たちがいる位置から顔を見ることは出来なかった。

「颯淳、入りなさい」

長老が静かに言った。
花永に押されるようにして、颯淳は長老の家の中に入っていった。
入り口にいた子供たちは、自然に颯淳のために道を空けた。
颯淳の名前を聞いても反応しない女は、本当に母なのだろうか?
花永は、何の反応もない女の顔を見た。
颯淳もじっと見ている。
女は首をかしげ、颯淳の顔を見ている。

「…お、お母ちゃん…」

外の子供たちがどよめいた。
颯淳が話したところを見たのは初めてだった。
花永をのぞいては。
しかし、女は颯淳の言葉にもすぐに反応しない。

「それでは、こちらが…」
「そう、あの日、母とともに流された子じゃ」

男と長老は顔を見合わせて女を見る。
女のぼんやりとした姿に颯淳は駆け出したいのを押さえてじっと立っていた。

「…そうじゅん?」

「お母さん…!」

女の問いかけるような言葉に、颯淳は女の胸に走って飛び込んだ。
女は驚いたようにただ颯淳を抱きとめる。

「お母さんじゃないの?」

唇をかみ締めて花永が叫んだ。

「…花永、こちらへ…」
「長老様!どうして?」
「皆も、今は出て行ってくれるかな?
ああ、それと、誰か花永の母を呼んできてはくれぬかな?」

長老の言葉に子供たちは駆け出していく。
様子を見にきた村の大人も、なんとなく居心地悪いものを感じて出て行った。
男は長老の顔を見てうなずくと、ゆっくりと話し始めた。
この女はあの蝕の洪水で流されたきたこと。記憶がなく、かろうじて覚えているのは幼子を育てていたこと。ゆえに子供が見つかれば記憶も戻るかもしれないと探していたこと。
話すうちに花永の目からは涙が零れ落ちた。
いつの間にかやってきた花永の母は、娘のあふれる涙をやさしくふき取ってやった。
颯淳は泣いていなかった。
ただ、女にしがみつき、硬く目を閉じていた。

「記憶がないのに、颯淳を返すの?」

女に記憶の戻った様子はない。
男も困惑したように女と颯淳を見返す。
それでも、颯淳が離れないので、多分親子なのだろうという結論に落ち着いた。

「村に行ってみます。まだもう一人、子がいるようなので」

男の言葉に花永は下を向いた。
いつかは戻るだろうと思っていたが、こんな風にして戻っていくとは思わなかった。
いや、母と会えたのだから喜ぶべきなのだろう。…たとえ、その母に颯淳がわからなくとも。
花永の母は娘を抱きしめた。
うれしいはずの親子の対面なのに、なぜだか悲しくて仕方がない。
そういう娘の気持ちは痛いほどよくわかっていた。
この三年もの間、妹のように颯淳をかわいがっていた。
花永の母とて、もう一人の娘のように慈しんできた。
しかし、別れるときがきたのだ。
花永は母に顔を伏せ泣いた。
颯淳は、しがみついた母のぬくもりの中からそんな花永を見ていた。



其の四

颯淳と母、そして夫と名乗る男は、颯淳のいた村へと向かった。
そこには姉がいるはずだった。
姉も里家に世話になり、ほかの孤児と一緒に少学へと通っているはずである。
ここ一年ほどは会っていなかった。
颯淳の母は以前と変わらぬ微笑を颯淳に向けてはくれたが、颯淳を呼ぶ声はぎこちない。
颯淳は口を開いたものの、必要以外しゃべることはなかった。
男は、颯淳の母を世話するうちに所帯を持ったのだと言う。
優しげな男は、荒っぽかった颯淳の父とは異なり、それなりに颯淳にも接してくれる。何より、子どもが持てたことを喜んでくれた。
これ以上なにを望もうか。
道中は何事もなく過ぎ、やがて村へとたどり着いた。
村は以前と違って、新しく建てられた家が立ち並んでいるものの、貧しさは一向に変わっていない様だった。
幼き記憶の中で見慣れていたはずの田畑は、見渡す限りと言うわけにはいかなかった。
それでも颯淳には懐かしさで胸がいっぱいだった。
姉に会える。
花永ほどやさしくはないが、同じように颯淳を慈しんでくれた。
母が戻ってきたことを喜んでくれるだろうか。
花永…。
その名を思い出すと胸がちくりと痛んだ。
しっかりものの花永。
明るく、村の中では皆を引っ張っていくほどの快活さを備えた少女だった。
花永と出会え、花永の家庭で育ててもらったことは幸運であったに違いない。
泣きながら幸せになるようにと、見送ってくれた。
この時勢の中、花永の村もどうなるかわからず、二人が再び会えるかどうかもわからなかった。
しかし颯淳は、もし小学に行って字を習ったら、一番に花永に手紙を書こうと誓った。
颯淳たちが着くと、颯淳の母を見慣れている者たちは、生きて戻ったことを次々と喜んだ。
記憶をなくしていることを聞くと、それには触れずに村の話をした。
洪水に流されたあの日から、残ったものたちで村を再興してきたこと。それでも人手が足りずに、土地の半分以上はまだ荒れ放題であること。氾濫した川が土に恵みをもたらし、作物は見た目以上に豊作であったことなど…。
村の長老だったじいじは、昨年の冬に病を患ってなくなったことを聞いて、颯淳は胸がふさがる思いだった。
やがて小学が終わって、姉が駆けつけた。
姉は颯淳と同じように母に抱きついたが、あいまいな笑顔を浮かべる母の様子に気がついた。
男は記憶をなくしているのだと告げたとき、姉は目に見えるほど落胆した。
颯淳を抱きしめ、涙をこぼした。
会えたうれしさなのか、母に対しての悲しみなのか判別のつかぬまま、すぐに涙を振り払って男に対して向き合った。
男は姉に対してどうしたいか問うた。
男は一緒に住むつもりがあること、ここで人手が足りないなら、ここで働くつもりであることを告げた。
手続きはさほど難しくなさそうだった。
本来村を移動するのは難しかったが、颯淳の母がこの村に戸籍が残っていることや、国が乱れてあまり役所の機能が働いていないこともあった。
新しく長老になった男は、母の夫となった男の申し入れを難なく受け入れた。
姉は母とその夫を家族として受け入れるには努力を要したようだった。
それでも、家族4人の生活が始まった。


…そして、月日は流れる。
幸せとは言えないまでも、穏やかな生活。
しかし、年々生活は困窮していく。
重すぎる税と不安定な天候、代替わりしていく王。
王が存在しないとそれだけで荒れていく国。
この世界では、王がすべて。
王のいない国は荒れ、王が国を治めなければ民は死に絶えていくのだ。
何代も無能な王が続いた挙句、とうとう女王は颯淳たちを更に苦しめる布告を出した。
そして、誰も希望を持たなくなった。