台風Girl



side Kotoko


勢力を増した台風16号は、今夜1時過ぎに関東地方に上陸するものと思われます。

「う〜、何だってこんなときに夜勤なのかしら…」

窓の外、激しく木々を揺らす風を見ながらあたしはつぶやいた。
真夜中、引継ぎを終えてから、巡視のために暗く静まった病院の廊下を歩く。

「これで入江くんも当直だったらいいのにな」

懐中電灯を片手に廊下を歩くと、外のざわめきがよりいっそう強く聞こえることに気がついた。

まさかどこかのドアが開いてたりなんかして…。
なぁ〜んてまさかよね、まさか。

はははは…と乾いた笑いをしながら、なんとなく音のするほうに歩き出す。
暗い廊下に非常口の灯りがぼんやりと照らしだされたとき、あたしは思いっきり転んでしまった。

「いった〜い!!」

懐中電灯がころころと非常口のほうに転がっていく。

…冷たい。

「なんで濡れてるのよ〜」

転んだ廊下は水に濡れて滑りやすくなっていた。

え?濡れてるって…ことは…。

慌てて非常口の扉を確認すると、閉まっているはずの扉がわずかに開いていた。
緊急時には開くようになっているけど、いったい誰が開けたのよ。
こんな台風の日に開けたら濡れるの当たり前じゃない。

…誰か外に出た?

「入江さん!」

ひっ!

突然声をかけられて驚いて振り返ってみれば、清水主任が廊下を急いでこちらへ駆けてくるところだった。

「清水主任…驚かさないでさいよー」
「いないのよ!」

は?

「408の坂下さんが、消灯後に部屋を出てから戻っていないって、同室の患者さんから」

あたしは、先ほど確認した非常口を指差し、恐る恐る言った。

「あの…開いてるんですけど、非常口…」
「…外に出た可能性もあるわね」
「…あるんでしょうか…ねぇ…」
「あなた、先に行って確認してきてくれる?」

ひー、やっぱり!

「守衛さんに連絡して、主治医にも連絡しなくちゃ。当直婦長にも連絡して…」
「あ、あの、清水主任…あたし、暗いところ苦手で…」

清水主任はがしっとあたしの肩をつかんで言った。

「じゃあ、頼むわね」
「う、…はい」

がっくりとうなだれてよろよろと立ち上がると、懐中電灯を拾って非常口の扉を押し開けた。途端に風が強く吹きつけ、扉があっという間に全開になる。

ほっ、雨は今降っていないみたい。

非常口から出ると、上と下に続く階段があった。

下に行きたい…。
台風の日に非常階段を上っていくなんて考えたくない。
でも…。

「な、何で今日に限って〜」

上への階段を上りながら、下を見ないようにひたすら上る。時折吹き付ける雨の匂いの混じった風は容赦がない。

「い、入江く〜ん。…今頃もう寝てるのかなぁ」

半べそかきながら、ひたすら階段を上る。

本当にこんなところ上って行ったのかな。
えーと、そういえば坂下さんて、どういう患者さんだったかなー。
あ、確か、乳がん手術が決まって…。
…自殺?!だ、だめよ、そんなの。

階段を登る足に力がわいてきた。

だって、坂下さんは、手術をすれば助かるんだもの!

階段を上りきって屋上に着くと、すっかり息も切れ切れになった。

ぜーはー。さ、坂下さんは…。

屋上を見渡すと隅のほうで動く人影が見えた。

…いた!

あたしは夢中で走っていくと、その人影に抱きついた。

「だ、だめよ、坂下さん、自殺なんて!!手術すれば助かるのよ!」
「い、いた…。離し…」
「うまく手術すれば胸だって温存できるのよっ」
「ちょっと、ちょっと看護婦さん、痛いって」
「だから自殺なんて考え…」

抱きついた身体は思ったよりたくましく、しかも、胸が…。

「看護婦さん、誰だよ、坂下って…」

胸がない…。あ、あれ?

抱きついた身体をよく見てみれば、坂下さんに似ても似つかない男の身体だった。

「…たっく、勘違いかよ」

そして更に顔を見てみれば、憮然とした表情の男の子だった。

「え、えーと…」

耳まで真っ赤になり、慌てて頭を下げた。

「ご、ごめんなさい!」

謝ったところではっと気づく。

「ちょっと、こんな時間にこんなところで何してるのよ。病棟はどこ?」
「何だよ、関係ねえだろ」
「関係あるわよ、あたしはここの看護婦なんだから!」
「あっ、そう。好きにすれば」

まあー、すねたこの態度。かわいくない。
いくつくらいかしら?14?15くらい?

「いつまでここにいるの?」
「いいだろ、別に」
「よくないわよ。台風が来てるんだから」
「……ならいいのに」

へ?

「何?聞こえなかった」
「何でもねえよ」

そう言って男の子は後ろを向いた。

ふーん、よく見れば、結構かっこいいのかも。でも、入江くんにはかなわないけどね。
高校生のときから、入江くんはすっごくかっこよくて、頭もよくて、もちろんテニスの腕も…。って、あれ?

目の前にいたはずの男の子は更に屋上の隅へと移動していた。

「ねえ」

話しかけるが返事もしない。

「ねえってば!」

パジャマのすそをつかみしつこく話しかけると、男の子はやっと振り向いた。

「何だよ、うるせえな、離せよ!」

なんだか、昔の入江くん思い出しちゃう。

にへら〜と笑いを浮かべたまま妄想中―しばらくお待ちください―。

「…オイ、何だよ、不気味だな。あんた本当にここの看護婦かよ」

男の子の声にハッとわれに返った。

「し、失礼ね、ちゃんとここの看護婦よ!」
「へー、こんなバカっぽい看護婦もいるんだ」

……!!

カーッと頭に血が上ったけど、取り合えず何とか怒鳴ることだけは押しとどめた。

ちょっと待って、あたしは看護婦なのよ。もう少し冷静に看護婦らしくすべきよね。
そう、冷静に。

「で、どこの病棟なの?」
「見りゃわかるだろ」
「しょ、小児科ね」
「名前は?」
「人に名前聞くときは自分から名乗れよ」

な、生意気な〜。

「あたしは入江琴子よっ」
「入江〜?」
「さあ、答えなさいよ、あなたの名前は?」

男の子はとっても嫌そうに答えた。

「…樋口」
「樋口くん?下の名前はなんていうの?」
「はあ?何であんたに名前まで言わなきゃいけないの」
「あんたじゃないわよ、ちゃんと名乗ったでしょ?入江琴子よ」
「何だよ、あのくそむかつく主治医と一緒かよ」
「え?入江くんの…あ、いえ、入江先生の担当患者さんなの?」

くそむかつくとは聞き捨てならないわねっ。入江くんはとーっても腕のいいお医者さんなんだから!

「何だよ、あんたもあのセンセーのファンかよ。よっぽど有名なんだな」
「そりゃーもちろん有名に決まってるじゃない。腕も顔も頭も病院一よ!!
そりゃまだ医者としての経験は少ないけど」
「へー、お気の毒。あのセンセー、結婚してるらしいぜ」
「そうよ!」
「…何であんたがそんなに自慢気なんだよ…。
って、入江って、まさかあたしがその妻よーなんてくだらねえオチじゃないだろうな?」
「ふふふ、そのまさかよ」
「ゲッ、嘘だろ、趣味わる〜」
「なんですって!」

なんて口の悪さ。

「ねえ、でも、もう戻らない?なんだか風がさっきより強くなってきたみたいだし」
「戻りたければ戻れば?」
「こんなところに置いていけるわけないじゃない」

ましてや入江くんの担当と聞いてはなおさらよ。

屋上ではすぐ隣にいる樋口くんの声も聞き取りにくいくらいの風が吹き始めていた。

「じゃあさ、せめてもう少し風が来ない場所に移動しない?」

夏とはいえ、吹き付ける風は病人にとってあまりよくないに違いない。

「どうでもいいよ、そんなこと」
「よくないわよ!」

何の病気か知らないけど、もしこれで風邪でもひいたら…。

あたしは無理やり樋口君を引っ張っていった。本当はすぐにでも屋上からつれて帰りたい気分だったけど。

「って、何だよ、すげー馬鹿力!!」

悪態をつきながらも、樋口君はあたしに引っ張られるままタンクの並ぶ横へ移動した。
風で乾いていた地面を探して座り込む。といっても、鳥目なあたしには懐中電灯だけが頼りだったけど。

「ねえ、本当にどうしてここにいるの?」

答えてくれないだろうなーと思いつつ、一応聞いてみた。
答えはやっぱりない。

「それじゃあね、年はいくつ?あ、あたしの年は27」
「おばさんじゃん」

ムッとして樋口くんをみたけど、口調の割にはあまり笑っていないのが気になった。皮肉気な笑いを浮かべて下を向いている。

「さぞかし優秀でベテラン看護婦なんだろうねー」
「え、いやー、優秀だなんて。まだ2年目だし。えへへ…」
「何ホンキにしてんだよ。どう見たってトロくさそうで、失敗ばっかりしてそうじゃん」
「う…」

否定できないのが悔しいわ。

「で、いくつ?何の病気で入院してるの?」
「…あんたさー、あのセンセーのために聞いてんの?興味本位ならやめてくれない?」
「だって!」

樋口くんは思わぬあたしの強い口調にびっくりした様子だった。

「だって、放っておけないじゃない…」

なんだか、すごく寂しそうで。
こんなに体格のいい男の子なのに、こわれちゃいそうに見えるんだもん。

樋口くんはひとつため息をついてあたしのほうを見たけど、視線は合わない。どこかぼんやりと遠くを見ているようだ。

「年は15。病気は心房中隔欠損症。これで満足?」
「心房中隔…」

心房中隔、心房、しん…。

「…って、なんだっけ?」

かなりあきれたのか、目をあわせようとしなかったのに、思いっきり目を見開いて言った。

「はあ?あんた看護婦だろう、何でわかんねぇんだよ。心臓の心房の壁に穴が開いてるんだよっ」
「え、あはは…。ごめんんさい。ちょっと勉強不足で…」
「何だよ、センセーとは比べもんにならねえな」
「そ、その通りよ。入江くんにもいつも怒られて…」

あたしは今ここに、入江くんがいて聞かれなくてよかったと思ってしまった。絶対に怒られる。バーカとか。
でも、そんな入江くんも好きなんだけど。

「へ〜、あんた、だんなをくん付けで呼んでるんだ」
「う、うん。えへへ、もうくせで」
「ふ〜ん。おっかないよな、あのセンセー」
「ときどきね!でも、やさしいとこもたくさんあるのよ」
「あっ、そう。別にあんたのノロケ、聞きたくもないんだけど」

それだけ言うと、樋口くんはそっぽを向いてしまった。

「あ、あの、心房中隔血栓症って、確か手術すれば治るって…」
「…オイ、何で病名間違えるかなー。欠損症だよっ。血栓症じゃ詰まるだろっ」

ひー、また間違えたっっ。

「や、やけに詳しいわね」
「自分の病気くらい調べるよ、普通。間違えるあんたのほうがどうかしてるんじゃないの?」

あたしって、本当にバカかも…。

「ま、細かいことはいいからさ、入江くんに手術勧められたんでしょう?」
「ほぼ100%完治するってさ」
「入江くんがいれば、手術だって絶対成功するよ?
あ、まだ執刀医になれないかもしれないけど…。でも、大丈夫!」
「手術は西垣センセーがするってさ。ま、誰でもいいけど」
「それなら、どうしてこんなところにいるのよ?手術前ならなおさら、こんなところで体調崩したりしたら手術もできなくなるよ?」
「別に病気なんてどうでもいいけど…」
「どうでもよくないよ!」

台風の風に負けないくらい大きなあたしの声に驚いて、樋口くんは初めてあたしとしっかり目を合わせた。

「どうでもいいなんて言っちゃだめだよ。
お医者さんはね、病気の治療の手伝いをしてくれるけど、本当に治すのは患者さん自身なんだよ。
治そう!って思わなきゃ、何のために治療するのかわからないじゃない」
「それなら、看護婦は何のためにいるんだよ」
「看護婦は、そんなお医者さんと患者さんが気持ちよく治療を進められるようにいるの。
あたしはバカだけど、患者さんが笑って退院してくれればいいなって思うし、治療してよかったって思ってほしいもん。
そ、そりゃあ、治療のかいなく亡くなられる患者さんもいるけど…、後悔しないように一所懸命お世話してきたつもりだもん。
樋口くん、手術すれば治るのに…、それなのに…」

なんだか、のどの奥が少し熱くなる。
こんなことくらいで泣いてる場合じゃない。
そう思ったから、あたしは必死で涙を飲み込んだ。

「自分で、生きることをやめちゃダメだよ」

樋口くんの身体が少し動いた。何かにおびえるように…。

「あんた、いっつもそんなこと考えて生きてんの?疲れそー」
「疲れないよ?何で疲れるの?」

だって、受け持ちの患者さんが元気になって退院すると、元気を分けてもらったような気分になる。
それに入江くんがそばにいるだけで、あたしは元気が出る。
そうやって、周りの人が幸せになれればいいな、と思うから。

いつの間にかそんなことを口に出していた。

「皆が皆、幸せになんかなれないよ」
「え?あたりまえじゃない!」

あたしは少し吹きだした。これには樋口くんも驚いたようだった。

「だって、ねえ、どんなときに人は幸せになるの?幸せになるときなんて人それぞれだし、幸せじゃないときもあるから、幸せってわかるもんだと思うけど。
あたし、入江くんに会っていなかったら、また別の幸せ見つけていたのかなぁなんて思う。
あ、それは絶対嫌だけど」

それだけは嫌だ、考えられない。入江くんのいない毎日なんて想像もできない!!

「俺にとって生きてるなんて、毎日同じことの繰り返し。別に好きなやつがいるわけでもないし、学校行って、塾行って、それから…」

一つしかない明かりは、そういった樋口くんの横顔をぼんやりと見せるだけで、あたしには細かい表情など見えなかった。

「…手術するの嫌なの?」
「別に」
「じゃあ、怖いんだぁ」
「何でそうなるんだよっ」
「えー、違うの?何か、面白いことでも見つけたら?」
「うるせえな、見つけたんだよ!なのに…」

どうやらそれは樋口くんにとって言ってはならないことだったらしく、それっきり下を向いて黙り込んでしまった。

「ご、ごめんね」
「何で謝るんだよ」

そういった声が少しくぐもって聞こえたのは、気のせいじゃないみたい。

「えらそうに余計なこと言って…」
「別に、あんたに何言われたって関係ないけど」
「で、でも…」
「もう行けば?」

あたしは首を振った。

「一緒に戻ろう?」
「あんた、ここに何しに来たわけ?」
「あー!!そうだった」

坂下さん捜しに来たんだった。

「ね、ねえ、女の患者さん見なかった?」
「何で俺に聞くんだよ。知らねえよ」
「ど、どうしよう」

樋口くんは一つため息をつくと立ち上がった。

―ガッシャン!


To be continued.