台風Girl



side Kotoko2


「な、なに??」

思わず樋口くんの足にしがみつく。

「お、おまっ…はなせよっ」

急に足元をあたしにしがみつかれた樋口くんのあせったような声も気にならず、あたしはあたりを見渡す。
風の音がするだけで何も見えない

「か、風の音?…じゃないよね?」

あたしの震える声に、樋口くんはやっとあたりを見渡した。

「あ…、あれ…」

樋口くんが一方を指差す。
指差した先には、今にもフェンスを乗り越えようとしている人影が(多分)あった!

「わ、わ、わ!!」

あたしはすばやく立ち上が…ったつもりだったけど、実際には走り出した樋口くんの足に払われて一歩出遅れた。

今度こそ自殺かもっ。

樋口くんは思ったよりも早くフェンス際の人影にたどり着き、その人をつかんだ。
あたしもやや遅れて人影にたどり着いて、同じようにその人をつかむ。

「何やってるのよ、こんな日に!!」
「こんな日だろうと関係ないわよっ。
死にたいと思ったときに天候なんて気にしてられないわ!」

それはそうだ。
って、納得してる場合じゃない。

「こんな日に飛び降りても多分死ねないよ」

樋口くんの言葉にあたしとその人は一瞬動きを止めた。
樋口くんは相変わらずその人の腕つかんでいる。

「こんな風の強い日に飛び降りても、
風で吹き飛ばされるだけで簡単に死ねないような気がする。
どこかにぶつかったりするだけで、案外意識はあるままで。
真っ直ぐに下には落ちないで、ぐっちゃぐっちゃの死体がどこかに落ちて。
誰にも見つけられない場所に落ちたりなんかして。
見つけられないままカラスとかのえさになって。
見つかったときには骨だけになって、身元不明とか…」

ヒクっと、その人はひるんだ。
そのすきにあたしは樋口くんとともにその人をフェンスの下に降ろした。

はーっ、び、びっくりした。

降ろしたその人を見ると、それは紛れもなく…。

「坂下さん!!」

見つかってよかった〜〜。
死んでなくてよかった〜。

「な、何で俺がこんな目に…」

隣で同じように息をついた樋口くんにあたしは言った。

「ありがとう、樋口くん!樋口くんがいなかったら、坂下さん止められなかったかも」

坂下さんは泣きながらキッとあたしをにらんだ。

「死にたかったのよ!」
「だ、だめに決まってるじゃない」
「どうせがんなのよ!む、胸を切られるなんて…!」
「ちゃんと手術すれば治るんだよ?胸だって、温存の方向で行くって…」
「あたしはっ、あたしはまだ結婚もしてないのに!」

ぐっと、あたしは言葉につまり何も言えなかった。

「看護婦さん、何だよ、さっきのいい話、しないのかよ?」

屋上の小さなライトに照らし出された樋口くんは、ニヤニヤ笑いながらそう言った。

「いい話って、そ、そんな」

あたしは気恥ずかしさで頬が火照る。

「この看護婦さんはすっげー男と結婚したらしいから、聞けば?結婚相手の見つけ方でも」

坂下さんは、樋口くんの言葉を聞いてわーっと泣き伏せた。

「ちょっと!!」

あたしは樋口君をにらむ。

なんてこと言うのよ。
入江くんは「すっげー男」だけど、何も今言うことないじゃない。

「何だよ、うっとーしーんだよ。目の前で死なれたら俺が悪いみたいじゃねえか。
俺の目の届かねーとこで死んでくれよ」

ますます坂下さんは大きな声で泣き始めた。

「あ、あの、坂下さん」

坂下さんは顔を上げ、涙をためた目であたしをにらみかえす。

「え…と、何が不安なの?」
「手術は成功しても、胸には傷跡が残るんでしょう!」
「そ、そんなには、多分…」

えーと、ど、どうだったかな…。

しどろもどろのあたしを見て、樋口くんは意地悪そうに笑った。

きっと、バカにしてるんだ。
だって、乳がんの患者さん受け持ったことないんだもの。
いつもヘルニアとか虫垂炎とか…。

「俺の心臓の手術に比べりゃ残らねえよ」

そういって樋口くんはため息をついた。

「知ってるか?
心臓の手術はさ、こう、胸を切ったら、肋骨をぐわーっとジャッキみたいなので開けて、心臓取り出して縫うんだぜ」

そ、そうだったけ…。

思わずぽかんとして聞いていたあたしは、入江くんの言葉をふと思い出した。

『バッカ、どうしてお前はきちんと覚えないんだ。
心臓の手術をするのに、心臓止めないでどうやって手術するんだよ。
一時的に心臓を人工心肺に切り替えて、心臓を切り離してから穴をふさぐんだ。
わかったか?!』
『乳がんの5年生存率はかなりいいはずだ。
今は温存療法もいろいろあるし、手術の後放射線治療を受けたりすれば抗がん剤を使わなくても完治できることもある』

「そうよ、乳がんは5年生存率もかなりいいし、今の技術なら、傷跡を目立たなくしてもらうことだってできるもの」
「でも結婚は別よ!」

え、でも…。

「坂下さんて、この間確か婚約者がお見舞いに…」
「こんな身体じゃイヤに決まってるじゃない!」

すさまじい勢いで言われて、あたしは言葉をなくした。

「イヤ、なのかな…?」

入江くんは、イヤになる?
ううん、入江くんは、お医者さんだからきっとがんばって治してくれようとする。
そんなことでイヤになったりはしないと思う。
もし、イヤになるなら、それはきっとこんな風に自殺するときだろう。
そんな気がする。

「聞いてみたの?」
「それは…」
「聞いてみたら…?」

あたしがそう言ったら、樋口くんはこう言った。

「聞いてみてイヤって言ったら死んでもいいのかよ!」

ええっ?!

「そんな意味じゃ…」
「じゃあ、どういう…意味だよ。軽々しく言ってんじゃ…ねえよ…」

樋口くんは少し苦しげにうめいた後、胸を押さえて片膝をついた。

「樋口くん?」
「や、べぇ…」
「苦しいの?」
「さわ、ぐなよ…。ちょっと、走ったくらいで…」

あ、さっき坂下さんを助けるために…。
気づかなかった。
暗くて、顔色も見えなくて…。
ううん、いいわけだ。
わかったっていいはずなのに。

「誰か呼んでくる!」

あたしはとっさに屋上の出入り口を目指した。
…けど、開いてなかった!

ああ、そうだ、非常口から来たんだっけ。
しかも、こんな夜中に開いてるわけがない。

「だいじょう、ぶ、だから…」

仕方なく一番近い階から助けを呼ぼうとしたとき、坂下さんが言った。

「看護婦さん、ついててあげて。私が呼んできます」
「あ、ありがとう」

坂下さんが非常階段に行ってしまうと、
あたしは樋口くんを横たえようとした。

「さ、わるな、よ…」
「黙って!おとなしく言うこと聞きなさい」

樋口くんを横たえてみたものの、コンクリートの床にそのままなのも気になり、ひざの上に頭を乗せた。
脈を診てみると、かなり早くうっているものの、あまり乱れはないようだった。

「いつもこんなふうに発作が起きるの?」

返事の代わりに樋口くんはわずかに首を横に振った。

「初めて…?じゃあ、ないみたいだね」

樋口くんは少し息を吐いて、袖口で額の汗をぬぐった。

「少し、落ち着いた?」
「っだよ、何で今頃なんだよ…」
「ねえ、今思い出したんだけど、その、欠損症って、生まれつき穴はあっても大人になるまで無症状の人もいるって…。
そういうこと?」

樋口くんは額の汗をぬぐったポーズのまま動かない。

もしかして泣いてるの?

「もうやめてくれよ」
「…え?」
「あんたのだんなが主治医だからか知らないけど、関係ないのに人のプライバシーまでかかわんなよ」
「だって、まだ15なのに、生きてるのつまんないって、言うから。
担当じゃなきゃ、死にたそうに屋上ふらふらしてる患者さん放っておいていいの?」
「……!」

樋口くんは腕をはずしてあたしをにらんだ。
ひとすじの涙の跡。

「最後の試合だったんだ」
「試合?」
「こんな心臓、いらなかったよ」
「大事な…試合だったんだね」
「…何であんたが泣くんだよ」
「あ、れ?ご、ごめん」

泣くつもりじゃなかったんだけど。

「うっとおしいやつ」

樋口くんの憎まれ口をきいていたら、なんだか少し懐かしくて笑ってしまった。

「何で笑ってんだよ」
「ああ、だってね。
話せるようになった頃の入江くんに似てるから」
「はあ?」
「いっつもバカにされたけど、結局勉強教えてもらったり、結構ひどいこともいっぱい言われたなぁ」
「それって、本当に好かれてんの?」
「う、うん、多分…」
「変な夫婦」

変じゃないわよ、変じゃ。

反論しようとしたとき、非常階段から世にも恐ろしい怒鳴り声が聞こえた。

「琴子!!」

この声は…。

「入江くん!!入江くん、樋口くんが」

あたしは走っていきたい衝動に駆られたけど、ひざの上に樋口くんの頭を乗せていたのでぐっとこらえた。

「脈は?」

そう言いながら樋口くんの脈を診て、心臓に聴診器を当てる入江くんに思わず見とれてしまった。
急いで来たらしく、少し髪が乱れて濡れていた。

お風呂上りなのかな〜?

「家から来たの?髪、濡れてる…」
「病室にいないから連絡受けて。こんな天気だし。
樋口くん、発作じゃないようだね」
「だから大丈夫だって言ってんだろ」
「だって、走った後苦しそうにしてたから」
「ハイパーベンチレーションだな」

ハイターペンチ??

「過呼吸だよ、若い子に多いやつ」

ああ、過呼吸か…。

「じゃあ、立てるな?部屋に戻りなさい」

樋口くんはゆっくりと起き上がって、入江くんを見て笑った。

「はいはい、すみませんでした、入江センセー」

入江くんは息をついてから、ようやくあたしを見てくれた。
と思ったら…。

「このバカ!!発作起こしてないからよかったようなものの、患者見つけたらさっさと一緒に戻ってこい!」
「だ、だって、いろいろあって…」
「お前はいつもいつも…」

ひ、ひえ〜。
何でそんなに怒るのよ〜。

あたしが身を縮めて入江くんの怒鳴り声を聞いていたら、
樋口くんは大笑いしながら非常階段へと戻っていった。

「入江先生、その辺にして戻りませんと」

そういって、助けてくれたのは、清水主任だった。

「入江さんも、早く戻って仕事を」
「は、はい」
「坂下さんが教えてくれて…。
坂下さん、助けられたって」

清水主任の後について歩き出すと、そう言ってくれた。
入江くんはあたしの後ろでまだ少し不機嫌そうだった。
黙って非常階段を下り、元の階へ戻るときに
後ろからあたしの耳元で入江くんが言った。

「おれの患者、助けてくれて、ありがとな。
あまり、心配かけるなよ」

そう言ってあたしの頭をそっと触った。
あたしはうれしくなり、振り向いて入江くんに抱きついた。

「入江くん!!あたし、少しは役に立ったかな?!」
「オイ、夜中だぞ、静かに…」
「…い・り・え・さん…」

入江くんの身体から顔を離して振り返ると、
清水主任が今にも怒りを爆発させそうな顔で立っていた。

「そういうことは仕事の後にしてちょうだい。
カルテ整理もまだ終わっていないでしょう?!」
「は、はい〜。すみません」

また怒られちゃった…。
入江くんをチラッと見ると、涼しい顔をしている。
ちぇー。なんだかあたしだけ浮かれてる。

「じゃ、そういうことで、おれは患者の様子見て帰るから」
「え、い、入江く〜ん、台風来るよ?」
「これくらいならたいしたことない。明日も手術だから、帰って寝る」

そんな〜。

そう言って入江くんは、すたすたと何事もなかったように行ってしまった。
それから、遅れた仕事を取り戻すためにあたしはがんばった。
外は台風。
激しい雨も降ってきていた。

入江くん、無事に帰れたかな〜?

2回目の巡視の時間が来ていた。

まさか次は誰もいなくなっていたりなんかしないわよね。

台風の音がすごいのにもかかわらず、思ったより皆よく眠っていた。
ところが面会所の長いすに一人、あの坂下さんが座っていた。

「坂下さん」

坂下さんは驚いたように振り返った。

「ああ、入江さん…」
「…眠れないんですか?」
「う…ん、そうね。いろいろ考えちゃって」
「もう、死ぬ気なんてありませんよね?」

あたしは少し恐々聞いてみた。
坂下さんは少し笑って答えた。

「ええ。なんか、気がそれちゃった…」
「よかった」
「私、同情で結婚されるのイヤなの」
「え?」

ああ、さっきの話か。
ずっと考えてたのかな?

「たとえ治らなくても結婚するって言われたの」
「それなら」
「だから、同情で結婚するつもりならやめましょうって」
「でも、婚約者さんの気持ちは…?」
「…子供好きな人なの。がんの治療した後で、健康な子供生める?私、自信ない」
「子供のことはこれから考えてもいいんじゃない?」

ありきたりな慰めかもしれない。

「皆、そう言うの。でも今なら、まだ間に合う。結婚は一度白紙に戻して治療に専念しましょうって、向こうの両親にも言われたわ。
私の両親は見捨てるのかって、カンカン!怒っても仕方がないのにね。
手術すれば治るけど、なんだか疲れちゃって。
仕事ももうやめて、後は結婚するばかりになっていたし、婚約破棄したって、仕事見つかるかどうか…。
いろんなこと考えたら、もうどうでもよくなって」

ねえ、だったら…。

「坂下さんは」
「私?」
「坂下さんは、婚約者さんと結婚したくないの?」
「わからない…」
「結婚は白紙に戻っても、お互い好きならまたやり直せるんじゃないかな?きっと離れたらもっとお互いのこと大事に思うかもしれないし」
「入江さんは、あの先生とそう思える?だんなさんなんでしょう?」
「あた、あたしは…、その、あの、きっとイヤだって言われてもついていっちゃうけど」

は、恥ずかしい…。
だって、あたしはきっと入江くんと離れるなんてできないと思うから、入江くんが他の人を好きにならない限りきっとどこまでもついていっちゃうもの。

「ふ〜ん。かっこよかったものね、あの先生」
「えへへ…」
「でも、口は悪いわよね」
「ええっ!」
「私が呼びにいったとき、ちょうど主任と話していたんだけど。
『あのバカ』とか、『いつも迷惑かけて…』とか、散々ぶつぶつ言ってたみたいなの。顔に青筋立てて」

ど、どおりであの怒鳴り声…。

「でも…」

そう言ってくすっと笑った坂下さんは、その続きは教えてくれなかった。

「明日…あっと、もう今日か…、あの男の子のところに行ってお礼言うわ」
「ああ、樋口くんか」
「そう、そういう名前なの。
…ありがとう、余計な話しちゃったわね。おやすみなさい」

しっかりした足取りで坂下さんが病室のベッドへ戻るのを確認した。

あたしも行ってみようかな?入江くんにも会えるかもしれないし。
それに何より、あの涙を見てしまったし。

後はただ、何事もなく、台風の夜は過ぎていった。


To be continued.