台風Girl



side Kotoko4


坂下さんより早く、樋口くんの手術は終わった。
もちろん成功した。
手術直後の樋口くんをICU(集中治療室)で見たら、案外穏やかな顔をしていた。
樋口くんから遅れること1週間、坂下さんの手術が行われた。
その頃には樋口くんも小児科に戻ってきたけど、会えるようになるのはもう少し先のようだった。
二人とも術後の経過は順調で、リハビリに励んでいた。
一度のぞきに行ったけど、樋口くんは相変わらずの悪態で…。
本当は何度も行こうとしたんだけど、他の患者さんの手前もあるからと入江くんに釘を刺されたのだ。
手術から10日以上たって、入江くんからやっと樋口くんの病棟外への歩行許可をもらった。
すでに夏も終わりに近づいていて、樋口くんはそろそろ夏休みも終わりのようだ。
宿題は?と聞いたら、休みの最初の1週間ですべて終わったとのこと。

…どうせ、都内一の成績だもんね。

坂下さんはリハビリが終わってから来るということで、あたしたちはベンチに座った。

「日陰とはいえ、ちょっと暑いねぇ」
「だいたい、俺が来る意味あるのか?」
「あるよ。だって、もうすぐ退院でしょう?
坂下さんのほうが入院は長引きそうだから、華々しく送り出してあげるってさ」
「普通、退院のときに会えば十分じゃない?」
「見送ってほしいの?」
「ちがっ…」

あせって否定する樋口くんを見ながら、あたしは発作のことを話題にするべきなのか迷った。
昨日樋口くんを誘いに行ったらちょうどいなくて、代わりに樋口くんのお母さんがいた。物静かなきれいな人で、意外にもあたしのことを知っていた。
すぐに樋口くんが戻ってきたのでほとんど話せなかったけど、樋口くんがサッカーを始めたことは喜んでいたようだった。
初めて自分から始めたサッカーの試合に出ることは、樋口くんにとってどんな意味があったのだろう。
それはもう本人じゃないので推測でしかないのだけど、きっと何かきっかけになるはずだったに違いない。
思ったよりも樋口くんは不器用で、繊細なんだろうな。

「ねえ、心臓に、穴が開いてたでしょう?そこをふさいでもらったのよね」

樋口くんは何が言いたいのかと、いぶかしげだ。

「とっても小さな穴だったから今まで何ともなくて、たくさん走るようになって、小さな穴でも心臓が耐えられなくなったのよね」
「だから?」
「うん。なんだか、人の心みたいだなーって思って」
「心臓だしな」
「そうなんだけど。
大切なことなくすと、心に穴が開いたみたいになるでしょう?
小さなことだったら、穴はすぐに埋まるかもしれないけど、それでも少しずつ穴は大きくなることもあって…」

あたしは樋口くんににっこり笑った。

「もう耐えられないって思ったときに、きっと心が壊れちゃうんだよね。
大切な人を失ってしまうと、すごく大きな穴があいてしまって、もう元に戻らないんじゃないかと思うこともあるけど…。
いずれまた少しずつふさがってくれることもあるよね」
「で?」
「つまり…えーと、だからね」

えーと、うまく言えないなー。

プッと樋口くんは吹きだした。

おかしかったかな。

「もう、いいよ」
「うん?」
「そんなに必死に説得してくれなくても」

いや、説得って言うか…。

「もう、自殺する気なんてないし」

あ、そうですか…。

「俺、何でもできるって思ってた。
実際、今まで勉強も別に困ったことないし、スポーツだってうまくはないかもしれないけど、できなくて困ったことないし。
普通にしゃべるクラスメートだっていたし」

う、うらやましい。

「ただ、本当に一所懸命やったことなかったんだけど、同じクラブに誘ってくれたやつが、俺のことすごくほめるんだ。
そいつ、俺が入ったからレギュラーになれなかったのに。
でも、そいつ、それでも凄く練習してて…。
それだけ練習してても、そいつよりうまい2年生とかいるんだけどね。
結局俺がレギュラーになって、試合も結構いい線までいってたんだけど、準決勝でどうしても苦しくなって、病院運ばれたんだ。
そいつの代わりに一所懸命やらなきゃだめだなって、やっと思えるようになったのに。
結局準決勝で試合負けて…。
本当は、決勝にはそいつを出すつもりだったらしくて。凄く大事な試合だったのに…」
「そうだったんだ…」
「へ〜〜、結構青春してるじゃない」

ほがらかな声がして振り向くと、坂下さんだった。

「リハビリ済んだのね」
「まあね。…よいしょっと」
 
坂下さんもあたしの隣に座った。

「ばばあだな〜」
「うるさいわね、ケツの青いガキにはわからないわよ」

坂下さんは笑って言う。
右胸は温存手術で腫瘍だけ取ったけど、どうしても右腕の筋肉が弱くなるので、今は右腕が元のように動くように訓練中なのだ。
念を入れて放射線も少し当てるらしい。

「私、手術の前日に婚約解消って、言ったわ」
「え?前日〜?」
「すげぇ…」
「当然、両親はこんなときにって、怒ったし、婚約者殿は驚きすぎて何も言わずに帰って行ったわね」

そ、それは驚くでしょう。
でも、婚約やめたとは思わなかったわ。

「あれから来ないし、本当にあきれられちゃったかもね」
「…いいの?」
「別に、いいんじゃない?」
「あら樋口少年、初めて意見が合ったわね〜。
だって、解消したらそれで終わりじゃないでしょう?退院して、私からプロポーズしたっていいわけだし?」
「うわー、今度はしつこい」
「そうよ、せっかくもらった命だもん。今度はとことん生きてやるわよ。
言ったでしょう?私、生まれ変わったのよ」

坂下さんは手術前よりかなり明るくなった感じだ。
開き直ったせいかな。

「手術から目が覚めて…、まだボーっと天井見てたら、生まれ変わった気分だったわ」
「そうか?俺、結構苦しかったけど」
「苦しいの大いに結構。生きてたから苦しかったんだろうし?」
「なんだかすごーい、坂下さん」
「そう?看護婦さんのおかげね。聞いたわよ、桔梗さんに」
「な、なにを?」
「入江先生に6年片思いの末に落としたって言うじゃないの〜」
「げー、センセー気の毒〜」
「樋口くん、気の毒って、何よー」
「外科の入江って言ったら、有名じゃん。片方は凄腕で、片方は病院一ドジって」
「あはは、それ本当かも」
「坂下さんまで…」
「ゴメン、ゴメン。
でも、感謝してる。見つけてくれたのが、入江さんで」
「ほんと?」
「ほんと、ほんと」
「俺は結構迷惑してるけど」
「えー、樋口くん、ひどーい」
「ま、いいじゃない?きっとこの樋口少年も実は感謝してるって」
「えー、そうかなー」
「…調子に乗るなよ」

坂下さんはひとしきり大笑いしてから、不意に思い出したように言った。

「そういえば、私、あの台風が過ぎ去った後思ったんだけど…、入江さんて…」
「えー、なに、なに?」
「台風みたいよね」
「ああ、周り巻き込んで結構迷惑だしね」
「そうねぇ、巻き込むだけじゃなくて、近づいてくると凄く迷惑なんだけど…」

え?迷惑?!

「あ、ごめん」

坂下さんがあたしを見て慌てて言った。

「いやー、だから、迷惑なんだけど、台風の目の中に入ると穏やかでしょう?
きっと入江先生もそんな風に思ってるのかなーって思って。
それに台風が過ぎた後って、からっと晴れるじゃない。今はまさにその状態よね」
「それはちょっとほめすぎじゃないか…」

樋口くんの言葉など全くあたしには届かなかった。
そう思ってくれる人がいて、よかった。
看護婦になって、よかった。

「オイ、泣くなよ〜」
「う、うん。ありがとう。あたし、ドジばっかりやってるから、うれしくって」
「やあねー、入江さん。雨まで降らせて〜。
でも、台風のとき、もっと叫んじゃえばよかった。泣いてすっきりはしたけど、あの風の中だったら何言ったって聞こえなかっただろうし」
「それじゃあ、今叫んじゃうってのはどう?」
「立ち直りはやっ。って、いうか、誰が叫ぶんだよ。恥ずかしいだろ」
「そうねぇ、青少年の主張みたいでいいわね〜」
「俺は、やんねーよ」
「えー、樋口くんもやろうよ〜」
「そんな恥ずかしいこと誰がするかっ」

坂下さんとあたしは立ち上がって、嫌がる樋口くんをフェンス際まで連れて行った。
暑いせいか、他には誰もいない。

「さとしのバッカヤロー!!意気地なしー!!」

坂下さんは、どうやら婚約者さんの名前を叫んだ。

「やめろ、恥ずかしい」
「えー、すっきりしたわよ。入江さんも叫ぶ?」

あたしはやっぱり…。

「入江くーん!大好きー!!」

そう叫ぶと、坂下さんはニヤニヤ笑った。

「うわー、すっげぇ恥ずかしいやつ。
お、俺はやらないからな、絶対」

樋口くんはあたしたちの手を振り切って、後ずさりした。

「えー、ちょっとだけ…」

と、樋口くんを振り返ると、屋上の入り口に無表情で立っている人が…。

「い、いり、入江くん!き、聞いてたの?!」
「…聞きたくなくても聞こえるよ」

キャー、入江くんがいないと思って叫んだのに〜!

「下の階の医局に丸聞こえ」
「え、うそっ」
「…て言っても今誰もいないけどな」

よ、よかった…。

「樋口くんの心エコー(心臓超音波検査)やりたいんだけど」
「あ、ど、どうぞ」

樋口くんはあたしと入江くんのやり取りを見てから、ニヤッと笑って言った。

「あ、看護婦さん。俺の下の名前教えたら、名前で呼んでくれる?」
「う、うん、いいわよ」

そう答えたら、入江くんはなんとなく嫌な顔をした。
樋口くんはそんな入江くんに気づいてないようで、すまして言った。

「なおき」
「えっ?」
「樋口直紀」
「な、なお…?ええーっ」

あたしの顔はさーっと赤くなった。

「そう、呼んでくれるよね?あ、字は入江センセーの直に世紀の紀」
「えーっと、あの…」

よ、呼べないっっ。
呼べないよ〜〜。

入江くんを見ると、入江くんは何も言わない。
でも、なんとなく怒ってる?
さっきバカなことを叫んだから、あきれてるだけ?
ちょっと不機嫌?
…実はすごーく不機嫌…だったりして…。

「あははははは、さいこっ」

坂下さんはおなかを抱えて笑っている。

「あ〜、傷にも響く〜」
「坂下さん、そんなに笑うことないじゃない」
「だって〜」
「ほら、ほら。こ・と・こ・さん。約束したじゃん」
「こ、ことこさん??」

やっと樋口くんにからかわれてるんだってわかって、あたしは入江くんに助けを求めようと見た。
でも、入江くんはいつの間にか階段を降りて行ってしまったみたいで…。

「い、入江く〜〜ん!」

あたしは笑い転げる二人を屋上に残し、入江くんを追いかけるために階段へ向かった。
でも、入江くんはすごーく早足で行ってしまったみたいで、すでに影も形も見えなかった…。

「もう、もう…意地悪〜〜〜!」

夏の青空に、あたしの涙声と坂下さんと樋口くんの笑い声が響いていた。


台風Girl side Kotoko−Fin−