台風Girl



side the other


1.Woman

主治医からの検査結果を聞いて、両親は泣いた。

「結婚前の娘なんです。本当に治るんですか?!」
「絶対という言葉は世の中にありませんが、治る確率が高いと思います」

主治医は淡々とそう答えた。
私はといえば、ただ、呆然としていた。

まさか、私が、がん?しかも、乳がん?

呆然としすぎて、泣くのも忘れていた。
その後は即入院が決まり、即手術の日が決まった。他の予定者をすっ飛ばしてスピード決定だ。
若い人は転移が早いから。
多分、そう言っていたと思う。
もう、あまりそのときのことは覚えていない。

結婚式の日取りも決まり、ブライダルエステなんか申し込んで、優雅にマッサージを受けていたときのことだった。
胸の開いたドレスを選んでいたので、念入りにデコルテの部分もケアしてもらうことになっていた。
エステシャンが右胸に触れたとき、少し顔を曇らせた。

「坂下様。非常に申し上げにくいのですが…」
「はい?」
「あの…ここに、小さなしこりがあるのですが、お気づきでいらっしゃいましたか?」
「しこり?」
「…ええ。生理前ですと、しこりのようなものに触れる方もいらっしゃるんですが」
「今は生理前ですけど?」

自分で触れてみたが、エステシャンが言うほどのしこりはよくわからなかった。

「申し訳ありません、出すぎたことを。
ただ、以前同じようにしこりのあったお客様が、病院で診てもらいまして乳腺の病気が見つかりましたので」
「はあ…」
「本当にすみません、余計なことを申しました」
「あ、いえ」

生理も過ぎて、忘れかけていた頃、ブライダル検診なるものを耳にした。
友人たちと、そんなことまでして嫁ぎたくないわよねーなどと笑い話にしていた。
笑った後で、気づいたのだ。
自分の胸に残る小さなしこりを。
良性のものも多いという家庭の医学を信じて診察した結果、とんでもないものを突きつけられたのだ。
まさに世の中真っ暗。
結婚話に浮かれていた私は、一気にどん底。
治るのか、治らないのか?
両親も呼ばれて結果を聞いてから、入院、手術まで異様に早かった感じだ。
当然、婚約者の耳に入り、婚約者の両親の耳に入り…。

「こう言っては何ですけど、病気をきちんと治療してからまた改めて…」

当然かもしれない。
婚約者殿は優しくて。…本当に優しくて。
私に、婚約をやめようとも、待ってるとも言えないまま、あいまいに笑って見舞いに訪れた。
そんなあの人に、両親はやんわりと言った。

「せめて病気が治るまで、この子の力になってあげてほしいんです」

そんなことを言ったら、優しいあの人は絶対に嫌と言えない。いやだと思っても、口には出さないかもしれない。それが本当の優しさかどうかはともかく。
そして、何も言わないのだ。
ただ、手術が無事に済むといいね、とだけ言った。
あの人は、そういう人だった。

手術まであと2週間に迫った日、残すところあとは全身の転移の有無を見る放射線検査を済ませばよかった。

「坂下さ〜ん。明日の朝は採血があるからね〜」

陽気なオカマ(あ、失礼)な担当看護士の桔梗さんが言った。

「でもラッキーよ。担当は主任さんだから」
「ラッキー?」
「そーよ。琴子だったら、ただじゃすまないわよ〜。
今日の夜勤は主任さんと琴子と…」

桔梗さんと同期の看護婦、入江さんのことを言っているらしかった。
いつも何か失敗して怒られている。
命にかかわることじゃないだけましかも。
正直担当にならなくてよかったと思った。
あれでどうして看護婦でいられるのか、よく免許が取れたものだと感心するくらい。
あたしは表面上穏やかにしていたけど、本当はそんなことどうでもよかった。
婚約者殿の煮え切らない態度に頭来て、その日はつい怒鳴った。

「こんな私なんて待つ価値もないわよ!嫌ならはっきり言いなさいよ!」
「そんなこと、僕は思ってないよ」
「じゃあ、どう思ってんのよ」
「僕は君と結婚するって決めたときと気持ちは変わってないよ。たとえ治らなくったって結婚はするよ」
「治ったって…同情で結婚されてもうまくいかないわよ」
「両親がどんな風に言ったかは知らないけど、僕は一言もやめるなんて言ってない」
「もう、今日は帰って…」

考えれば考えるほど、あの人は本当にそう思っているのか、それとも別なことを考えているのかわからなくなった。
手術の内容を聞いて、もっと嫌になった。
手術は年齢などを考えて温存手術に決まった。
ただ、放射線検査で転移があったり、手術のときに思ったより大きかったりすれば当然温存なんてことは言っていられなくなる、と。
まだ、30にしてこの宣告はきつかった。
描いていた普通の生活が、音を立てて崩れ去るようだった。

かくして。
私は夜の廊下をふらふらと歩き出した。
どこか、病院じゃないどこかへ行きたかったけど、病気を治すことにもまだ未練があって、どこにも行けなかった…。
廊下の端まで歩いて行ったとき、なんとなく非常口の取っ手を握った。
ありえないことに、非常口は簡単に開いた。
そこが非常口だから開いていたのか、鍵が壊れていたのか、誰かが閉め忘れたのかはわからないけど、私は深く考えもせずに非常口の取っ手を回し、外へと続く階段に出た。
天気なんてどうでもよかったので、外の強い風に少し驚いた。
雨が少し降っていた。
生暖かい嫌な風が吹いていたけど、上へと向かって続く階段を勢いよく上り始めた。


2.Boy

学校の成績はよかった。
何で皆そんなに必死で勉強するのかと思うほど。
塾へも行っていたけど、塾の先生にやめたいと言ったら強引に引き止められた。
合格率をあげるための駒でしかないとわかった。
正直、運動も別に苦手なものはなかった。
学校でやるスポーツくらいなら失敗なくこなせたし、オリンピックは難しいにしても、そこそここなせる自信はあった。
まあ、あまり興味はなかったけど。
ラブレターらしきものも何度かもらった。
他のやつらの話を聞くと付き合うのが面倒そうだったので、取り合えず全部断っていた。
子供の頃から、あまり興味を引くものは少なくて、母親もそんな俺に少々戸惑い気味だった。

ところが中学3年の、しかも夏前に弱小サッカー部から懇願された。
あまりにも弱小すぎて人数も人材も少ないので、今ならレギュラーで出られると言われた。
同じクラスのやつが熱心に誘った。

「お前、授業でやったサッカー、うまかったよな。
他のやつらに話したらぜひ連れてこいって」

気乗りしなかったけど、クラブ活動をすると当然内申点もよくなるので、やっておいて損はなかった。
暑い中毎日の練習に出ることと、向こうから誘っておきながら突然レギュラーになった俺に風当たりが強いのだけがうっとおしかったけど、サッカーすること自体は結構楽しかった。
今まで勝ち抜いたことがないという市内の大会に1勝すると、さすがにチームのやつらも歓迎ムードになった。
俺を誘ったクラスのやつは、俺が入部したためにレギュラーからはずされることになった。
ひいき目に見てもそいつよりうまい2年生がいて、そいつが3年生で最後の試合でもなければレギュラーにはなれないくらいの実力だったから、俺にはどうすることもできなかったんだけど。
練習が厳しくなった頃から、俺は少し体のだるさが気になった。
ダッシュを繰り返すと、息苦しさを感じた。
熱くなってきた日差しの中で練習をするのだから、仕方がないことなのかもしれないと思った。
大会は順調に勝ち進み、俺は少しばかり得意げだった。
準決勝戦になり、俺はあいつからうれしげな報告を聞いた。

「樋口!俺、決勝になったら、レギュラーで出られるかもしれない!」
「へー、よかったじゃん。お前、ずっと練習してたもんな」
「うん、うん。樋口のおかげだよ。練習も付き合ってくれて。
今日もがんばってくれよ!お前なら大丈夫だよ!」
「決勝、一緒に出ような」
「お、俺、樋口がレギュラーとってもあまり悔しくなかったんだ。実力の差がありすぎて。
でも、今はホント、一緒に走りたいよ!」

結果を言えば、準決勝戦、俺は最後まで戦うことはできなかった。
俺だけのせいとは思わないけど、準決勝戦は負けてしまった。
前半戦もいいところで、俺はあの息苦しさが再び襲ってくるのを感じた。
走ろうとしても、足が前に出なくなった。
心臓が、凄い速さで打ち、苦しくなって、そして…。

俺は、胸を押さえたまま、意識を失ったらしい。
救急車を呼んで大騒ぎになり、駆けつけた母親は泣いていた。
気づいたときは、病院のベッドの上。
病名は心房中隔欠損症だった。
起き上がれるようになって調べてみると、心臓の壁に穴が開いているということらしい。
小さな穴は、普通に生活をする上では特に不都合はなく、大人になるまで気づかない人も多いということだった。
俺の場合は、今までまじめにスポーツなんかしたことがなかったのに、急に負担をかけて急激に悪化したらしい。
夏休み中だったこともあり、急きょ手術が決まった。
実は結構心臓の負担は大きかったらしく、1週間後には手術が決まった。
そして小児科に移り、やっと落ち着いた頃、学校の先生が見舞いに来て言った。
残念ながら負けてしまった、と。
それは、仕方がないかとも思ったけど、急にあいつの顔が浮かんできて…。
徐々に息苦しくなり、手がしびれてきて、まともに息が吸えなくなった。
その場にいた先生は発作かと慌てたけど、主治医のセンセーは心電図を見て、俺にビニール袋を口に当てて言った。

「すぐに落ち着く。心臓じゃない」

言ったとおり、ビニール袋を口に当てて息をしているうちにすっきりと治った。

「…過呼吸だ。
酸素の取り込みすぎで適度な二酸化炭素が足りなくてなる。
コンサートで倒れるやつと一緒だな」
「試合のときに倒れたのは?」
「それは違う。肺動脈に負担がかかって…。
ま、心臓病の診断に間違いはないと思うけど?」

まだ何か?とでも言いたげな表情だった。
指導医なんてものがついてるペーペーの医者のくせに、えらく優秀だとかで小児科の看護婦の噂の的だった。
しかも、すでに結婚しているというから更に看護婦は色めき立っている。
結婚してるから色めき立つっていうのもおかしな話だ。

「…過呼吸は、心理的な要因が大きいんです。
たとえ心臓が治っても、今後も起こる可能性はあります」

俺に心理的要因があると断言したような言い方に少し腹が立った。
多分無表情であまり感謝してるとは思えない顔をしていたのだろう。
そばにいた母親は、俺をとがめるような表情を見せて主治医に頭を下げた。
主治医は少し笑って、俺の頭をくしゃっとなでた。
凄く意外だったけど、あまりに子ども扱いされたのが悔しくて、俺はムッとしてそのままベッドにふて寝した。

消灯時間になっても、その日は眠れなかった。
昼寝したのも原因だったけど、訪れた台風の風の音におびえて眠れない子供が多く、どこからか泣き声が響いていた。
夜中になって、ようやく泣き疲れた子供たちは眠ったらしく、病棟には風の音だけが響いていた。
俺はなんとなく起き上がり、外の様子を見たくなった。
夜勤の看護婦もまだ来る時間ではないので、ちょうどよかった。
ただ、病室の窓のカーテンはぴっちり閉められていたので、どこか他の場所を探すしかなかった。
小児科の廊下の壁は甘ったるいピンクや薄緑色をしていて、十分に明るい感じだった。
小児科を抜け出し、隣の外科病棟を歩いていくと非常口につきあたった。

「台風が来るんだから、ちゃんと窓は確認したわね?」
「えっと、大丈夫だと思います」

外科病棟のナースステーションからの声だった。
俺は見つからないように移動しようと、非常口の取っ手に偶然手を置いた。
それは、なぜか開いていた。
壊れていたのかもしれないけど、これは幸いとばかりに俺は少し外を見るつもりでそのまま出てみた。
雨はやんでいて、近づいている台風の風だけが俺の背中を押した。
上へと続く階段を前にして、俺はゆっくりと階段を上り始めた。
いっそのこと、これで発作が起きてしまえばいいのに、とも思った。


To be continued.