side the other2
3.Sakashita
屋上まで上りきると、なかなか凄い風だった。
時折吹く強い風はただの風ではないようで、雨はやんだものの実は台風が近いことにようやく気がついた。
フェンス際まで行くと、ぼんやりとフェンスにもたれてみた。
屋上は薄明かりくらいで、私のいる位置はかなり暗い。
このまま闇に溶けてしまいたいと強く願った。
どれくらいぼんやりとしていたのだろう。非常階段付近にどうやらもう一人現れたようだった。
ただ、この位置からは非常階段も見えないので、すぐには私に気づかないだろう。
捜しに着た誰かじゃないといいななどと思ったけど、同じようにパジャマを着ているので、どうやら患者のようだ。
こんな日に好き好んで出てくるやつもいるものだ。
少しうろうろしたところで姿が見えなくなったので、どうやら戻って行ったらしい。
私はなんとなくほっとしてフェンスの外側を見つめた。
強く吹く風は、私の髪を巻き上げていく。
がんと言われてから両親はよく泣いていたけど、私は泣けなかった。
胸に針を刺されたときも痛かったけど泣けなかった。
まあ、それで泣くのもどうかと思うけど。
自分の身体なのに、自分のものでないようだ。
心にはぽっかりと穴が開いて、何もない。
少し前まで浮かれきっていた自分がバカらしく思えるほど、今の私の気分はどん底だ。
胸をがんで切らなければならなかった人の写真を見てしまったら、とても耐えられそうにない。
いや、切らなくても助かるかもしれない。でも、転移の可能性は捨てきれない。
どちらにしてもこんな気持ちのまま結婚なんてできない。
いろんな気持ちがぐるぐると回りだす。
強く目をつぶると頭がくらくらした。
フェンスを握る手に力がこもった。
本当に、もう、どうでもよくなってきた…。
…このまま飛び降りてやろうかしら。
フェンスもそれほど高くないし…。
病院としてどうかとは思うけど、飛び降りる側にとってはかなり好都合だ。
幸い誰もいないから、飛び降りるなら今のうちよね…。
私は手が白くなるほどフェンスを握り締めていた。
そして、勢いをつけてフェンスに足をかけた。
4.Higuchi
台風の様子を見るだけだったはずが、つい屋上まで来てしまった。
時折強い風が耳元でうなる。
学校の先生が来てから、特に見舞いは来ない。
俺の発作の様子に恐れをなしたのか、誰かが止めているのか、夏休み中で俺の入院を知るやつも少ないだろうしこんなものかもしれない。
自分でも誰かが見舞いに来たらどう対応していいかわからない。
それに、誰が見舞いに来るというのだろう。
あまり想像できなかった。
このまま死んでもひょっとしたらあまり悲しむやつもいないかもしれない。もともと親しいやつなんてほとんどいないようなものだし。
きっと別れて数年後には、あんなやつもいたな、で終わる程度だと思う。
実際、俺が思い出すようなやつも数えるほどしかいない。
サッカーに誘ったあいつは、いったい俺をどんな風に見ていたのだろう。
風に押されるようにして屋上を歩きながら、空を見上げる。
雲が凄い勢いで飛ばされていくのを見ていたら、誰かが走り寄る音がした。
急に抱きつかれて叫ばれた。
「だ、だめよ、坂下さん、自殺なんて!!手術すれば助かるのよ!」
あまりに突然そう言われて驚いたけど、どうやら人違いらしい。
よく見れば白衣を着ているので、ここの看護婦らしかった。
看護婦は俺の胸を確認すると間違いに気づいたらしく、ようやく勘違いだとわかったようだった。
「ったく…、勘違いかよ」
慌てて謝ってきたものの、かなりとろそうな看護婦だ。
しかも間違えたくせに急に強気になってここにいる理由を聞いてくる。
「いつまでここにいるの?」
「いいだろ、別に」
「よくないわよ。台風が来てるんだから」
「台風に飛ばされるくらいならいいのに」
そうつぶやいた言葉は、看護婦には聞こえなかったらしい。
本当に、このまま台風に飛ばされたほうが気が楽かも。
看護婦はしつこく俺に付きまとう。挙句にパジャマをつかんで話しかけてくる。
「何だよ、うるせえな、離せよ!」
そういってつかまれたパジャマを引っ張って直すと、看護婦はボーっと一人の世界に浸っている。
それがあまりにも不気味でつい声をかけた。
「…オイ、何だよ、不気味だな。あんた本当にここの看護婦かよ」
はっとわれに返ったように俺を見る。
もしかして、なんちゃって看護婦か?
名札は暗くてよく見えない。
「し、失礼ね、ちゃんとここの看護婦よ!」
「へー、こんなバカっぽい看護婦もいるんだ」
そう返すと、怒りに震えていたが怒鳴り返しては来なかった。
怒ったり笑ったり、看護婦とは思えないほど喜怒哀楽が激しい。
名前を聞くので自分から名乗れと言ってやったら、自分は「入江」だという。
…主治医と一緒かよ。
あまり聞きたくない名前だ。
しかも小児科の多くの看護婦と一緒で、あのセンセーのファンらしい。
現実を思い出させてやろうと、ちょっと意地悪ついでに言った。
「へー、お気の毒。あのセンセー、結婚してるらしいぜ」
なのに、えらくうれしそうに返事をしやがる。
なんとなくいやな予感がして思わず口にした。
「って、入江って、まさかあたしがその妻よーなんてくだらねえオチじゃないだろうな?」
冗談のつもりで言ったのに、本当にそうだった!
こんな偶然ありかよ。
しかも、美人でもなく、頭も悪そうで、あの優秀らしいセンセーが何を考えて結婚したんだか。
しかも、看護婦とかよ。
…まあ、俺には関係ないけどね。
俺を放っておいて帰るかと思いきや、風邪を引くからと腕を引っ張って移動させられた。
どうせ引っ張るなら病室に帰らせればいいのに、変な看護婦…。
「ねえ、本当にどうしてここにいるの?」
俺にもわからないこと聞くなよ。
聞いてもいないのに、自分の年を27だと言った。
正直、27の割には子供っぽい。
落ち着きがないというか、色気もないし、このシチュエーションで襲う気にもなれない。
…そんなこと考えるのもばかばかしいか。
「さぞかし優秀でベテラン看護婦なんだろうねー」
「え、いやー、優秀だなんて。まだ2年目だし。えへへ…」
「何ホンキにしてんだよ。どう見たってドンくさそうで、失敗ばっかりしてそうじゃん」
「う…」
否定しないところを見ると、どうやら本当にドンくさいらしい。
「で、いくつ?何の病気で入院してるの?」
あまりに聞いてくるので本当に腹が立ってきた。
「…あんたさー、あのセンセーのために聞いてんの?興味本位ならやめてくれない?」
うっとおしいから…。
なのに、何を考えているのか「だって!」と強く返された。
その勢いに少し押された。
「だって、放っておけないじゃない…」
あまり理由になっていなかった。
俺はため息をついてあきらめて病名を言った。このまま放っておいてもしつこそうだったし。
なのに、病名を言ってもなにやら考えた挙句、どんな病気かわからないと平気で言ってのけた。
本当にバカかも、こいつ…。
何で患者の俺が看護婦に病名の説明してるんだ。
「何だよ、センセーとは比べもんにならねえな」
「そ、その通りよ。入江くんにもいつも怒られて…」
だんなのことを「入江くん」と呼んでいるらしい。
それをからかうと、のろけようとした。
なに考えてんだ、こいつ。
しかも、今度は先ほど言ったばかりの病名を間違えた。
やっぱりバカだ、こいつ…。
手術の話になると、看護婦らしくもっともらしいことを言った。
「手術前ならなおさら、こんなところで体調崩したりしたら手術もできなくなるよ?」
「別に病気なんてどうでもいいけど…」
そう言いかけると、大きな声で俺を真正面から見て言った。
「どうでもよくないよ!」
そう言って、半泣きになりながら必死で言う。
風の音がうるさくて半分くらいしか聞いていなかったけど、俺の目を見て言った言葉に少し心が痛かった。
「自分で、生きることをやめちゃダメだよ」
少しだけ見透かされた気持ちを隠すように言い返した。
「あんた、いっつもそんなこと考えて生きてんの?疲れそー」
からかったつもりだったのに、看護婦は不思議そうに言った。
「疲れないよ?何で疲れるの?」
天然バカかもしれない…。
「だって、受け持ちの患者さんが元気になって退院すると、元気を分けてもらったような気分になる。
それに入江くんがそばにいるだけで、あたしは元気が出る。
そうやって、周りの人が幸せになれればいいな、と思うから」
そんな簡単に…。
「皆が皆、幸せになんかなれないよ」
「え?あたりまえじゃない!」
さも当然とばかりに吹き出した。
天然バカっぽいから、いつも幸せ満々かと思った。
それでも、やっぱり俺よりは幸せそうだよな。
「俺にとって生きてるなんて、毎日同じことの繰り返し。
別に好きなやつがいるわけでもないし、学校行って、塾行って、それから…」
少しばかりサッカーして、友達とくだらないことしゃべって…。
もう、それもないだろうけど。
手術すること自体は仕方がないし、別に怖くはない。
それなのに、不意に
「何か、面白いことでも見つけたら?」
などと言われたので。
「うるせえな、見つけたんだよ!なのに…」
言わなくていいことまで叫んでしまった。
そんなこと、こいつに言うつもりはなかったんだ。
母親は、高校へ行ったらまたサッカーをやればいいと言った。
たしかに、サッカーは続けてもいいかもと思った。
でも、今年の夏は来年の夏とは違うだろうし、チームメイトも変わる。
こんなことでぐずぐず考えているのは、俺らしくない。
看護婦は俺の痛いところをついたのを感じたのか、謝ってしょぼんとしている。
どうでもいいけど、こいつ、いったいいつまでここにいる気だろう。
「あんた、ここに何しに来たわけ?」
「あー!!そうだった。ね、ねえ、女の患者さん見なかった?」
そういえば、さっき俺を女の患者と間違えていたっけ。
今頃思い出すなんて、後先考えないやつだなー。
今だって、仕事の途中だろうし。
俺はため息をついて立ち上がった。
そのとき、どこかでガッシャン!という何かの音がした。
瞬間、看護婦は俺の足にしがみついた。
「お、おまっ…はなせよっ」
あまりに急につかむので、驚いた俺はその手を振りほどこうと必死になった。
「か、風の音?…じゃないよね?」
つかんだまま、恐々そう俺に言った。
風の音があんな音させるかよ。
そう思って辺りを見回すと、誰かがフェンスをよじ登っているような…。
人がいるなんて、全く気がつかなかった。
「あ…、あれ…」
フェンスのほうを指差した。
指差すうちに、その人影はフェンスを今にも乗り越えようとしていた。
俺はなんとなくやばいものを感じて、看護婦の手を蹴散らして走り寄った。
フェンスの向こう側に行く手前でその人影をつかんだ。
慌ててよじ登ったので、スリッパはどこかへ飛んでいった。
To be continued.