台風Girl



side the other5


9.Naoki and Higuchi and Sakashita

結局、医局の片隅で夜を明かした俺は、なんとなくすっきりしないまま回診へと向かった。
手術の前に確認したいことがあり、先に小児科のほうへ行った。
カルテを見ていると、ナースステーションの出入り口でなにやら騒いでるやつがいる。まあ、見なくてもわかるけどね。
しかし、その騒がしさに小児科の主任が様子を見に行く。
その叫んだ名前を聞いたら、やっぱり琴子だった。
俺はカルテから目を上げて出入り口の方を見た。
慌てた様子の琴子とからかっている様子の樋口くん。
またもや騒ぎが起こる前に、俺は立ち上がって琴子のほうへ歩いていった。
注意がてら、カルテで軽く頭をたたいた。
夜勤はいろいろあって疲れたのだろう。いつもよりくっきりと目の下にクマができていた。

「帰って寝ろよ」

そう言っただけでうれしそうな顔をする。
ナースステーションの前でまた抱きつかれても困るので、少しだけ意地悪く言う。

「すげークマ」
「入江くんの意地悪!」

琴子は目の下を押さえて顔を真っ赤にした。
琴子から視線をはずすと、樋口くんと目が合った。
すぐに面白くなさそうな顔で目をそらされた。
そして、病室とは別な方向へ行ってしまった。
…15の少年相手に張り合っても仕方がないか。
仕方がない、後で呼び戻すか…。


* * *


朝っぱらからだんなを見るために、ナースステーションを覗き見しているやつなんて聞いたことがない。
しかも一人でニヤニヤして不気味だった。ちょっとからかってやったら、すぐにホンキで怒りだした。
今度はだんなであるセンセーまで出てきて、同じようにからかう。
ところが今度は涙目になりながらすねている。
センセーとは目が合った途端にそらしてやった。
その目は、まるで俺のおもちゃに手を出すな、という感じだったのだ。
ああ、そう、俺がからかっちゃいけないわけね。
自覚があるのかないのか、結構あのセンセーは敵を作るタイプに違いない。
そのまま回診を受けるのも面白くないので、病室へは戻らなかった。
なのに、あの看護婦ときたら後からしつこくついてくるのだ。
わざとトイレに入ったら、トイレの中にまでついてこようとした。

「何よ!トイレじゃない!!」

またもやホンキで怒っているので、おかしくなった。
しかも、まだめげずについてくる。

「ねえ、樋口くん、こっち、こっち」

急に腕をつかまれ、抵抗できないうちに階段を上らされた。
って、こいつ、俺が心臓病持ってるなんてすっかり忘れてやがる。
普通にエレベータ、使わせろよ、全く…。
なんとなくわかっていたけど、重い扉を開けると、そこは夜にいた屋上だった。
しかも、自殺未遂女まで来ていた。
おい、おい、普通に来るなよ、ここに。

「ええ、その自殺を未遂に終わらせていただいてありがとうございました」

あまりにすっきりとしていたので、驚いた。

一晩で解決済みかよ。お手軽だな…。

そう簡単に思ったけど、自殺したかったなりの悩みは一応あったわけだ。
看護婦相手に婚約解消するだとかしゃべっている。
夜とはうって変わってきれいな青空に、俺は目を伏せた。


 * * *


あまり面白くもない私の話を、樋口少年はじっと聞いていたようだ。
夜に苦しそうだったのは、心臓発作ではなかったという。
それなら、どうしてあんなに苦しそうだったのだろう。
樋口少年に歳を聞くと、中学3年だという。

「受験生だー。受験に悩んで…とかじゃないよね?」

まだ夏休みのせいなのか、あまり受験生という感じはしない。
私の言った意味がわかっていないようだったので、わかるように一語一句はっきり言ってみた。

「じ・さ・つ・み・す・い」

図星なのか、何か思い出したのか、ともかく樋口少年は今までにないあせりようで否定した。
それが面白かったので、少しいじめてみた。

「いいの、いいの、わかってるわよ。
あんな時間に、あんな天気の日に、1時間近くも屋上うろついてる人はね〜」

実際見てないけど、それくらいの間うろついていたとしたら、いったい何を考えてうろついていたのだろう。
それこそ、あんな日に、心臓の悪い子が。

「色恋沙汰…でもなさそうよね。まだ中学生じゃね〜」
「あ、あんたなー」
「でも、結構もてるでしょう?
顔もまあまあ、筋肉の発達もいいから運動してそう。
あ、頭悪いとか?」
「悪いけど、都内で模試成績トップなんだけど」
「あ、へ〜、頭もいいんだ〜。ちょっといやみなやつよね〜」

いったいそれで何の不満があるのだろう。
まあ、私だって中学の頃は、勉強がいやだとか、友達とけんかしただとか、結構くだらないことで悩んだものだったけど。
…ああ、そうか。
樋口少年もそんなものかもしれない。
あまりにも憎まれ口をたたく生意気なだけの少年かと思ったけど、ただの中学生だものね。

「ねえ、私、今日は生まれ変わった気分なの。
こんなに天気もよくて。
手術受けたら、きっとまた生まれ変わった気分になるね、きっと」

願わくば樋口少年も、もうあんな思いで屋上を訪れることがないようにと思う。
手術が終わったら、もう一度やり直そう。
三度命を与えられた証に。
私は青空の下で背伸びをしながら、あの人に会ってやっぱり婚約を解消しようと決めた。


 * * *


自殺未遂女は、やけに晴れ晴れとして生まれ変わったと言った。
…俺も、手術が終わったらそんな風に思えるだろうか。
いや、あの発作がなくならない限り、無理な気がする。
センセーは、苦しくなる原因を取り除けばなくなると言った。
原因を取り除こうにも、もう試合は終わってしまったし、それはもう取り戻せない。
回診をサボったためか、わざわざ屋上までセンセーが来た。
どうせそれは表向きで、この看護婦のことが心配だったに違いない。
俺に泣かされてるとでも思ったんだろうか。
確かに背は高くて、顔もいい。頭もいいらしい。
患者に対しての態度はいつもあたりさわりない。
そんなやつのどこがいいのか、小児科の看護婦はいつもうるさく騒いでいる。
それなのに、極めつけ変人なところが、この看護婦と結婚してるというところだな。しかも、奥さんであるこの看護婦をのぞいては、全く必要以外の話をしないのだ。
まあ、その話の内容もあまり愛があるとは思えない辛らつな会話が多いけど。
だからこそ看護婦が騒ぐのか?

「あんた、がんばらないと、センセーとられるぜ」
「なっ…、とられないわよっ」
「へー、そう。すごい自信。
さぞかしすばらしい夫婦愛があるんだろうねー」
「す、すばらしい?」

自分でも思いつかないのか、考え込んでいる。

「看護計画手伝ってくれたりとか…?」

…医者に手伝わせるなよ。

「料理下手でも食べてくれることとか…?」
「うわっ、最悪」

とろくさいうえに料理まで下手とは…。まあ、想像できるけど。
でも、食べるんだ…。胃腸がよほど丈夫なんだろうか。

「まー、その程度だろうねー」

そう言って、俺は屋上を出て行った。
きっと大真面目に考え込むんだろうなー。
想像すると、ちょっと笑えた。


 * * *


家に帰るなり、琴子が言った。

「ねえ、入江くん、夫婦愛って、どんなの?」

またこいつはいったい誰に何を吹き込まれたんだ。
取り合えず何も答えずに無視して、そのまま食事をして、風呂に入った。
おふくろはそんな俺に容赦なくわめいた。

「だいたいお兄ちゃんは琴子ちゃんに対して…」
「お、お義母さん…」

聞いていると長くなりそうだったので、俺はさっさと寝室へと引き上げた。
琴子はそっと寝室に入ってきて、おずおずとまた聞いてきた。

「入江くんの考えてる夫婦愛って、どんなのかなーと思って。
あ、もちろんあたしの下手な料理食べてくれたりとか、凄くうれしいし」

…わかってんなら聞くなよ。
俺はわざと琴子を見ずに書類を片手にしていた。

「で、でもね、その、言葉で言われてみたいな〜なんて…」
「なに、それ」

そうそうこっぱずかしくて口にするわけないだろ。

「何それって、だって…」

またすぐに半泣きになる。
仕方ない。
俺は書類からうつむいている琴子に視線を移して、ため息をついた。

「また、誰に言われたんだ」
「それは、あの…」
「中学生に言われたことまでいちいち気にするな」

どうやら図星だったらしく、手に口を当てて真っ赤になっている。
俺は先ほどの話には触れずに、樋口くんの状況について話した。
担当でもないのに、案外事情を知っていることに驚いた。
自分から話したんだろうか、あの樋口くんが。
俺はもう一度書類に目を落とした。

「あ、ねえ、昔の入江くんみたいなの。
なんだか、似てるんだよ。すぐに怒って、頭がよくて…」

俺も少しそう感じてはいたが、他人の、しかも琴子から言われると面白くない。

「怒らせるやつがいたからな」
「だって、入江くん、本当にすぐ怒ってたもん」

怒る相手は決まってんだよ。
他のやつには冷たく言い放つことはあっても、声を荒げて怒ったりはしない。
わかってないな、こいつ…。
俺は書類を机の上に置くと、琴子を振り返って言った。

「…で?そろそろ夫婦愛ってのを示そうか?」

これだけではあまり意味のわかっていない琴子は、きょとんとして俺を見ている。
琴子を引き寄せて抱きしめ、キスをするとやっと気づいたらしい。
樋口くんはきっとここまでの意味はなかっただろう。
琴子が次に同じ質問をされたとき、どんな顔をするかと考えたらおかしくて、少々意地悪な気分で琴子をベッドの上に下ろした。


10.The people in the typhoon area

樋口少年は、無事に手術を終えたらしい。
私も手術に向けて準備が進んでいた。
幸い、転移は見つからなかったので、手術中に何も見つからなければ温存手術が行われるはずだ。
担当看護士の桔梗さんは、入江さんよりはっきり言ってずっと優秀だ。

「琴子は命の恩人だろうから仕方がないけど、術前後の看護のほうはあたしに任せてちょうだい。
実践なら琴子よりずっとましよ」
「それはもちろん」

私は笑いながらそうお願いした。
桔梗さんに何も話さなかったこと、悪かったなと思う。
もしかしたら入江さんに少しは聞いてるのかもしれないけど。
桔梗さんに話していたら何か違っていたかもしれないけど…、何度あの場面をやり直しても、私はきっと何も言わずに一人で悩んだだろうと思う。
入江さんだったら、どうしただろう。
あまりにも想像できなくて、笑ってしまった。
もしかしたら、担当を替えてくださいと言っていたかも。
そんなことを思いながら、私は婚約者に電話をした。
手術の前日に来てほしい、と。
当然平日だったので、面会時間ぎりぎりにあの人は来てくれた。
大事な話がしたかったので、誰もいない渡り廊下まで歩いていった。
あの人は静かに私の身体を気づかい、やさしげに笑った。

「ねえ、今日、来てもらったわけ、わかる?」
「…さあ」
「婚約、取り消したいの」

ただ無言。

「…嫌いになったわけじゃないけど、もう一度、やり直したいの」
「…僕は、支えにもならない?」
「違うの。そうじゃなくて…。
手術を受けて、もう一度新しい私になるから。
離れてお互いのこと、考えてみようよ。
病気のことも含めて、考えてみて。
将来のこと、結婚した後のこと。…子供のことも。
もし、あなたが私のこと、これから先もずっと一緒にいてもいいと思えたら…」
「それは、手術前の、今このときじゃないとだめなの?」
「ええ、今じゃないとだめなの」

私はできるだけきっぱりと言った。
あの人は少し目を伏せた後、持ってきた花束を私に手渡して言った。

「手術、うまくいくように願ってる」
「ありがとう」

少し悲しげに笑って、帰っていった。


 * * *


術後ICUにいた俺は3日目には小児科病棟に戻った。
センセーは毎日淡々とガーゼ交換にやってくる。
一度だけ、あの看護婦の話題を出した。

「…琴子が、近いうちに見舞いに来るらしい」
「あ、そう。傷に響きそう…」

母親は、聞き慣れない女の名前を聞いて、俺に誰だと問いかける。

「このセンセーの奥さんで、ここの外科の看護婦」
「あら、そうなの?まあ、いつお世話になったのかしら」
「…お世話も何も…、すっげーバカで迷惑したんだけど」
「まあ、何てこと言うの」

センセーは、相変わらず否定もせずに薄笑いして病室を出て行った。
センセーがそう言った2日後には、あの能天気な顔を出しに来た。

「元気そうでよかった!
今日ね、坂下さんの手術なの」
「…付いてなくていいの、そっち」
「だって、ちゃんと担当の看護婦がいるし、あたしはまた明日会えるからいいの」
「ふーん」

どうでもいいことを次から次へとしゃべる。
大きな声で笑ったり、俺の言葉に怒ったり、百面相を見ているみたいだ。
個室でなければ追い出されていただろう。
それよりこいつ、まだ俺の名前を知らないらしい。
普通病室にかかっている名札や、ベッドの名札を見て気づかないもんだろうか。
…普通を求めるのは間違った考えかもしれない、こいつに限っては。
ま、いいか、名前なんて関係ないし。わざわざ教えるのもしゃくだしね。


 * * *


世の中、本当にわからない。
琴子みたいなのが入江先生の奥さんだってことも、もう結婚寸前のカップルだって安心じゃないってことも、このあたしが、独りだってことも。

「結婚するって、難しいのね〜」

思わず口に出してため息をつくと、清水主任が振り返った。

「桔梗さん、坂下さんもうすぐ終わるわよ」
「は〜い」

手術、うまくいったかしら。
琴子は帰る間際まで心配していたけど、急に思いついたように行ってしまった。
坂下さんに関しては、琴子にしてやられたって感じ。
どうやら自殺しそうだったらしいところを助けたり、悩みを聞いてあげたり…。
自殺まで考えるほど悩んでいたことに気づかないなんて、担当としては痛いところだけど、こればっかりはどうしようもないわね。
あの子って、技術はさっぱりなくせに、患者さんのために一所懸命なところとか、あの前向きなパワーだけは感心するわ。
まあ、迷惑なこともかなりあるけど。
さあて、あたしはあたしのやれることをきちんとやらなきゃね。


 * * *


樋口くんの術後の経過は順調だった。
考えられる合併症も起こらず、離床も順調に進んだ。
この分なら、夏休みが終わる前に退院できるだろう。
エコー(超音波検査)の予約が空いていたので、樋口くんの病室へ行ったが、樋口くんのお母さんに琴子と出て行ったと言われた。
この間からしきりと病棟外歩行の許可は出ないのかと聞いてきたので、多分また屋上なのだろう。
時間があったので呼びに行くことにして、屋上へと向かった。

「さとしのバッカヤロー!!意気地なしー!!」

階段を上りきると、突然叫び声が聞こえた。
いったい何の騒ぎだ?

「入江くーん!大好きー!!」

…何を叫んでるんだ、あいつは。
開け放した扉の向こうで、琴子と坂下さん、樋口くんの3人が騒いでいた。
真下が医局だって、知ってるのか?知っていても関係ないか、あいつにとっては。
琴子が振り返って、やっと俺を見つけた。

「い、いり、入江くん!き、聞いてたの?!」
「…聞きたくなくても聞こえるよ」

あれだけ大きな声で叫んでおきながら、真っ赤になって照れている。

「下の階の医局に丸聞こえ」
「え、うそっ」
「…て言っても今誰もいないけどな」

聞こえたところで、いまさらどうってことないが。

「樋口くんの心エコー(心臓超音波検査)やりたいんだけど」
「あ、ど、どうぞ」

樋口くんに声をかけようと思ったとき、なにやらたくらんだ顔で笑って言った。

「あ、看護婦さん。
俺の下の名前教えたら、名前で呼んでくれる?」
「う、うん、いいわよ」

琴子は樋口くんの下の名前をいまだ知らなかったらしい。
何回病室に行ってるんだ、あいつは。
俺の名前ですら呼ぶことはほとんどないというのに。
樋口くんは知っていて言っているのだろう。

「なおき」
「えっ?」
「樋口直紀」
「な、なお…?ええーっ」

口ごもったまま俺の顔を見ている。

「そう、呼んでくれるよね?
あ、字は入江センセーの直に世紀の紀」
「えーっと、あの…」

呼べるものなら呼んでみろよ。
俺はかなり嫌そうな顔をしているのかもしれない。
琴子は俺の顔を見ながら赤くなったり青くなったりしている。
いまさら俺の呼び方に不満があるわけではないが、他のやつのために名前を呼ぶのを聞くのは面白いわけがない。
しかも、からかわれてることに気づきもしない。

「あははははは、さいこっ。あ〜、傷にも響く〜」
「坂下さん、そんなに笑うことないじゃない」
「だって〜」
「ほら、ほら。こ・と・こ・さん。約束したじゃん」
「こ、ことこさん??」

俺はそれ以上付き合う気にはなれず、さっさと階段を降りていった。
もしかしたらエコーの予約はふいにするかもしれないが、この際どうでもいい気がしていた。
エコーはまたやる機会があるだろうし、今すぐ必要なわけではない。

「い、入江く〜〜ん!」

階段の上のほうから、琴子の声が響いてきた。
俺はかまわず階段を降り続ける。

「もう、もう…意地悪〜〜〜!」

今度は涙声になっている。
まあ、後で俺の顔を見て名前を呼んだら、許してやらないこともないけど?

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