台風Girl



side the other4


7.Higuchi and Naoki
小児科へ戻ると、当直の山本先生がナースステーションで俺を待っていた。

「いやあ、すまなかったね。呼び出されたそうで」
「いえ、外来に呼ばれていたんですよね。樋口くんの主治医ですから」
「こんな日は夜間救急も少ないかと思ったけど、逆だな」
「逆ですか」
「うん、喘息の子供に看板当たったじいさんとか」
「そうですか。…もう一度樋口くんの様子見て帰ります」
「おう、そうか。ただ、タクシー捕まらないかもしれないぞ」
「まあ、そのときは医局にでも泊まります」

そう言って、そそくさとナースステーションを出た。
看護婦がお茶でも出してきそうな気配だったからだ。
樋口くんの病室に行くと明かりは消えていて、一応布団の中に戻っているようだった。


 * * *


誰かが入ってきた気配がした。
どうやら主治医のセンセーらしい。
何も言わずそのまま出て行くようだったので、俺は小さな声で聞いてみた。

「発作って、治らねえの?」
「…治るよ」

あっさりそう言った。

「苦しくなる原因を取り除けば」

静かな声だった。
もちろん真夜中の病室で大きな声で話すわけにはいかないけど。
これがあの看護婦だったら、絶対声を張り上げて、部屋中の患者を起こしちまうだろうけど。
俺は先ほどの凄い剣幕で怒っていたセンセーを思い出した。
お釈迦様と孫悟空みたいな夫婦だな。
俺は少し笑った。


 * * *


樋口くんは発作の事を聞いた。
しかし、どうやらそれとは別に何か楽しげなことがあったのか、忍び笑いをしている。
…なんとなく予想はつくけどね。

「あの看護婦、センセーの奥さんだって、本当?」
「そうだよ」
「…バカだよな、こう言っちゃ何だけど」
「…そうだな」

俺は先ほどの琴子を思い出した。
おそらくこの少年に相当きついことも言われたはずだ。
まあ、いつもそういうことばかり言っている俺が言うのもなんだが。
昼間より表情が柔らかいのは、琴子のお陰か…。
きっと、この樋口くんも何かから逃げたくて屋上へ行ったのだろう。
そこで会ったのが琴子でよかったのかもしれない。
この少年が念押しでバカというからには、かなりバカなことを言ったに違いない。
あまりのバカさに、俺みたいに怒鳴り散らしたかもしれない。
それでも。
…それでも琴子は、笑いながら向き合って、決して逃げることはないのだ。
それが救いになるとも知らないだろうけど。


 * * *


センセーの頬が緩んでいるのを見るのはかなり珍しい。
あんなやつでも本当に夫婦なんだ。
あいつのことをバカだと言ったにもかかわらず、ごく当たり前に認めた。
変な看護婦だった。
あいつは俺がこのセンセーに似てると言っていた。
どこが似てるんだか…。
俺は、あんな頭の悪いやつはゴメンだな。
すごく、疲れそうだ。
それを凄く楽しげに言うのだから、このセンセーも変わり者に違いない。
やっぱり変な夫婦だ。


 * * *


樋口くんはあくびを一つして、寝ることに決めたらしい。
俺はそのまま部屋から出ることにした。
落ち着いていたので、多分この後はもう大丈夫だろう。
タクシーを呼ぶべく電話をしてみたが、台風も通過中の今はさすがに営業しているタクシーもほとんどないらしく、呼んでもいつになるかわからないと言われた。
いつもはどんな夜中でも玄関に1、2台あるタクシーも、さすがに1台もなかった。
医局に泊まりだな。
俺は医局に行って、少し仮眠をすることにした。


8.Sakashita and Naoki

部屋に戻ると、隣のベッドの米田さんが心配そうにカーテンを開けた。

「あまり戻ってこないから、どこかで倒れたんじゃないかと思って看護婦さんに連絡したんだよ」
「…ああ、すみません。手術前なので、いろいろ考えていたら時間がたっちゃって」
「うん、いいんだよ。ちょっと気になっただけだから。
余計なことして悪かったね」
「いいえ。ありがとうございます、ご心配おかけしました」
「うん。おやすみね」

米田さんは安心したようにカーテンを再び閉めて寝始めたようだ。
私が自殺しようなどと思っていたことを知ったら、かなり驚いたことだろう。
もしかしたら、そう考えているのかもしれないけど。
どちらにしても、こんな私を心配している人がいることが、こんなところにもいたことがわかってうれしい。
しばらく横になってみたけど、まだ目が冴えて眠れない。
起き上がってみると、ちょうどまた見回りの時間らしく、カーテンの中をそっと照らす主任さんと目が合った。

「…まだ、眠れなくて」

主任さんはただうなずく。
私はベッドから立ち上がって、廊下へと出た。

「もうどこにも行きませんから安心してください。
少し、面会所のいすに座ってもいいですか?」
「ええ。あなたが戻ってきてくれて、よかったわ」
「…すみませんでした」
「もし見つからなかったら…、担当の桔梗さんは半狂乱よ。
ショックでナースを辞めたかもしれなかったわね」
「…桔梗さんにも言ってないことがあるんです」
「ええ、もちろん全部話す必要はないと思うけど。
桔梗さんはきっと知らなくてもちゃんとやってくれると思うわ。
…ほどほどで寝てね?」
「はい」

主任さんが行ってしまうと、面会所へと歩いていき、いすに座った。
頬杖をつくと、手のひらからは少しフェンスの金網の匂いがした。
婚約のことはともかく、私とあの人は一緒にいてもいいのだろうか。
もしこのままあの人に甘えて結婚したとして、うまくいくのだろうか。
結婚して、子供を育てて…。
そもそも、もし抗がん剤を使ったら、子供はできるのだろうか。
結婚をやめたら、もう一度仕事をしなければ…。
仕事は見つかるだろうか。
ああ、なんだか、また考えすぎてしまう。
あの人は、何を考えているだろう。
今なら、もう眠っているだろうか。
結婚するはずだった女ががんだと言われて、どう思っているのだろう。
ぼんやりとしていたら、懐中電灯の明かりが後ろからさっと動くのが見えた。

「坂下さん」

主任さんだと思ったら、入江さんだった。
入江さんは隣に座って、懐中電灯を消した。

「もう、死ぬ気なんてありませんよね?」
「ええ。なんか、気がそれちゃった…」

あれだけいろいろあれば、死のうなんて気がどこかへうせてしまった。あんなに死にたかったのが嘘みたいだ。
私は先ほど考えていたことを取り留めなく話した。
きっといろんなことを一度に言われて、入江さんは戸惑っているに違いない。

「坂下さんは、婚約者さんと結婚したくないの?」

一通り聞いてくれた後で、そう聞かれた。

「わからない…」

そう答えた。

「結婚は白紙に戻っても、お互い好きならまたやり直せるんじゃないかな?
きっと離れたらもっとお互いのこと大事に思うかもしれないし」

そうかもしれない。
私は先ほどの先生を思い出した。

「入江さんは、あの先生とそう思える?だんなさんなんでしょう?」

見る間に入江さんは赤くなり、ちょっと照れながら言った。

「あた、あたしは…、その、あの、きっとイヤだって言われてもついていっちゃうけど」

ああ、そうかも。
入江さんのパワーなら、先生も逃げられないかも。
でも、私にそのパワーがあるだろうか。

「ふ〜ん。かっこよかったものね、あの先生」
「えへへ…」

あまりに素直に認めたのが悔しくて、思い出したことを言ってみた。

「でも、口は悪いわよね」
「ええっ!」

思わぬことを言われたのか、私の顔を見つめる。

「私が呼びにいったとき、ちょうど清水主任と話していたんだけど。
『あのバカ』とか、『いつも迷惑かけて…』とか、散々ぶつぶつ言ってたみたいなの。顔に青筋立てて」

そういうと、今度は顔が青くなった。
どうやら、いつものことらしい。

「でも…」

その後、血相を変えて入江さんを心配していたことは、ちょっとうらやましいから、教えない。
きっと、とても入江さんのこと大事なんだろうね。
入江さんは、続きをとても聞きたそうな顔はしていたけど。
朝になったら、一度小児科を訪れて男の子のところへお礼を言いにいこう。
散々生意気なことも言われたけど、助けてくれたことに間違いはないのだから。
今度は少し眠れそうな気がしてきた。
私は入江さんにお礼を言うと、自分の部屋へと戻った。
そして、朝の採血の時間に主任さんに起こされるまでの間、夢も見ずに眠ったのだった。


 * * *


医局へ行ったものの、同じように帰れなかった医局員が数人、あちこちに雑魚寝をしていた。
仕方がないので、家で見られなかった手術の資料を見ることにした。
しばらくして、のどが渇いたが何もなかったので、自販機コーナーに行くことにした。
ついでに外科病棟に寄って、琴子の様子を見てみようと思った。
できれば琴子に気づかれたくなかったので、静かにナースステーションをうかがうと、見回りの時間なのか、誰もいなかった。
このまま帰ろうかと思ったとき、面会所で琴子の声がした。
気づかれないように曲がり角で聞いてみると、相手は先ほどの女の患者らしかった。

「たとえ治らなくても結婚するって言われたの」
「それなら」
「だから、同情で結婚するつもりならやめましょうって」
「でも、婚約者さんの気持ちは…?」
「…子供好きな人なの。
がんの治療した後で、健康な子供生める?私、自信ない」
「子供のことはこれから考えてもいいんじゃない?」
「皆、そう言うの。でも今なら、まだ間に合う。
結婚は一度白紙に戻して治療に専念しましょうって、向こうの両親にも言われたわ。
私の両親は見捨てるのかって、カンカン!怒っても仕方がないのにね。
手術すれば治るけど、なんだか疲れちゃって。
仕事ももうやめて、後は結婚するばかりになっていたし、婚約破棄したって、仕事見つかるかどうか…。
いろんなこと考えたら、もうどうでもよくなって」
「坂下さんは」
「私?」
「坂下さんは、婚約者さんと結婚したくないの?」
「わからない…」
「結婚は白紙に戻っても、お互い好きならまたやり直せるんじゃないかな?
きっと離れたらもっとお互いのこと大事に思うかもしれないし」
「入江さんは、あの先生とそう思える?
だんなさんなんでしょう?」

突然俺の話が出たので、思わずもたれていた壁から身体を起こした。

「あた、あたしは…、その、あの、きっとイヤだって言われてもついていっちゃうけど」

声を出して吹き出しそうになった。
危うく止めて、俺はその場からゆっくり離れた。
琴子なら、地の果てまでも追いかけてきそうな気がする。
そんなことを言えば、また頬を膨らますかもしれないが。
…別に、イヤじゃ、ないけどね。
俺は、知らず知らずのうちに笑みがこぼれるのを止められなかった。


To be continued.