夢のまた夢




5日目

病室でうたた寝でもしたのかと思った。
気がつくと、俺は入院していて、しかも足を怪我して手術したらしかった。

「あ、お兄ちゃん、起きたの?」

おふくろは着替え一式を袋から出していた。
外は少し薄暗くなりかけていた。
昼寝していたらしい。

「いつ手術したんだ?」

思わずつぶやいた言葉におふくろはカレンダーを指し示して笑う。

「お兄ちゃん、寝ぼけてるの?やあね、もう5日目よ」

そうやって指し示されたカレンダーは、1998年だった…。
俺の頭がおかしくなったんだろうか。
カレンダーが合っているとすれば、俺は丸3年の記憶が抜けていることになる。
琴子は看護科に入って、俺は医学部の5年。
夏以来、ろくに琴子ともしゃべっていないはずだった。
…だから、病室には琴子ではなくおふくろがいるのか?
そんなわけはないか、3年前の話なんだから。
でも、今なぜ琴子はいない?
あの鴨狩とかいう男がうろうろするのが気になって、イライラして、琴子にまで当たってしまった。
琴子が悪いわけではないとわかっているのだが、素直に謝る気分でもなかった。
琴子が鴨狩を選ぶなんて、多分ありえなかった。
それでも俺は、どこかで琴子が離れていくのを恐れていた。
いったいなんだろう、この気持ちは。
琴子の顔を見ると嫌味の一つでは済まされなかった。
俺が気のない返事をするたび、琴子はしょげ返っていた。
そんな琴子を見るくらいなら、しばらく距離を置いたほうがいい。
そう思っていた。
家族中、俺たちを腫れ物でも触るみたいに接していた。
あの裕樹でさえ俺たちを心配していた。
おふくろは、当然琴子の味方で、俺に勝ち目はない。
家には琴子がいて、大学へ行けば看護科から琴子の声がした。
俺は、気付かない振りをした。
琴子の傍には同じグループの奴らがいて、その中にあの鴨狩りもいた。
あいつは琴子が好きらしい。
それはどうでもいいことだったが、いつも俺に会うたびに挑むような視線を投げかけてくる。これ見よがしに琴子と行動を共にすることを俺に認識させようとする。
それがどうした。
実習グループは、この先ずっと変わることはない。
そんなことにいちいち気にしてなんかいられない。
今琴子が現れても普通に接することができるだろうか。
今現在は3年後の世界だったが、俺の記憶の中ではまだ3年前だった。

「い、り、え、くん」

病室のドアが開いて、琴子が顔を出した。

「琴子ちゃん」

俺は今、どんな顔をしていただろう。

「やっと仕事終わったの。お義母さん、交代しますね」
「お疲れ様、琴子ちゃん。それじゃあ、私は帰るからお兄ちゃんをよろしくね」
「はい!」

おふくろが病室を出て行き、琴子と二人になった。

「ねえ、入江くん、今日ねー」

琴子は何も変わりなく、俺に話しかける。
当たり前のことかもしれない。
あの時、どうやって元に戻ったのだろう。

「それでね、婦長さんたら…。…入江くん?」

琴子の話はいつの間にか止まっていて、俺を覗き込むようにして見ている。

「ごめん、つまらなかったよね」
「いいよ。いつものことだろ」

琴子はうれしそうに微笑んで、俺の腕につかまる。

「それでね、婦長さんたら〜…」

琴子の話は続く。
それは当たり前のようで、俺の態度や言動一つで琴子は変わる。
そして俺は、結局そんな琴子を構わずにはいられない。
こんな俺に振り回される琴子とそんな琴子に振り回される俺。
3年前の俺に忠告してやりたい。
どんなにイライラしても、琴子を離すことなんてできないんだってこと。

「琴子」
「なあに?」
「キス、しようか」
「えっっ」

夕陽が差し込む病室でキスしていた俺たちを見て、夕食を運んできた看護婦は驚いてそのまま出ていったようだ。
…また噂の的だな、俺たち。


 * * *


クシュン。

耳元でくしゃみが聞こえた。
ゆっくり目を開けると、肩の冷えた琴子のくしゃみだった。
どうやら、昨夜はあのまま寝てしまったらしい。
琴子の素肌をもう一度布団でくるんで引き寄せる。
今更わざわざ起こして服を着させるのもなんだし、まあいいか。
しかし、寝相の悪い女だな。
そういえばバレンタインの雪の夜に泊めたときも、結局途中で布団を蹴飛ばされて…。

「入江くぅん…」

そう、それに寝言も多い。
起きているのかと疑いたくなるほどだ。
それよりも、朝起きたらまた赤面するかな。
…するだろうな。
起きるまで部屋を開けるなとでも言っておこうか。
こんなやつでも裕樹には目の毒だろうし。
それに、どうせこいつは仕事の休みの日に早起きなんてできないだろうし。
まあ、琴子だからな。
こんなもんだろう。
俺は眠っている琴子のまぶたに軽く口づけると、そのまま再び眠りについた。


 * * *


6日目

…どこだ、ここは。

「入江くん、病院だよー」

神戸だと思ったのに、どうやら斗南大学病院らしい。
足の骨折か…ついていない。
しかし、俺はいつの間に東京へ帰ってきたんだ?
いや、違うか。
壁のカレンダーは、今はそれから2年先を示していた。
記憶がないのか?
夏休みに琴子が来たのは覚えている。
しかし、そこからの記憶はすっぽり抜けていた。
いったい何が起きたんだ?

「入江くんでも忘れちゃうことってあるのねー」

琴子がなぜかうれしそうに笑う。
何がそんなにうれしいんだ。

「あ、まさか、私のことまで忘れちゃってないよね?」

…忘れてみたいもんだよ。

「入江くん、絶対忘れるわけないって思ってるでしょう?」
「…そこまで思ってない」
「やだ、入江くん!忘れちゃ嫌だからね!」
「忘れねーよ。だから、俺の足の上に乗っかるのやめろっ」
「あ…ごめん。えへへ」
「ったく、病人の上に乗っかるってどういうんだろうな」
「だって、入江くんがあたしのこと忘れたら、また一からやり直しじゃない!ラブレターまた渡してふられるのいやなんだもん」

琴子は頬を膨らませて俺の目をのぞきこむ。

「お前は忘れない自信あるのかよ」
「もちろんよ!」
「ふ〜ん」
「でも、でも、もし忘れちゃっても、きっとまた入江くんのこと好きになるからね」
「なんだよ、その前提は」
「えー、だって、忘れたら思い出すより、もう一度好きなるほうが早いかなーと思って」
「…お前らしいな」
「あたし、入江くんのことだけは忘れない気がするなー」

俺にはそんな自信ねえよ。
もし琴子のことを忘れたら、確実に振り出しに戻りそうだ。
…それでも、なんだかまた同じことになりそうな気がするけどな。

「もし俺が忘れても、無理矢理にでも思い出させるつもりだろ?」
「そうねぇ、お義母さんにビデオ借りるとか」
「…見たくねぇよ」

あの超大作を見るくらいなら…。

「キスしたら思い出すんじゃねぇの?」

琴子のあごを持ち上げる。

「そ、そうかな」

そのままキスでもしようかと思ったとき、琴子が叫んだ。

「だ、だめ!」
「…何が?」
「だって、入江くんとキスするのなんて凄く、凄く大変なんだから!!」

俺は笑って答えた。

「じゃあ、予行練習でもしておくか」
「予行練習?」
「そう。俺にしてくれるんだろ?」
「な、何を…。え、だって、あの…。む、無理」
「なんで無理なんだ?」
「だって、入江くん、忘れたら、近寄るなって言いそう」

俺は苦笑した。
十分ありえるな。

「そうしたら、不意をついてやってみれば?」
「え、えー」
「ここで琴子が忘れがたいキスでもしてくれたら、身体が覚えてるかもな」
「い、入江く〜ん…」
「それで、『ざまあみろ』なんて言ったらすぐに思い出すだすかもしれないぜ」
「…入江くんが言ったんじゃない」

でも、本当に思いだしてね…。

そうささやいて、琴子が俺にくれたキスは、あの初キスよりもずっと俺の脳に刻み込まれた。


 * * *


ピピピピ…。

琴子は、また目覚ましを鳴らしたままなのか?
いや、これは聞き覚えのないアラームだ。
俺は目覚ましを手探りで探す。
ホテルのベッドに備え付けのアラームだった。
そこで気がついた。
寝室とは違うシンプルな造り。ビジネスホテルの部屋。
隣に当然琴子はいない。
学会のために来たホテルの一室だった。
あくびを一つだけして起き上がると、すぐにバスルームへと向かう。
まだ今夜も帰れない。
二日続けて開催される学会に参加するのもいつものことだった。
当直続きで家に帰れないときもある。
それこそ、受け持ち患者が急変すれば家にいても呼び出されることもある。
琴子だって、夜勤のときがあり、毎日一緒に寝ているわけじゃない。
それなのに、無性に家に帰りたい、なんてことを思うなんて。
家に何を求めているのだろう。
琴子が同居する前は、誰も俺の邪魔をしなかった。
あのおふくろさえ、俺が本を読んでさえいればリビングにいても声を掛けることはなかった。
部屋に入れば誰にも邪魔されずに考えることができた。
琴子が来てからというもの、部屋は裕樹と一緒、更に琴子が何かと尋ねてくる、リビングにいればおふくろ共々邪魔をする。
それが苦にならなくなったのはいつの頃だろう。
今でも時々むやみに騒ぐ琴子やおふくろがうっとおしいときもある。
だが逆に、今ではその騒がしさがないと物足りない気がする。
琴子の声が耳につく。
神戸に行って最初の1週間で実感した。
一人でいたいと願っていた俺なのに。
帰るべき場所。
そう、俺にとっていつの間にかそうなってしまったのだろう。
琴子が待っているから。
まだ家を離れて二日目なのにホームシックのようだ。
洗面所を出ると、電話を手にしかけた。
今夜帰れるのに。
琴子は夜勤明けでまだ帰っていないはずだ。
苦笑しながら身支度を整えた。
後で勤務が終わる頃に電話してみよう。
神戸にいた頃の夢を見たせいかもしれない。
そういうことにしておこう。


To be continued.