坊ちゃまとあたし




11


補習が終わった翌日、あたしはせっせと荷造りをしていた。
奥様が送ってくれた服もあった。
ぜひ別荘で着てちょうだいと送られてきた服は、高原の夏にぴったりな白いワンピースだった。
奥様は娘がいたら、とあたしにいろいろなものを送ってくださる。
奥様ならこれから女の子を産んでも遅くはないと思うのだけど。
そんなあたしの部屋に坊ちゃまがやってきた。
滅多にないことなので驚いて物が散らばった部屋をどうすることもできなかった。

「おい琴子、渡辺が…」

そこまで言って、散らかったあたしの部屋の中を見てため息をついた。
ため息をつく五歳児…。なんだかあたしが凄くダメな人間な気がするわ。
期末テストの成績が悪かったのはあたしのせいなんだけど、それでも渡辺さんが教えてくれると言うのを坊ちゃまが阻止した形になり、坊ちゃまは少しだけあたしに悪いと思ったのか、いつもより別荘に行く時期をずらしてくれた。
まあ、正直言えばどっちでもよかったんだけど、せっかく坊ちゃまが待っててくれると言うのを無碍に断る必要はなかったしね。
でもってこの部屋の惨状にため息をつかれた。

「ぼ、坊ちゃま、いつもこんな部屋じゃないですよ?今日は…いえ、今は明日の準備をしていたからで」
「全部持って行くつもりか」
「女の子は用意するものがたくさんあるんです」
「ふーん」

坊ちゃまはそれはどうでもいいというように返事をしてから続けた。

「渡辺が何か話があるみたいだ」
「渡辺さんが?」

いつもは直接呼びに来てくれるのに、どうしたんだろうと首を傾げる。
ましてや坊ちゃまがこんな風に呼びに来るなんて。更に言えば、渡辺さんが坊ちゃまを使うわけがない。

「どんな話が?」
「さあな。案外告白かもね」
「こ、告白?!」

そんなバカな。
とりあえず荷物はそのままに、あたしは首をかしげながらも渡辺さんのところへ行ってみることにした。
あたしは部屋を出たけど、坊ちゃまはあたしの部屋の中のクッションにぽすんと座り込んだ。
何かあったんだろうか。

どこを探していいかよくわからなかったけど、いつも渡辺さんがいる可能性が高い坊ちゃまの部屋から行ってみることにした。
坊ちゃまの部屋には、明日運ぶ予定の荷物がきちんとまとめられている。
でも渡辺さんの姿はなかった。
仕方なくもう一度廊下に出ると、ちょうど厨房から上がってくる階段から渡辺さんがやってきた。

「あ、渡辺さん、あたしをお呼びだとか坊ちゃまにお聞きしたんですけど」
「琴子さんを、ですか」
「ええ。違いましたか」
「そうですね、違わないです」
「何かありましたか。坊ちゃま、ちょっと変だった気がするんです」

渡辺さんは少しだけ表情を曇らせてからあたしを見た。
急に坊ちゃまの先ほどの言葉を思い出した。
いや、まさか告白なんてありえないけど、意識しちゃうよ〜。

「琴子さん」
「は、はいっ」
「実は…」
「はい…」
「直樹さまのご両親の帰国が無理かもしれないとご連絡が先ほどあったのです」
「坊ちゃまのご両親というと」
「はい、旦那様と奥様でございます」
「帰国できない?予定が合わないだけではなくて?」
「ええ。予定は相手次第ということで、もしかしたらあちらに直樹さまをお呼びするかもしれないとのことでした」
「ええと、つまり」
「清里ではなく、ただいま赴任中のイギリスに、ということですね」
「…ああ、そうだったんですか」

あたしはかなりほっとして安堵の息をついた。
いくらなんでも渡辺さんからの告白とか言う間抜けな想像を信じていたわけではなかったけど、それでも何だか頭の隅にあったようで、ドキドキしていた心臓がようやく落ち着いたという感じだった。

「坊ちゃまもいきなり外国では大変でしょうけど、ご両親にお会いできるならそのほうがいいですものね」
「琴子さん…」
「明日からの清里はなしということでいいんでしょうか」
「いえ、それは」
「あ、それで坊ちゃまが少し拗ねてたんですかね」
「…拗ねて…」
「坊ちゃまが残念がるほど素敵なところなんでしょうね、清里は」
「実は、琴子さんはいきなり海外では大変だろうから、琴子さんだけでも清里へ行ってもらったらどうだろうかと旦那様がおっしゃいまして」
「へ?あたしだけ清里に?」
「はい、私たち使用人もこの時期だけはお休みをいただくことになりますので」
「ああ、そういうことか。渡辺さんも?」
「私は直樹さまをイギリスへお送りした後で、でございますね」
「じゃあ、やっぱりあたしは予定がないなら清里とか父のところへ戻ったほうがいいということですね」
「申し訳ございません」
「謝ることなんて…。ちょうどお盆の間だけは学校の補習も何もないですし、父も夏のふぐはさっぱりだとか言っていたから、暇、かなぁ」
「よろしければ清里に行きませんか。清里の管理人も直樹様がいらっしゃらないとさみしいでしょうし、琴子さんだけでもいらっしゃると喜ぶかもしれません。私も日によってはお邪魔するかもしれません」
「そうなんですか。えー、じゃあ、清里に行かせてもらおうかな〜。ちょっと憧れてたんですよね。どうせ父も数日しか家にいないし」
「ええ。相原様のご都合がよろしければ同じく清里に行ってもらっても構わないということですし」
「ええっ、お父さんも?そうか〜、じゃあ、お父さんに電話してみようっと」
「はい、そうなさってください」

あたしは渡辺さんの言葉に浮かれて、坊ちゃまが本当に拗ねている意味をわかっていなかった。



12


坊ちゃまはやがてイギリスの家族のもとへ向かうことになった。
「元気でまた会いましょうね」
そう声をかけたのに、坊ちゃまはむすっとして一言も口をきかなかった。
何がそう不機嫌にさせるのかわからなかったけど、もしかしたら清里のほうが涼しくてよかったとかそういうことかしら。
空港で見送るあたしの目に映る坊ちゃまは、保護者の渡辺さんに連れられて歩く年相応の五歳児で、それは微笑ましく見えた。
でも顔は不機嫌極まりない。
今からあんな顔ばかりしていたら、大きくなる頃にはそのきれいな顔にくっきり眉間のしわが刻まれるんじゃないかと心配でならない。
無表情の人はしわが少ないと聞くけど、これでは逆にしわだらけになってしまう。
そう言って心配事をつぶやくと、渡辺さんは笑って「むしろ表情が豊かになって、イギリスのご両親は驚かれると思いますよ」と言った。
渡辺さんが会った頃の坊ちゃまは、笑わないどころか怒ったりもしなかったし、目を輝かせることも興味がある素振りを見せることもなかったという。
両親は本気で情緒に何か問題でもあるのかと心配したという。
代わりにIQがものすごく高いんだってことがわかって、ひとまず安心したんだそうだ。でも、奥様はそれであたしを雇うことを決心したという。
あたしはどちらかと言うとあまり隠し事はできない。すぐに表情に出てしまう。
そういうのを見習ってほしいのかと思えば、そうではないと言う。
ただ、一緒に生活してくれるだけでいいのだと言われた。
年相応の相手を傍につけることも考えたのだけど、それはいずれ学校にでも行くようになったら自分で見つけるだろうと。
十も上なのに、あたしの精神年齢(頭の中身がってこと?)は五歳児並みなのかと落ち込んだりもしたけど、せっかくなので楽しむことにした。
だってそのほうがあたしも坊ちゃまも楽しいもんね。

屋敷はお盆休みに入り、家に帰らない人々を残して、使用人も帰省する。
あたしも荷物は既に清里に昨日送ったので、身の回りのものだけを持って屋敷を出た。
お父さんも同じように清里に招待され、これから一週間ほどを清里で過ごすことにした。
電車の時間はまだ余裕があるし、あたしは車の送迎を断ってのんびり行くことにした。
「本当によろしいのですか、琴子さん」
「ええ。父の店も近いですし、待ち合わせて一緒に行くので」
イギリスから急ぎ戻った渡辺さんは、屋敷でのんびり過ごすという。
皆が帰ってきた頃に清里と実家に顔を出す予定だという。
やはり主さえいない屋敷を放っておくわけにはいかないようだ。
屋敷はしんと静まり返っていて、主がいない家というのはさみしいものだと感じた。
使用人もほとんどいないのだから当たり前かもしれない。
「渡辺さんも、清里においでになったら声かけてくださいね」
「ええ。お父様とごゆっくりお過ごしください。
くれぐれも駅からは送迎を頼んでくださいね。迷子どころか遭難してしまいますよ」
「わかりました。では、いってきます」
そう言ったら、渡辺さんは少しだけ目を見開いて驚いた様子を見せた。
何か変なことを言ったのかと首を傾げたら、ひどくうれしそうな様子で「いってらっしゃいませ」と丁寧に頭を下げられたので、驚いてしまった。
こんなふうに家を出ることができて、あたしはうれしい。
いつも自分で鍵を閉め、自分で鍵を開けて入るのが家だったのだから。
あたしは渡辺さんに見送られて清里に向かったのだった。



13


忠告どおり、清里に着いてから、ちゃんとタクシーで別荘に向かった。
駅前の通りや新たな別荘地は歩いていけるというのが売りらしいけど、入江家の別荘はやはり昔ながらの奥地だった。
お父さんは歩いていけると豪語したけど、あたしは今までの数々の失敗から渡辺さんの忠告に従うことを強く主張したのだ。
こんなところで忠告を無視して遭難でもしたら、坊ちゃまになんて言われるか。
清里に着いてから、あたしは本当にリゾート気分だった。
お父さんと一緒というのはなんとも気分半減ではあったのだけど、お父さんとこうして過ごすことも少なかったから、これはこれでよかったと思うことにしよう。
坊ちゃまが過ごすはずだった別荘は、本宅よりはこじんまりとしていたけど、十分に年中住めそうな造りだ。
東京よりはずっと涼しく、あたしは毎日宿題も忘れてのんびり過ごしていた。
一週間を過ぎる頃、別荘地を歩いていると、車が目の前で止まった。
見慣れない車に思わず警戒して後ずさったあたしに、車の窓が開いて「琴子さん」と声をかけられた。

「渡辺さん」

車を運転していたのは渡辺さんだった。
渡辺さんが自分の車を運転してくるのは意外だった。
別荘地に車を入れて、降りた渡辺さんはいつもの執事のようなかっちりとした服ではなく、いつもよりかなりカジュアルだった。
「今日はプライベートで様子を見にきましたので、お屋敷の車を使うわけにはまいりませんから」
「そうなんですか。お休み中にわざわざありがとうございます」
渡辺さんはすごく年上な気がしたけど、こうして普通の服を着ると、その辺にいる青年と変わりがない。それでも少し落ち着いた雰囲気があるので、その辺の青年と一緒にしては失礼かもしれない。
「渡辺さんは、歳は幾つなんですか」
「私ですか。琴子さんより十歳上ですよ」
「ええ、そうなんですか。じゃあ、あたしと坊ちゃまくらいですね」
「ああ、そうですね」
そう言ってうなずくと、渡辺さんは笑った。きっと坊ちゃまを思い出したんだろう。
「いつお帰りになりますか。まだ坊ちゃまの帰国は先になりそうですので、もう少し滞在しても構いませんよ」
「うーん、どうしようかと思っていたんです。父はもう明日帰るって言うし」
「お店がありますからね」
「それよりも…宿題が…」
「わかりました。今から少しお教えしましょう」
「本当ですか」
「ええ。時間はあまりありませんので、どうぞ今出してくださいね」
あたしはそう言われて慌てて宿題を差し出した。
自分でやってある場所もあるのだけど、ほとんどは手付かずだ。
そもそも解き方すらわからないのだから手のつけようがないのだ。
そうしてあたしは夏休みの宿題を教わることになった。
バカなあたしにもわかるように教えてくれて、本当に優しい。

夕方になり、少し休憩しようと立ち上がったあたしに、別荘の管理人さんが坊ちゃまから電話ですと告げた。
あたしは驚きながらも受話器を握ると、電話からは懐かしい坊ちゃまの『遅いっ』と声がした。
「坊ちゃま!お元気ですか」
『国際電話なんだから早く出ろ』
「そうは言っても。そちらはどうですか」
『毎日あちこち連れまわされて大変だ。電話する暇もない。
今日も連れて行かれそうだから、朝のうちに電話したんだ』
「楽しそうでいいじゃないですか。
あ、今渡辺さんがこちらに来ているんですよ」
『何?渡辺が?』
「ええ。あ、替わりましょうか」
あたしは渡辺さんを呼んでそう言うと、渡辺さんは少しだけ引きつった笑みを浮かべた。
「どうしたんだろう」
電話口では、渡辺さんが電話に向かってお辞儀をしている。
「はい」とか「ええ」とか話す間に「申し訳ありません」とまで謝っている。
五歳児に何をしかられることがあるんだろうと思いながらもあたしはお茶をすすった。
電話を終えた渡辺さんが苦笑いをしながら戻ってきた。
「…明日、直樹さまが帰国されることになりました」
「ええっ、それはまた突然ですね」
「…はい。私だけ別荘でくつろぐのは不公平だ、と」
「まあ、そんなわがままばかり言って渡辺さんを困らせるなんて」
「いえ。おっしゃることもわからないではないんですよ。その、琴子さんと過ごしたかったであろう別荘地で、私がいるのですから」
「渡辺さんだってプライベートなのに」
「だからこそ許せないんでしょう」
「ふーん。もう、仕方がないわねぇ。でも、明日からお父さんもいないし、ま、いいか」
「あ、いえ。別荘に来られるそうです」
「へ?あ、そうか。別荘に来たかったのか〜」
「では、私はこれで。直樹さまが帰国されるとなれば、いろいろ準備もありますので」
「そうよね。でも渡辺さん、お休みがなくなるんじゃ」
「いえ、元々休暇も明日まででしたから。もう実家にも寄ってきましたし」
「そうですか。よかった。坊ちゃまも時々はわがままもいいと思うけど、渡辺さんだってプライベートの一つや二つあるでしょうに」
「私は、いつでも直樹さまとともにありたいと願っているんですよ」
そう言って笑った渡辺さんは、とてもうれしそうだった。
坊ちゃまが帰ってくるせいかな。
「相原様ともお話できましたし、有意義な休暇でございました」
「お父さんとの話が有意義?」
「ええ。男手でどのように琴子さんをお育てになったのかとか」
「そうか。渡辺さんも親代わりですものね」
「おこがましいようですが、そのように自負しております」
「ううん。坊ちゃまはきっと渡辺さんがいなくてさみしくてイギリスから早く帰ってくるのかも」
「そうでしょうか。琴子さんのように素直なよい跡取りになってくださるようにお育てするのが私の当面の役目でございますから」
「えー、そんなぁ」
あたしは照れて笑った。
渡辺さんはそんなあたしを見て優しく笑った。
お兄さんとかがいたらこんな感じかなぁ。
渡辺さんを見送って、あたしは残りの宿題を見てため息をついた。
坊ちゃまが帰国するまでに終わりそうにない。
きっとまたバカにされるんだろうなぁ。
でも、またあの小憎らしいかわいい顔を見られるのが楽しみになってきていた。



14


「おい、着いたぞ」
坊ちゃまは予告どおりイギリスから帰国してすぐに清里の別荘にやってきた。
「坊ちゃま、お帰りなさい。それから、いらっしゃい」
「いらっしゃいって、ここはうちの別荘だ」
「いいじゃない、あたしよりも後に来たんだから」
あたしはすっかり別荘にも慣れて、のんびりと過ごしていた。
「宿題終わったのか」
う、やっぱりそう来たわね。
「だ、だいたいは」
「ということは、まだほとんど終わってないということだな」
…そうとも言うけど。
坊ちゃまはあたしのテキストをぱらぱらとめくって言った。
「おれもさすがにここまで学んでないからな」
「…じゃ、じゃあ、いったいどこまで…?」
「小学校の問題ならわかる」
「うっそ」
坊ちゃまは眉を上げてあたしを見た。
「おれが何でうそを言う」
「坊ちゃま、お幾つでしたっけ」
「五歳だが?」
「ですよね…」
あたしは改めて坊ちゃまの頭の中身を見てみたくなった。
「そんなにたくさん知識をいれちゃうとパンクしたりなんかしないんですか」
「だから、くだらないことはさっさと忘れるようにしている」
「そうか、そういうものなんだ」
坊ちゃまの頭をしげしげと眺め、あたしは小学校の問題がどんなものだったか懸命に思い出そうとしていた。
少なくとも高校の問題よりは簡単だろうし、中学の問題よりも簡単なはず、よね。
それでも何だか坊ちゃまがあたしの想像するものよりずっと高度な問題を解いている姿が容易に思い浮かんで、あたしは頭を振った。
いや、ダメだ。
ここは高校生としての威厳を保たなければ。
「公式とか覚えるの大変で」
「何言ってるんだ。この問題は公式なんて使わなくても解けるだろ。計算の仕方が間違ってる」
あたしの数学のテキストを指差して言った。
「そんなバカな」
あたしは坊ちゃまからテキストを奪って見てみた。
「何で42かける5が280なんだよ」
「あれ?」
「小学生でもわかるぞ」
はいはい、坊ちゃまは小学生ですらないですけどね。
「…間違えました」
あたしは意気消沈して、坊ちゃまから指摘された間違いを直すべくテキストを直しにテーブルへ戻った。
「渡辺、後で宿題見てやれ」
「…よろしいんですか」
渡辺さんは少し笑って言った。
「いい。入江家の居候があまりにもバカで、宿題すらも提出できないだなんてみっともないからな」
その言葉にうっと胸をつかれたけど、ここは素直に教えてもらうことにする。だって本当にわかんないんだもん。
「かしこまりました」
「おれもここで読書するからお茶を」
「はい。では、琴子さんも一緒にお持ちしましょう」
「ありがとうございます」
「麦茶な」
坊ちゃまは本を取り出して、あたしの向かい側に座った。
「はい、承知しております」
来た早々に渡辺さんは慌しく動き出した。
あたしはあ〜あと声を上げながら、坊ちゃまが来るまで広げていたテキストに向かうことにした。
坊ちゃまはこちらをちらりと見ただけで本を読み始めた。
どう見ても五歳児が読む本じゃないけどね。
児童書とはいえ、やけに分厚い本を手にしている。
「ねえ、面白い?」
「…うるさい、邪魔するな」
「はぁい」
仕方なくあたしはもう一度テキストに向かう。
カリカリとシャープペンで字を書く音、坊ちゃまが本をめくる微かな音。
さわさわと動く外の木擦れの音までが昨日と違って聞こえる。
こんな夏の午後なら、暑くても許せる気がする。
「坊ちゃま、イギリスはどうでしたか」
坊ちゃまは本を読みながらも答えてくれた。
「家族と会えるのはうれしい」
「そうですよね」
「…でも、なんとなく…物足りなかった」
「遊び足りなかったですか」
「…わからない。けど…」
「けど?」
そう聞いて坊ちゃまの顔を見たけど、坊ちゃまはそのまま黙ってしまった。
そして、そのまま本を読み始めている。
最後の言葉の続きは何だったんだろうと思いつつも、あたしは追及しないでおいた。
坊ちゃま自身も本当にわかっていなかったかもしれないし、追及するとへそを曲げそうだし。
静かな午後は、やがて坊ちゃまの寝息に取って代わった。
健やかな寝息は、いつかの熱の時ような呼吸ではなく、穏やかで満ち足りている。
「ふふ、珍しい」
様子を見に来た渡辺さんがおや?と言うようにこちらを見た。
あたしは口に人差し指を立てて、しーっと伝える。
渡辺さんはすっかり寝入った坊ちゃまを抱きかかえて部屋に運んでいく。
イギリスから直接来たらしいので、きっと疲れたんだろう。
明日は坊ちゃまと遊べるように、あたしは残りの宿題を片付けにかかった。



15


その日は随分と賑やかだった。
なんと言っても年に一度のイベント、体育祭だ。
あたしのいるF組は、残念なことにあまり頭はよろしくない。成績順でクラス分けのされる学年の中でF組と言えば馬鹿の代名詞とまで言われる。
だからこそ、成績で勝てるためしのないA組に年に一度だけ勝てるイベント、それが体育祭なのだ。


そんな賑やかな体育祭の二週間前から、あたしはリレーの練習でくたくただった。それでも何とか歩けるだけましってところ。
「何でそんなに疲れているんだ」
初めて練習があった日、坊ちゃまは不思議そうだった。
「体育祭と言って、小学校で言う運動会がもうすぐあるんですよ。それで男女混合リレーの選手になったので」
「男女混合リレー?」
「そうです。それほど足が速いわけじゃないんですけど、金ちゃんがどうしてもってうるさくて」
「誰だ、その金ちゃんってやつは」
「ああ。なんでも関西から来た男子で、池沢金之助っていうんですけどね、なんだかいつもうるさくて」
「ふーん」
「あたしが急いで帰るからこき使われてるとか、どうでもいいことばっかり」
「へーーーー」
「あ、もちろん否定しておきましたからね。大事にされてるって言いましたから。それなのに、まだなんだか…」
あたしはその時の坊ちゃまの表情を見ていなかった。
もうすっごく疲れていて、ソファにもたれながらうとうとしていたためだ。
でも渡辺さんに何かを言いつけているのはわかった。

「……だから、おれも行くぞ。そいつの顔を見てやる」

誰の顔見るつもり…?
そう言いたかったのだけど、あたしの口はむにゃむにゃと動くだけで言葉になっていなかったようだ。

「こいつ、寝ているときまでうるさいな」

ひどい、失礼な。
失礼…な…。
あたしの記憶はここまでだった。
次の日にそのことを聞いても坊ちゃまは「さあな」と答えてくれなかった。
そんなことをしているうちに体力もついたのか寝落ちすることはなくなったけど、体育祭はあっという間にやってきたのだった。


「なんというか、F組だけすごく気合入ってるわね〜」
理美の言葉にあたしはぐるりとトラックを囲む各クラスの横断幕や看板を見てみた。
うん、確かにF組だけその気合の入りっぷりが横断幕や看板に現れている。
A組なんて(特に三年生)『A組』というやる気のない文字。
え、何でA組のくせしてもっと華麗な言葉くらい使いなさいよ。
ああ、俺たちはこんな体育祭にはテストに関係ないからどうでもいいですってこと?
確かに成績順ではトップクラスのA組。
だからこそF組だけはここぞとばかりにはじけるのね。
「ところで、そのお弁当、気合入ってるわね」
あたしは渡辺さんに持たされたお弁当を食べていた。
坊ちゃまは午後からあたしの出番の時にやってくるつもりらしく、お弁当だけ持たされたのだ。
「おいしいよ。少し食べる?」
「あ、じゃあそのエビフライちょうだい」
「あ、一個だけよ」
理美がつまんだエビフライをあたしも食べようとつまんだところで金ちゃんがやってきた。
「おう、琴子、気合入ってるな。リレー、頼むで」
「う、うん、わかってる」
「弁当、うまそうやなー」
「ああ、うん」
「一つ…」
「琴子!」
金ちゃんがつまもうとしたお弁当を素早く蓋でブロックして、あたしは振り向いた。
「坊ちゃま」
あたしはそう言ってこっちにおいでと手を振った。
「…皆の前で坊ちゃまはやめろ」
「…じゃあ、直樹さま」
「…それも変だな」
「もう、じゃあ、坊ちゃまで」
坊ちゃまは結局それに慣れたのか、もう文句は言わなかった。
「午後からじゃなかったんですか」
「用事が早く済んだから来た」
「そうですか。あたしの出番はこれからですよ」
「リレーのほかには何に出るんだ」
「えーと、この後すぐの応援合戦です」
あたしは急いでお弁当を食べてしまうと、体操服の上からチアの衣装を着た。
もともと体操服を着ているので、足はもともと出てるし、スカートの下はめくればハーフパンツが丸見えなんだけど。
「…なんだ、そのかっこうは」
「応援合戦の女子の衣装ですよ」
坊ちゃまは眉間にしわを寄せる。
気に入らないのかしら。
いや、でも、体操服と変わらないし。
入江家の使用人がみっともない格好をしているとかそういうことかしら。
「じゃあ、行ってくるので見ていてくださいね」
あたしは両手にポンポンを持って集合場所に走って行った。
坊ちゃまはむすっとして何も言わなかったけど、渡辺さんが手を振って見送ってくれた。



To be continued.