もしも入江くんが幼稚園教諭だったら



10


「…こ、ここは…どこ…?!」
琴子先生は、和室の布団の上で青ざめた。
記憶がない。
何かとんでもないことをして連れてこられたのだろうか。
今は何時だろう。
そ、そうだ、仕事…!
などと焦った琴子先生は起き上がってみたが、盛大な頭痛に悩まされた。
「な、なに…これ」
ガンガンと響く頭を抱えて、琴子先生は自分の記憶にある過去の経験を振り返る。
「もしかして、二日酔い…?」
もしかしなくても二日酔いだ。
前に味わったのは、新人歓迎会で味わった人生初の飲みすぎによる二日酔いだった。
今回はいったいなぜこんな目に、と記憶を探る。
ようやく気付いた。
「た、七夕だった」
そう、正解は、直樹先生の母に家に七夕会に招待された琴子先生が、グレープジュースと間違えてワインを一気飲みしたせいで、ぶっ倒れたのだった。…が、その記憶はすっぽり抜けているらしい。
昨夜は直樹先生の家にお邪魔をして、それからの記憶がない。
直樹先生のミニチュアと、直樹先生の母と、大黒様のような…いや恵比須様だったか、どちらでもいいがそんな人もいたと思い出した。
琴子先生は気合で起き上がると、自分が昨日のままの服なことに気が付いた。多少しわがついているがそんなことは今問題ではない。
そろそろと音をたてないように戸口に行くと、ゆっくりと引き戸を開けた。
廊下は静まり返っていて、誰の気配もない。
外はすっかり明るいようだが、今何時なのかは定かではない。時計がないからだ。
どうしていいかわからない。
このまま黙って玄関を捜して帰りたいが、それはさすがに非常識というものだろう。
誰かに会ってあいさつをするべきだろうが、いったいこの状況はもしかしたらとんでもなく失礼なことをしでかしたのかもしれず、その誰かに会うのが怖い。
琴子先生は、そろりと廊下に出ると、玄関を捜して歩き出した。
それにしても広い家だ。
あのまま何かあったとして、直樹先生の家だったりするのだろうかと琴子先生は見覚えがないかと周りを見渡した。
廊下を進むと、なんとなく見覚えのあるドアを見つけた。
やはりもしかしなくても直樹先生の家だったらしい。そのドアの向こうにリビングがあったのをさすがの琴子先生も覚えている。
家の中で迷子にならなくてよかったとそれだけは安堵した。
まだ早いのか、誰もいない感じだった。
「お邪魔しまーす」
小声でリビングに通じるドアを開けると、相変わらず広いリビングには誰もいなかった。
時計があったので時間を見ると、時間は朝の四時半だった。
どうりで誰もまだ起きていないはずだ。
むしろこの時間に目が覚めたのは、奇跡と言えよう。これもいつもより早く寝てしまった恩恵だろうか。
「今のうちに家に帰って、シャワーを浴びて着替えれば、まだ間に合う」
そうだ、そうしよう。何かメモを残しておいて、後日改めてお詫びに伺えばいいのだと琴子先生は決心した。
「メモ、メモ…」
何か書くものと紙を捜してリビングを見渡す。
電話のそばにならメモくらいあるだろうとあたりをつけると、確かにあった。
それをつかんで琴子先生は必死にお詫びの言葉を考え出した。
「えーと、た、大変ご迷惑をおかけしてもうしわけありません、と。あ、この字で合ってたかな?またおわびは後日改めてうかがわせていただきます、と。うーんと、それから、どういう理由で泊まらせていただいたのかわかりませんが、とても楽しかったです。それから…」
「…なげぇ」
「ひ、ひーーーーーっ」
後ろからささやかれた言葉に驚いて琴子先生はメモに使っていたペンを落した。
「しかも、迷惑の字が間違ってやがる。裕樹ですら書けるぞ、それくらい」
「な、な、直樹先生」
「黙って出ていこうって、とんでもないやつだな」
「そ、それは、あの、えっと、でも、き、着替えとか」
「ああ、朝帰りするわけだ。まだ電車動いてないけどな」
「朝帰り…」
琴子先生はようやく気が付いた。
憧れの朝帰りだ。しかも、直樹先生の家から!
「朝帰り…!」
一人妄想にふける琴子先生に呆れるようにして直樹先生は言った。
「いつも遅刻寸前まで寝ているくせに、こういうときだけ早く起きてくるんだな」
「えへへ、目が覚めちゃって…あたた…」
照れ笑いをしたら、不意に頭が痛んで自分が二日酔いであることを思い出した。
「おまえ、金輪際アルコールを飲むな」
「うう、はい」
琴子先生は時計を見て言った。
「駅で始発を待つことにします。大変失礼いたしました。あの、おばさまにもそうお伝えください」
「…だってさ」
「あら、そんなに急いで帰らなくても」
その声に琴子先生は焦って振り向いた。
その途端に頭痛がする。
「うう、いったぁい」
「ほら、大丈夫?特製のドリンクを作ってあげるから、お待ちなさいな」
いつの間に、直樹先生の母・紀子が起きてきたのだ。
「あの、昨日は大変し、失礼い、いたしましたっ」
噛み噛みながらも何とかそう言うと、いつの間にか琴子先生の言葉もまるで気にせず直樹先生の母は何やら特性ドリンクを作り始めている。
「ねえ、琴子ちゃん、あなたの家、ちょっと遠すぎない?」
「あの、でも、一応父と暮らしていまして」
「あら、でも聞いた話だとお父さまの仕事場もこちらの方なんでしょ。引っ越していらっしゃいよ」
「いえ、いくらなんでもそんな簡単には…。それにこちらの方はお家賃も高いですし」
「そう?そうだわ!それなら、うちに来ればいいのよ」
「え?」
「は?」
琴子先生と直樹先生はそれぞれ何を言われたのかわからないといったふうだった。
はっと気が付いたのは直樹先生の方が早かった。
「何でそうなるんだ!」
「だって、こちらなら通勤にも便利じゃない」
「いえ、あの」
そう言われても、琴子先生としてはどう答えていいかわからない。そりゃこの家に来れば幼稚園まで一駅だ。
「父親と暮らしてるって言っただろうが。父と二人暮らしで父親一人にするつもりか」
「…あ、そうだったわね」
さすがに失念していたという感じで直樹先生の母は済まなさそうな顔をした。
琴子先生の母は幼い頃に亡くなっていて、父と二人暮らしなのだ。その父も普段はとても忙しい。
入江家に来れば賑やかになるし、通勤も楽でいいことずくめだと思われたのだが、さすがに父一人子一人の生活でいきなり娘を下宿させる親はなかなかいない。しかも年頃の娘が好きだと言っている男がいる家にとなると、更に話はややこしい。
「ああ、いいアイデアだと思ったのに、残念だわ〜」
「お気持ちだけで」
琴子先生は一瞬直樹先生との同棲同居生活を思い浮かべたが、さすがに思いとどまった。
「ほら、電車もそろそろ動いた頃だ、さっさと帰れ」
「ま、直樹ったら、そんな追い払うような言い方はないんじゃないかしら」
直樹先生としてはこれ以上母である紀子がろくでもない思い付きをしないうちに帰ってくれた方がありがたいのだ。
何せ今は早朝。しかも出勤前で朝っぱらからくだらない話を延々と議論したくもない、というわけだ。
「そ、それじゃ、あたしはこれで」
「残念だけど、また遊びに来てちょうだいね」
「はい。あ、えーと、直樹先生が許せば
勢いよく返事したものの、直樹先生のにらみを受け、小声で答えたのだった。

ともかく、琴子先生は人生初の朝帰りとなった。
入江家を出て、早朝の道を一人ではなく、隣にはなんと直樹先生の付き添い付きだ。
一人で行くと言ったのだが、早朝で誰もいない道を一人で帰らせるわけにはいかないと、母としての権限を使って直樹先生に強要したのだった。
駅までの短い距離と時間だが、琴子先生は若干二日酔いの残る頭で幸せをかみしめた。
「酒癖が悪すぎる」
「ごめんなさい。でも憶えてなくって」
そーだろーよ、と直樹先生は口に出さずに眉間にしわを寄せた。
「直樹先生はお酒強いですよねー」
確かに直樹先生がお酒に酔った姿は見たことがない。
結構歓迎会でも飲まされていたはずだが(酔わせてどうにかしようとした輩がいたことは想像に難くない)、今まで見た限りでは全く乱れない。
「とにかく、おまえは外で飲むな。酔いつぶれて襲われても文句は言えねーぞ」
「えー、直樹先生と一緒じゃないところで飲んだことないですよ〜。直樹先生なら…きゃっ」
直樹先生はため息をついた。
「合コンとやらで一緒に飲むやつが俺みたいに、全く、一ミリも、興味ない、とは限らないだろうからな。世の中女ならどんな奴でも構わないやつもいるらしいから」
無駄に強調された言葉に琴子先生は「直樹先生の意地悪」と一人むくれた。
「ほら、とっとと帰れ。それから、朝帰りしたからと言って遅刻すんなよ」
「…しません!」
ぷんぷんと怒りながら、琴子先生は改札をくぐっていった。
直樹先生はさっさと家に帰ろうと向き直ったところで、何かにぶつかった。
それは掃除のおばちゃんで、ふくよかな身体がまるでクッションのように跳ね返った。
「あらごめんなさいねぇ」
おばちゃんは頭を下げながらもさっさと移動していく。早朝の掃除が終わって急いでいるらしい。
そのふくよかさに直樹先生は何かを思い出した。
思わず指を見た。
全く、一ミリも、興味ない、はずだが、あの寝顔の頬を思わず摘まんだのは何故だろうと。
ふにふにとしたその触感を思い出し、直樹先生は頭を振った。
人間、小動物のような何か柔らかいものは本能的に触ってみたくなるものなのだろう。
多分そうに違いない。
目の前にあったから摘まんでみた。
確かに何も考えていなかった気がする、と。
それ以上深く考えずに直樹先生は再び早朝の道を歩き出したのだった。

(2017/10/08)