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「あっら〜、琴子ちゃん、いらっしゃい!」
上機嫌で入江家の門から現れたのは、直樹先生の母だ。
「あの、お邪魔いたします。それから、お招きいただきありがとうございます」
「こちらこそありがとう」
にこにこしながら現れた直樹先生の母に、琴子先生はひとまずほっとして振り返った。
直樹先生の表情をうかがおうとしたが、直樹先生は全く琴子先生を気にかける様子もなくさっさと家の中に入っていく。
何よりもこの家に来るまで、琴子先生は直樹先生と一言もしゃべっていなかった。
電車に乗るときも無言。
降りてからも無言。
家に歩いてくる道すがら、何を話しかけても無言なのだった。
いい加減琴子先生も落ち込むというものだろう。
「もう、エスコートもせずにひどい男だわ」
そのひどい男はあなたの息子ですと少々突っ込みたいところではあったが、とりあえず琴子先生は庭に案内された。
少々曇り空だったが、庭には笹飾りがあり、ちょっとしたオードブルが並んでいる。
そのそばには何ともにこやかに笑ったダルマのような…いや、ちょっとぽっちゃりした男の人が立っていた。
「やあ、いらっしゃい」
「パパ、琴子先生よ」
どこかで見た、と思った。そうだ、パンフレットに顔写真が、と思い出した。
「えーと、理事長…さま」
「さまはいらないから、気楽にして楽しんで」
「え、はい、ど、どうも」
そうやって琴子先生が頭を下げたその後ろで「頭悪そうな女」との声が。
慌てて振り向くと、そこにはミニチュア直樹先生が。
いや、直樹先生より若干残念な感じが。
「おまえ、声に出てるぞ!」
そのミニチュア…もとい、やや幼い小学生くらいの子どもはいったい…と思っていると、「こら、裕樹」と注意をする直樹先生の母。
「え、まさか、直樹先生の兄弟ですか」
「ええ、そうよ。生意気でごめんなさいね」
「いえ、こちらこそ失礼いたしました」
年の離れた直樹先生の弟だったらしいとわかり、琴子先生は一応目線を合わせて「こんばんは、よろしくね」とあいさつを試みた。
ところが。
「おまえ、ぼくは幼児じゃないぞ」
「ええ。小学生、だよね」
ややチビめなため、何年生かはあまり把握できないが、もしかしてもしかすると頭がいいだけで実は小学二、三年生とか?と思っていると、それすらも声に出ていたらしく、「ぼくは小学六年生だ!」と怒鳴られる始末だった。
「それは大変失礼いたしました」
思わず敬語で慌てて謝ったのだった。
直樹先生は家の中に入ったまま出てこない。
それでは意味がないと、直樹先生の母は呼びに行った。
いったいどういう手段を使ったのか不明だったが、その作戦はうまくいったらしく、しぶしぶといった感じで庭に出てきて、オードブルを摘まんでいる。
直樹先生が飲んでいるのと同じものをと、琴子先生もご相伴にあずかった。
「おい、それはワイン…!」
慌てて取り上げようとした直樹先生に逆らって、琴子先生は同じような液体の入ったグラスに口をつけて一気にあおった。それはグレープジュースではなくワインだった。
一応言っておくが、成人ではある。
お酒も飲める年齢だ。
しかし、数えるほどしか飲んだことはない。
何故ならそれは…。
「だいらい、なおりへんへーはずるいんれすよー」
「だから飲ませるのは嫌なんだ」
「まあ、ここまで酔ってしまったら仕方がないわね。今日は泊っていってもらいましょう」
「新人歓迎会でも散々くだ巻いて、オオトラなんだ、こいつは」
「へー、そうだったの。で、どうしたの、その後」
「酔って眠ったこいつをおぶって運ぶ羽目になったんだ!」
「どこへ?」
初めて聞く話に、直樹先生の母は興味津々だ。
「言っておくが期待してるようなことは何もないからな。運んだのは園長の自宅だ。こいつの家なんてやたら遠くて運べるか」
それでもいつもより良くしゃべる直樹先生に、直樹先生の母はほくそ笑む。
「今日はせいぜい客間までね。じゃ、おねがいね、直樹」
チクショウ、はめられた、と思いつつ、庭の片隅に座り込んだ琴子先生をそのまま放置しておくわけにもいかず、結局また運ぶ羽目になったのだった。
心情としてはこのまま放置しても死にはしないだろうと思うのだが、空模様はいよいよ怪しい。今にも雨が降ってきそうだからだ。よくぞここまで雨がもったと言うべきだろう。
七夕には雨が降りやすい。子どもたちも七夕の日の雨模様に残念な顔をすることが多い。それもそのはず、元は陰暦の暦が新暦での一ヶ月遅れ。つまり陰暦の七月七日は今の暦でいえば八月七日頃だったのに、新暦になってからもそのまま七月七日にしているからだ。今の暦では梅雨の最中で、完全な晴れという方が難しいのは当たり前だろう。
…という話を琴子先生にもしたのだが、本人はさっぱり訳がわからないといったふうだった。
そもそも陰暦と新暦すらも理解できていないようだったので、それ以来話すのをやめた。
背中でうごうごと何か呻いているのを聞きながら、よだれを垂らしてくれるなよとつぶやいておんぶでの移動だ。
仕方がない。小学生の弟には運べず、女手も多分無理だろうし、太めの父では息も上がるだろうと直樹先生は諦めたのだ。
そんな中、パシャっと光った。
一瞬雷かとすら思ったが、すぐに状況を理解した。
あの母親は…と振り向いたが、シャッターチャンスとばかりにさらに写真を撮られたので、無視することにした。
明日、目が覚めたら、琴子先生はどこにいるのかと驚愕することだろう。
いや、それよりも着替えもない状況で、朝一番に電車に乗って家に着替えに帰れるかも怪しい。
何せここから琴子先生の家は反対方面なのだ。
普段の琴子先生の生活習慣(時々出勤が遅刻寸前だ)を鑑みれば、この状況で早起きできるわけがないだろう。
朝帰りできるものならたいしたものだと誉めてやろうとすら皮肉にも思った直樹先生だったが、あまりにも平穏な顔で寝ているその顔が腹立たしくなり、頬をつねった。
その柔らかく伸びる感触が面白くて、気が付くと両頬を摘まんでいた。
摘まんだ両手をどうしようかと考えた後、ぱちんとはじいた。
「ふごっ」
琴子先生が痛いというように鼻を鳴らしたので、思わず笑ってしまった。
一瞬、ほんの一瞬だけ、どうしていいかわからない両手を前にして、何やらわからない感情が動いたのだが、部屋を後にしたら消え去った。
それに、部屋の外で直樹先生の母がこれぞベストショットというように狙っているかもしれないと思い出したのも幸いだった。(結局いなかったが)
明日の朝、琴子先生が目覚めたら、どんな顔で起きだしてくるのやら。
直樹先生はちょっとだけその様子を想像するとやはり笑いがこみあげてきたのだった。
(2017/08/30)