もしも入江くんが幼稚園教諭だったら




琴子先生はとある家の前に来て躊躇していた。
閑静な住宅地にこれまた高級そうな住宅が立ち並ぶ一角だ。
おまけに門に『入江』という表札が認められたが、その家もまたやけに大きかった。
「ここ、でいいのよね」
何度か門に付いているインターホンを押そうと思っているのだが、なかなか勇気が出ない。
「えーい、女は度胸だ」
目をつぶってえいやっと押してみたら、意外な感触。
「あら、やだ、柔らかいのね」
「…おまえは、俺の胸を押して何かいいことがあると思ってるのか」
「え?」
琴子先生が聞き慣れた声に目を開けると、そこには、仁王立ちした直樹先生が立っていた。しかも、服の上からではあるが自分の指がその胸にめり込んでいる。
「うわあああ」
驚いて飛び退くと、「ど、どうしているんですか」と直樹先生に向かって叫んだ。
「俺の家だからだ!」
「あ、そうか。そっか、そっか…そうだった」
「門の前に不審なやつがいると思えばおまえで、しかもいい加減さっさとインターホンを押すとかすればいいものを」
「だ、だだだだって、き、緊張してたから。こんなに立派なお宅で、直樹先生の家で、理事の方に呼ばれたとなると、何かあるのかと思って」
「何もねーよ!ただおふくろが酔狂で呼んだだけだろ」
「す、すいきょうって何?」
「…とにかく入れ。みっともない」
「あ、はい、ありがとうございます」
直樹先生に連れられて、琴子先生は初のお宅訪問となった。

そもそもきっかけは理事である直樹先生の母が琴子先生を気に入って家に呼びたいと言ったことから始まった。
もちろん直樹先生は冗談じゃないと琴子先生に伝えずにいたのだが、そんなことで阻止できる母ではないということを直樹先生は思い知ることになった。
今まで直樹先生に対してはやや遠慮がちな母だったが、最近はパワー全開、とんでもなくうっとおしい存在になりつつあった。まさに遅れた思春期の家族うざい状態だ。
何も知らなかった琴子先生が、突然帰り道で声をかけられた怪しげな女性は先日会ったばかりの直樹先生の母で、琴子先生に次の日曜日にぜひとも家に訪問してほしいという話だったのだ。
そこまでの事細かな地図までいただいて、もちろん直樹先生に興味も愛もある琴子先生は断るという選択肢がなかった。
たとえ直樹先生にはうざがられても、理事に呼ばれたからという体裁も取り作れるのだ。
しかも直樹先生との間を取り持ってもよいなどという話もちらりとされてしまった。しかも、直樹先生の母にだ。
これで嫁姑問題も家族の障害もクリアではないかと琴子先生は喜んだ。あ、もちろん直樹先生という肝心要の本丸が残っていたとしても、だ。むしろそれが一番厳しい砦かもしれない。
というわけで今日の日曜日お宅訪問になったのである。

「お、お邪魔します」
小さな声でそっと直樹先生の後ろから玄関扉をくぐった琴子先生を待ち受けていたのは、盛大な『歓迎、琴子先生』という横断幕だった。
玄関の趣味も素晴らしく、上品にまとめられたセレブそのものの玄関に横断幕。しかも手作りっぽい。
「あの、これは」
琴子先生の疑問に答える暇なく陽気な声が響いてきた。
「まあ!ようこそいらっしゃい!」
満面の笑みを浮かべた直樹先生の母だった。
「あの、今日はお招きいただきありがとうございます」
それだけを言うと、「さ、上がってちょうだい。直樹、そんなところに立たせていないでリビングに案内してちょうだい」といそいそと奥に戻って行ってしまった。
うわー、直樹先生と二人にしないでーと言いたかったが、仕方がない。
直樹先生はさっさと来いとばかりに琴子先生を促してリビングに行ってしまった。
ふわふわなスリッパに足を入れ、琴子先生は慌てて直樹先生の後を追ったのだった。

リビングにはこれまた居心地の良さそうなソファがあり、座ればと直樹先生に促された。
「し、失礼いたします」
幼稚園の面接でもここまで緊張しただろうかと思いながらソファに座った琴子先生だったが、斜め向かいに座る直樹先生を見て緊張感も吹っ飛んだ。

ああ、あたし、直樹先生の家にいるのね。
さっきはよく見なかったけど、私服!私服よ!
ちょっとした春物のセーターから伸びる長い脚。
そばに置いてあった本を手に取ると、当たり前のように読みだすその知的な動作。
これが、これが家での直樹先生なのね!

「…全部口に出すな」
さり気なく直樹先生の一言で琴子先生はまたもや口に出していることに気が付いた。
「えへへ、つい」
「もういいけどな」
直樹先生は動じない。幼稚園で嫌でも慣らされているのだ。
…と、そこへお茶セットを持ってきた直樹先生の母がにこやかに現れた。
「さあさあ、琴子さん、どうかくつろいでちょうだいね。まずはお茶をどうぞ。お茶うけは何がお好みかしら。ケーキ?それともクッキー?二杯目はよかったらコーヒーでも」
「どちらも好きです」
「まあ、そう?それはよかったわ。全部召し上がっていってね。張り切ってたくさん作っちゃったの」
「わあ、作ったんですか!すごい!しかもおいしそう。本当に全部食べていいんですか」
和やかに直樹先生の家での訪問は始まった。

(2017/01/31)