六月の雨の女神




マンションは家具も備え付けで、特に困ることはないという。
琴子は一通り部屋を眺めてから窓の外を見た。

「神戸とは違うね」
「当たり前だ」

二人で並んで窓の外を眺めて、神戸での離れ離れの期間を思い出していた。

「入江くんの研修はどんな感じ?」
「神戸時代とは違って結構楽しい」
「楽しい…?」

琴子はその言葉にもやっとする。
もしかして可愛い看護婦とかうっふんな女医とか美人な患者とか、などと余計な妄想までしてしまう。

「神戸時代は必死だったから。
早く研修を終えて東京に戻らないとって思ってたし、それこそ忙しくて周りが見えないくらいに」
「入江くんでもそんなふうだったんだ」
「おまけにおまえがちゃんと勉強しているか心配だったし」
「じゃあ、今回は安心だったのよね」
「…安心じゃないから策を弄したんだろ」
「ちゃ、ちゃんとがんばってたもん」

琴子が膨れ面を直樹に向けると、直樹はその頬をつついて唇にキスを落とした。
窓の外ではとうとう雨が降り出し、雨粒が窓をぬらし始めたが、二人は構うことなくキスを繰り返したのだった。

 * * *

いつもは早起きできない琴子だったが、直樹よりも早く目が覚めて、くしゃくしゃになった髪を振った。

「うーん、天気は…」

寝ぼけ眼で窓の外を見ようと動くと、いつもとは違う狭いベッドから起き上がった。

「…パジャマ…」

自分が何も着ていないことを思い出し、慌てて下着を拾い集めた。

「…早いな」

つぶやいた直樹に振り向いて、その寝起きの顔にうっとりする。
朝から妙に色気満載の寝起き顔がたまらず(しかも久々)、琴子はうふふと不気味な笑い声を上げた。

「…普段もそれくらい早く起きろよ」

あくびをしながら起き上がった直樹に思わず琴子は叫んだ。
「ずるい、自分だけしっかりパンツはいて…!」
「…そんなに言うならはかせてやろうか」
髪をくしゃくしゃとかき上げ、眠そうな目で直樹は答えた。
内心、朝からその話題はないだろ、と思いつつ。

「け、け、結構です!」
「じゃあ、黙れ」
むぎゅっと琴子の鼻をつまんでから「おはよう」と笑った。
琴子はつまれた鼻をさすりながら少々鼻声で答えた。
「おはよう、入江くん」

何気ない朝の挨拶は、琴子が想像していたよりもずっとロマンチックじゃなかったが、いつもと同じような朝が始まったことに安堵もしていた。
ほんの少し離れていただけで、自分の声も顔も忘れてしまったんじゃないかと不安になる。
ましてや直樹の周りにはいつも老若男女の人があふれており、直樹自身さえ望めばどんなことも可能なような気がしていたからだ。
平々凡々な自分など頭の中から消え去ってしまうんじゃないかと常々思っていたのだ。

「よかった。入江くんが、入江くんのままで」
「…何言ってんだか意味不明」
「うふふふ、今日はお出かけしようね!」
「仕方ねーな」

外は昨日ほどの雨ではないものの、まだ空の雲は厚そうだった。

「曇りかぁ」
「外でメシ食うわけじゃあるまいし、雨でも関係ないだろ」
「…うん、そうだよね!」

いそいそと支度を整え、梅雨空模様の下、出かけることになったのだった。

(2011/10/05)