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オペ後に消えるという生意気な後輩を追いかけて(尾行して)専門棟まで来た僕と琴子ちゃんは、専門棟に来た途端にやはり消えてしまった後輩を見つけることができなかった。
錯乱した琴子ちゃんは、あちこちの講義室や鍵の開いていた研究室なんかを手当たり次第に開けてまわり、見つけられないとわかると泣き叫んで廊下の向こうへと走って行ってしまった。
向こうから戻れないことはないけど、琴子ちゃんの能力で果たしてちゃんと戻れるのかどうかは不明。
ま、今日は勤務じゃなさそうだからいいか。
その際に眼鏡を吹っ飛ばされた僕は、廊下を手探りで眼鏡を探していると、そこに不機嫌極まりない大蛇森先生がいた。
脳外科のこの先生は、ちょっと趣味が特殊なようだ。
何であの生意気な後輩がお気に入りなんだかよくわからないけど、そのお気に入り具合が能力云々だけじゃないところが怖い。
その大蛇森先生から眼鏡を手渡された。
…その際に指が触れるとすいっとさりげなく撫でられるおまけつきだ。
いや、僕はそっちの趣味はないんで。
引きつりながら眼鏡をかけ、お礼を言うもうまく言葉が出てこない。
「あ、りがとう、ゴザイマス」
何とかお礼を言うと、その場を逃げるようにして離れた。
ちょうど教授室から出てきたアシスタントのエリコちゃんに癒してもらおう。
エリコちゃんの知的な顔を見ていたら、ようやく先ほどの鳥肌もおさまってきた。
ところがエリコちゃんは僕を通り越してある一点に視線が固定された。
まさかと思い後ろを振り向くと、案の定あの生意気な後輩だ。
肝心な時には出てこず、今になって出てくるとは何てヤツだ。
「入江、おまえ、こんなところで何やってるんだ!」
思わず口を突いて出た。
だってそうだろう?琴子ちゃんが捜した時には出てこず、エリコちゃんに声をかけた時に出てくるなんて何の嫌がらせかと思うよ。
だいたいエリコちゃんもこんな既婚者で冷血浮気者のどこがいいんだか。
ん?僕の方が浮気者じゃないかって?
僕は特定の誰かと付き合っているわけじゃないからいいんだよ。
後輩は僕に構うことなく専門棟から中央棟に戻っていく。
このまま病棟に行くのだろう。
まだシャワーを浴びて乾ききっていない髪のせいかエリコちゃんは「素敵」と目がハートになっている。いつもあんな感じだよ、オペ後は!
僕だってまだ乱れたこの髪に色気を感じてくれないかな。
エリコちゃんはうっとりしたまま言った。
「だって、髪を上げている入江先生って滅多に見ないから」
いや、僕もあまりないと思うんだけど。
と、そんなことを言ってる場合じゃなかった。
僕はエリコちゃんにまたねと告げて入江の後を追った。
行先はオペ患者の病棟だから慌てる必要はないけど、その前に捕まえたい。
「おい、入江!」
「何ですか」
「琴子ちゃんが」
「琴子が?」
ピクリと眉が動いた。
さすが嫁のことになると気になるらしい。
「あ、やっぱり何でもない」
そう言ってさっさと歩き始めた。
こうするとヤツは焦って…いてっ。
後輩のくせに後ろから蹴飛ばしやがった!
怒って振り向くと、ヤツは悪びれずに「あ、すみません、当たってしまいました」と言った。
いや、当たったんじゃなくて、蹴飛ばしたの間違いだろ!
「それで、琴子がどうしたんです」
…なんか…君から瘴気のようなものが漂ってるんだけど。
「さっき、専門棟で会ったんだけど」
「…それで?」
さっさと話せ、このうすらとんかち!というような圧迫を感じる。
「なんだかよくわからないうちに走って行ってしまって、あのままでは…」
横から、バコン!と音がした。
今、何をしたのかな…。背筋が震えた。
「さっさと病棟へ行きましょう」
「あ、そう?」
恐る恐る振り向くと、廊下の隅に置いてあった段ボール箱がべこりとへこんでいた。
…いいのか?いや、見なかったことにしよう。
そう思った僕の後ろの方では、「うわーーーー!」と何かに絶望したような声が響いてきた。
僕は何も見なかった。うん、知らなかったことにしよう…。
その後の後輩は、本当に生意気なことにいつもの倍速でオペ後指示を済ませ、僕を精神的に締め上げて琴子ちゃんの迷子予測を吐かせた後、全ての業務を僕に丸投げして消えた。
まあ、指示は完璧だから別にいいんだけどね。
でも何となく、こう溜まるものがあるわけだ。
「今日の入江先生、鬼気迫っていましたね」
「ああ、桔梗君もそう思うかい?」
ナースステーションの片隅で、僕はぼんやりと皆が立ち働くのを見ていた。
「琴子に何かあったんですか」
「何かって、まだ何も。強いて言うなら、これから迷子になるかもってところかな」
「…戻ってきますかね」
「さあね。戻ってこない方が僕の身にはありがたいかも」
「あら、今日は仕事を押し付けられたって怒らないんですね」
「いや、怒ってるよ。でもそれ以上にあいつがどす黒いオーラを出して僕を追い立てるからさ、僕の怒りなんてかわいいもんだなぁって」
「琴子が絡むと容赦ないですからねぇ」
「一撃で段ボール箱なんてぺしゃんこ」
「まあ、段ボール箱ならまだ被害は…」
「その強烈な蹴りが僕のお尻に」
「まあ…!」
そう言って桔梗君は気の毒そうな顔で僕のお尻を見た。
いや、へこんでないからね、僕のお尻は。
「そう言えば、結局あいつはどこに消えていたんだろう」
その疑問はまだ解決していない。
琴子ちゃんのために僕を蹴飛ばすほど速攻で助けに行くのなら、浮気はなかったってことか?
それとも浮気を隠すために焦っていたとか?
やはり専門棟の方に何か秘密があるのか?
だいたい一緒に消えたオペ室の新人ちゃんはどこに行ったんだ?
「消えたと言えば、聞いたことありますか、秘密の部屋の話を」
「何だい、それは」
「専門棟に、誰も知らない部屋が出現するそうですよ」
「誰も知らないんじゃ、部屋そのものが存在しないんじゃないか」
「隠された存在だとか、見える人には見えるのだとか」
「何だよ、それ。まるで賢者しか座れない椅子みたいなとんでもない話だな」(イタkiss期間2013『ドクターNと賢者の椅子』参照)
「だからですよ。入江先生なら見える人であって、入れる人じゃないかってことですよ」
「それって僕には見えないし入れないって言ってるよね」
「まあまあ、そこは置いておいてください」
何だよ何だよ、結局僕には無理だってことかい。
「とにかく僕たちは消えたというあいつを捜しに行ったんだよ」
「僕たちってことは琴子とですか?」
「別に僕が誘ったわけじゃない、別々にそれぞれあいつの後をつけていたら鉢合わせ」
「ああ、それで入江先生が」
「怪しいだろ。怪しいよね」
「まあ、そ、そうですねぇ」
「もう一度チャレンジだな」
「何度目ですか、それ」
「二度とも逃げられた」
「はあ、まあ、成功したらぜひ教えてくださいね」
あまり期待していないふうで桔梗君は言った。
そんなやり取りをした数日後、要はまたオペ後に僕は専門棟へ向かう入江を追った。
今度こそと気合を入れた僕の後ろから、またもや琴子ちゃんが現れた。
まだ懲りていないらしい。
あの迷子騒動は、あいつの素早い救出で大事に至らなかった、らしい。
そもそもどうなったのか詳しいことは知らない。
少なくとも琴子ちゃんは専門棟でのことをうまく説明できないまま今日に至っている。
「今度こそ秘密の部屋を見つけるのよ」
いや、目的はそれじゃないんだけど。
「何か特別の呪文でもいるのかしらね」
開けごまみたいな?
またもや暴走しそうになる琴子ちゃんを抑えるのは結局僕の役目か。
しかも今日はまだ勤務中、だよね。仕事どうしてるの、君。
前回のようにあちこち開けることがないように…って言ってる傍から何やってるの、琴子ちゃん!
「ここね!」
バンっと音を立てて、よりによって院長室の隣を開けた。
そこは院長の愛人…あわわ、いやいや、そこは開けちゃダメだと止める間もなかった。
確かに怪しい扉だけども。
うん、見るからに隠された怪しい雰囲気だけども。
隠された意味が違うからっ。
「何やってるんだね、君は」
大っぴらにはそこは休憩所だからダメだと言えない院長。
表向きは秘書室だし。
「入江くん密会の場所?!」
この琴子ちゃんの疑問に大いにうろたえたのは院長その人だった。
大っぴらに言えないし、騒がれても困るし。
「な、何言ってるんだね、そんなわけは…」
「だって、見るからに怪しいし」
いや、どう見ても院長室の隣だからっ。
よく見て、琴子ちゃん!
僕の忠告も耳に入っていないんだろうな。
もう最初の目的が何だったのか、わけがわからない。
しかし、このどうしようもない状態に収拾をつけたのは、我らが清水主任だった。
どこからか風のように現れて、「何やってるんですか!」と一喝した。
状況をさっと見てとると、「こんなところで騒ぐほど暇なんですか、あなた方は」と僕もまとめて怒られた。
いや、まあそうなんだけどさ。
でも清水主任の一喝で、琴子ちゃんは我に返ったらしく、しゅんとしたままとぼとぼと病棟に戻っていった。
もちろん僕も病棟に戻るしかなく、三度目の尾行は失敗に終わったのだった。
しかも病棟へ戻ると先に後輩は戻っていて、しれっとした顔で「指示だし、やっておきましたが」とあたかもどこへ行っていたんだと言わんばかりだった。
ちくしょー、生意気な!
今度こそ、今度こそ、三度目ならぬ四度目の正直で、秘密を暴いてやる!
ええい、おまえなんて大蛇森先生の餌食にでもなればいいのに!
「ねえ、琴子ちゃん、そう思わないか?」
僕の心の声を読み取れない琴子ちゃんはきょとんとしていた。
それなのに、目が合った後輩は、それこそツンドラ冷却機能を最大まで上げたような目をして僕を見たのだった。
何でお前にはわかるんだよっ、エスパーか!
僕の心のツッコミを残してあいつはさっさと帰っていった。
エスパーに勝つためには…。
当初の目的が何だったのか、既に見失っていることにしばらく気付かなかったのだった。
(2014/10/20)
To be continued.