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医療所で診察をするからと呼ばれたコトリンは、少しだけほっとしていました。
勉強詰めの毎日で、息抜きは中庭の散策と王妃様とのお茶会。
お茶会が息抜きかと言うとこれもマナーの一環でもあるので、緊張を強いられる分軽々しく息抜きなどと言えない状況でしたが、少なくともおいしいお菓子を食べられる時間はほっとする時間ではありました。
医療所の医師は、前にお世話になった医師でしたが、コトリンは正確な名前を憶えておりませんでした。
「改めまして。トーマ・ニシ・ガッキーです。こちらの医療所で主に騎士様方の診療をさせていただいております」
「こちらこそ。…コトリン・フグ・アイハラでございます」
習った通りに礼をして、コトリンは勧められるままに椅子に腰を下ろしました。
一瞬どうやって挨拶をするんだっけと間が空いたものの、口癖でもあるえーっと、と口に出さなかっただけでもとりあえず合格点だったことでしょう。
医師からの質問に答え、腰の具合はそれほど問題ないとお墨付きをもらい、コトリンはほっとしました。
医師は隣の医療所付きの侍女を見てうなずくと、コトリンに付いてきた侍女のモトに向かって言いました。
「申し訳ないが、令嬢の個人的なことをお聞きしたいので、部屋の外でお待ちください」
「それは、どういうことでございましょう」
すかさずモトがそう言いましたが、医療所付きの侍女が答えました。
「令嬢に何かをするわけではございません。私が付いておりますのでこの医師と二人きりになるわけでもございません。
ただ、令嬢はまだ王宮の方ではございませんので、個人的な話に立ち入られないための配慮でございます。必要とあれば令嬢から詳細をお聞きすればよろしいことです。どうしても内容が知りたいとおっしゃるならば、上からのご指示を仰いでくださいますようお願い申し上げます」
さらりと『まだ』と言われたことに、コトリンはもちろん聞いておりませんでしたが、王宮に滞在しているだけの令嬢の個人的なことに立ち入る権限は、さすがにモトたちにはありませんでした。仕方なく「何かありましたら大声でお呼びくださいませ」と念を押して部屋の外に出たのでした。
コトリンは医療所で何が起こるというのだろうと危機感皆無でにこやかにうなずいてモトを見送りました。
それにしても何を聞かれるのか、そちらの方が気になります。
「領地では学舎に行っていたかい?」
「はい。成績はたいして良くありませんでしたが」
「いや、まあ、そんなことはどうでも…」
「あ、そうですね」
コトリンは早速余計なことを言ったと顔を赤らめました。
「それで、学舎にイツワ男爵の娘がいたかい?」
「…ええっと…」
「まあたくさんいただろうしね。こう、髪色が桃色の…」
両側で髪を縛る仕草をした医師を見て、コトリンはなんとなく思い出しました。
「ああ!そう言えば、珍しい髪色をしたオリーという名の男爵令嬢がおりました」
「それだ、それ」
「その方が何か…?」
オリーという名まで思い出したには理由がありました。
学舎にいた頃、時々視界にちらりと映る令嬢がいたのですが、コトリンが何か用なのかと微笑むとすぐにいなくなってしまうのです。時々幻か何かかと思ったものです。
ただ、隠れるにはあまりにも目立つ髪なので覚えていたのです。
同じように気にしていたらしい学友が、あれはイツワ男爵家のオリーだと教えてくれたのでした。
卒業するまで、何か特別に話しかけられるわけでもなく、同じ教室になることもなく過ぎたのです。
「そのイツワ男爵の娘からぜひとも手紙を渡してほしい、と頼まれたんだ。知らないなら渡すのもやめにするところだったし、何か嫌な思い出があるならやはり渡すのをやめにするが」
「それでもお医者様は預かったんですよね?」
「預かりはしたが、これは僕の独断でやめにすることはできる」
「…受け取ります。特に恨まれる覚えもありませんし、受け取るだけなら問題はないでしょうし、何かあったら相談することにします」
「それなら渡すけれど、よかったらここで読んでいくかい?」
コトリンは少しだけ考え、いざとなったらこの手紙をここに置いていってもいいのだという医師の申し出なのだと気付きました。
持って行った場合に、やはり侍女のモトに問いただされるのも絶対でしょう。
「ご配慮ありがとうございます」
そう言って、手紙を開くことにしました。
季節のあいさつはともかく、内容はごく普通の昔を懐かしむ文面と、この間のデビュタントで見かけたが、声をかける機会を逃がしたこと。同じ城内で見習いをしているので、よかったら一度お茶でもしないかという内容でした。
コトリンは読み終えてうーんとうなって考え込みました。
同じ領出身で、同じ学舎にいた者としては、お茶の誘いに乗ってもいいし、むしろ乗ってみたいと思いました。たとえあまり親しくなかったとしても、同じ年の友人が城内にいないとなれば気軽に話のできる関係になるかもしれないという期待を込めて。
しかし、根本的にコトリンには時間がなかったのです。
短期間で詰込みの礼儀作法の時間は、今はコトリンの日常になっており、王妃様とのお茶の時間すら息抜きになってしまうような毎日だったのです。
「まあ、一つ君へ忠告するとしたら、これからの行動は君だけの責任ではなくなるので、安易に返事をしないことと、誰かに相談することだね」
「まあ、ラッキー男爵様は、私の悩みがわかるのですね。さすがお医者様」
「…うん、ガッキーね。まあ、なんだか幸運そうな名前だからいいけど」
「し、失礼いたしました」
「他のお貴族様は、名前間違えると大変なことになるから気をつけたまえ」
「肝に銘じます」
そう答えてふと気づいた。
「あの、このために私をこちらに?」
「え?あ、まあ、腰も心配ではあったんだよ。うん、これから酷使す…あでっ」
さりげなく隣に立っていた侍女に背中をはたかれた
帰る前に、と大事なことを聞き忘れていたことに気づき、コトリンは言いました。
「このお返事はどのようにしたら届くのでしょうか」
彼女が務めている部署も調べればわかることでしょうが、さすがにそこまで王宮の侍女に頼むことはできません。
「どうぞこちらの医療所宛によこしてくださいませ。私が責任をもってお届けいたします」
侍女にそう言われて、コトリンはうなずくと、「それほど長くいないと思いますが、少し考えてみますね」と言って、コトリンは医療所を出たのでした。
部屋の外でコトリンを待っていた侍女のモトは、出てきたコトリンを上から下までよく見て、何もなかったようだと胸をなでおろしました。
仮にも王太子妃候補に何かあれば、候補自体は取り消されるだけで済むかもしれませんが、お付きの侍女たちは全員職を失いかねません。
何せ今一番可能性の高い候補者、なのです。
あれでいて、素気ない態度の王太子がどんな行動に出るか予想がつきません。
一番残念なのは、本人にその自覚がないこと、なのですが。
ここまで特別扱いされているという自覚があるのかないのか。
ある程度王妃様のお声がかりという特別扱いは自覚しているものの、それが何を意味するのかというところまで考えが及びついていないのです。
そして、それが頭が残念という世間の噂を否定しきれないところが侍女であるモトの悩みの種だったりするのでした。
「コトリン様、何もなくてようございました」
「え、あ、はい。本当に」
それはほっとしたようにうなずき、コトリンとモトは部屋へ戻るために歩き出しました。
あえて何もなかったと声を出したのは、医療所を訪れる持病があるのではないかという噂を否定するためでした。
医療所のお墨付き、となれば、健康でお世継ぎを生むのにも問題がないということになるのです。
そんな裏事情など考えることもなく、コトリンは少しだけ顔を曇らせていました。
「他に何かございましたか」
部屋に入る直前にそう問えば、コトリンは部屋に入ってからため息をつきました。
「言ってもいいのかどうか迷ったのですが」
「はい」
「私の故郷はご存じですか」
「アイハラ子爵領ですね。確か北方のフーグ地方でしたか」
「ええ。そこで同じ学舎に通っていた方が同じく城内の侍女としてお仕えをしているのです」
モトは今年のデビュタント前後に新しく雇用された侍女たちのリストを思い浮かべました。
たいていの侍女見習いは、男爵や子爵などの地方貴族の子女が多く、何年か務めた後に結婚相手を見つけてやめていくことが多かったのです。
「私は今毎日忙しくて、本当なら今日だってダンスの練習が入っていたのを変更してもらいましたから、彼女とゆっくり会うのは、今じゃなくて、行儀見習いが終わってからでもいいんじゃないかしらって」
モトは、その行儀見習いが終わるのを待っていたら永遠にご友人に会えないままだと思います、とは口に出しませんでしたが、一応うなずいておきました。
「お会いしたいのですか?」
「それが…実は学舎にいた頃は、それほど親しくもなくて」
王太子妃候補になったので、いかにも親しかったかのように繋ぎをとろうとする者も出てくるのは、よくあることでしたから、モトはきっと侍女として仕えるにしてももっと楽で高給なコトリン付きとなりたいなどと持ち掛けられることもあり得ると思ったのでした。
「お断りしたらどうでしょうか」
「でも、何か用事だったら」
その用事がろくなものでもなかった場合はどうするのだと言いかけて、モトは少し考えて言いました。
「では親しい方を招いてお茶会を開いてみてはいかがでしょうか。礼儀作法のおさらいを兼ねて」
「確かに近いうちにお茶でもしないかというお誘いではありましたが」
「ご友人方なら多少の無作法も許してくださることでしょうし、たとえ失敗したとしても大きな損害にはならないでしょう」
「し、失敗…損害…」
モトの言葉にええっと驚いた後は、自分が主催して失敗したらどうしようと心配になったようです。
「大丈夫です。そのために私たちがいるのです。そして、この機会に本当に大事なご友人を選別…いえ、お選びになるのも社交界では大事なことでございますよ」
「そ、そうかしら。それほどお友達もいないんだけど」
「いろいろと、ええ、本当にいろいろと余計なことを言ってくる方もいらっしゃいますし、敵味方を見極める目を養わないといけませんから」
「て、敵…?」
何か別のことを考えていそうなコトリンをとりあえず放っておき、この事態を王妃様に報告するべく、モトは手紙を書くことにしたのでした。
さて、あれから、何かと理由をつけてコトリンの顔も見ずに済ませていた王太子殿下のナオーキでしたが、母である王妃様からいい加減に婚約者を考えろとお叱りがきたのでした。
「いいのよ、別に国にとって支障がなければ誰でも。ええ、あなたが男として不能でないという証明さえできれば引く手数多でしょうよ」
扇で口元を隠しながらも王妃様にしてはかなりきつい言葉をナオーキに投げかけたのでした。
これを下品と切り捨てることもできましたが、成人の儀を済ませたそれなりに大国の王太子としては、世継ぎのことも考えねばなりません。
それこそ弟の第二王子に譲るという選択肢もないわけではありませんが、弟が継ぐにはまだまだ時が必要です。
隣国からの横やりも国内の有力貴族からのごり押しもあれこれと力関係も考えると、ナオーキがさっさと婚約者を決めて安定を求めた方がうまくいくのはわかりきっているのですが、いまいち踏み込めません。
侯爵令嬢も伯爵令嬢もかなり有能な見目麗しい令嬢でした。
今まで最有力候補とされてあとは選ぶだけという周囲の期待もありました。
本来ならもっと早くから婚約者を決めておくはずでしたが、国内情勢がようやく安定したのはほんの十年ほどのことです。
父である国王が見た目のんびりな福顔だったことから、あの手この手で懐柔しようとする輩とか、甘く見た反貴族派の連中から狙われたりと結構大変だったのです。
そのため、ナオーキが幼い頃は身を隠すためにアイハラ領で密かに過ごしていたのです。
「そもそもあの女が王妃に向くと思うか?」
少々乱暴にそう言うと、王妃様はにんまりと笑いました。
「あら、向くとか向かないとかそんなことまで考えていたのね。
どうせ女の役割は、にっこり笑って国内外の奥様方を敵に回さなければ済むことが大半なのよ。そう思えば、彼女は貴重な存在よ。
あなたも気が付いているでしょうけれど、彼女のことを悪しざまに言う者たちは、元からこちらの味方なわけじゃないでしょう。
彼女のあの素直な性根は、あなたには絶対に必要なものだと思うわ」
「…その根拠は」
呆れたようにそう返すと、王妃様はきっぱりと言いました。
「母としての勘よ!」
ナオーキは無言で王妃様の前を退いたのでした。
「兄上様!」
珍しく執務室に第二王子であるユーキ殿下がやってきました。
普段はわがままも言わない、物わかりのいい子どもで、ナオーキの言うことにも素直に従うかわいい弟でした。
前触れもなしに突然訪れたのは極めて珍しいことだと思いました。
「あの女、馬鹿だ!」
隣で苦笑するナーベ宰相補佐がちらりとナオーキを見ました。
開口一番これでは、何と答えるのかと。
「確かにそうだな」
ユーキ殿下は顔をほころばせてうなずきました。
「そう思いますよね!」
「だが、あれでも母のお声がかりだ」
「…すみませんでした」
「馬鹿なのはわかりきってるから、もっと他の表現のほうがいいだろう」
「…精進します」
あくまで真面目な顔で兄弟がそう言うと、ナーベ宰相補佐がわざとらしく顔をしかめて眼鏡を上げました。
「ナオーキ様…他の誰かに聞かれますと…」
「…というわけだ」
ナオーキがふざけた調子でユーキ殿下を見ると、ユーキ殿下はにっこり笑って「お仕事中に邪魔してごめんなさい」と機嫌よく帰って行ったのでした。
「一か月後の新年の宴には、お相手を決めるようにと言われているんですよ。どうするつもりです?」
「そんな都合よく一生を決められるか」
「私は嫌ですからね。王子と恋仲だなんて」
「そんな噂流したやつに覚えておけと言っておけ」
「ご自分で否定なさってください、面倒くさがらずに。ようやくお妃候補ができたと皆様喜んでいらっしゃるのに」
「それならお前が立候補すれば?」
「…よろしいんですか?」
ずいっとナオーキにナーベ宰相補佐が迫りました。
「言質を取りますよ?」
そこへバサッとした音に振り向けば、部屋の入口には手に持った書類を落とした騎士が立っていたのです。
「す、すみません。扉を叩いても返事がなく、お留守だと…」
赤い顔をしてナオーキとナーベ宰相補佐を見つめています。
何か多大なる誤解が生まれたようだと二人は察しましたが、どう言い訳したら一度で理解してくれるのかと口を開けたところで、件の騎士は「失礼いたしました!お邪魔しました!誰にも言いません!」と叫んで踵を返して行ってしまったのでした。
何もかも誤解だとナーベ宰相候補が捕まえようと思った時には、騎士は遥か彼方に駆け足で戻っていった後だったのです。
「…文官の悲劇だな」
「そう思うならナオーキ様が捕まえるべきでしたよ」
開け放たれた扉の向こうを見て、二人して大きなため息をついたのでした。
(2022/03/03)
To be continued.