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コトリンが部屋でちまちまと刺繍をやらされていた午後のことです。
何気なくそばにいた侍女のモトに言いました。
「どうして王太子殿下は今まで婚約者が決まらなかったのでしょうね」
コトリンに悪気もたくらみもありません。素朴な疑問です。
ただひたすら刺繍と格闘しています。
けれども、それを聞いた侍女のほうはコトリンはそういう女性だとわかってはいても一瞬動揺せざるを得ません。
王妃から配された侍女たちですので、動揺は一瞬だけで声も出さずに皆モトを見ました。
「コトリン様。いろいろお噂は聞いたことがあるかもしれませんが」
「どんな?」
ど、どんな…とさすがに口に出しては言えない侍女たちは、ぐっと腹に力を込めました。
言うのか、言っていいのか。
「コトリン様がお聞きでないのであれば問題ありません」
「そうねぇ。あたし、田舎暮らしなので王都の噂には疎いのよね」
「私、ですよ」
「あ、はい」
すぐに言葉を直されつつもコトリンは素直にうなずいて姿勢を正しました。
素直なところは大変よろしいと侍女にも王妃様にも評価されているコトリンですが、あまりにも馬鹿正直すぎて王宮での駆け引きには向いていないだろうというのが心配の種です。
「私が聞いている話ではございますが」
モトはそう前置きして話した。
「王妃様方が勧めても、成人になったら自分で見定めるので放っておいてくれとのお話だったようです」
「そうなの。他の国の方々なんかは、幼少の頃に婚約者を決めて、教育なさることもあるというから」
侍女たちはごくりと息をのみました。
それは、気づいているのか気づいていないのか。
「だって、こういう行儀作法とか、幼少時からだなんて大変だなぁって、しみじみ思うのよね。よかった、田舎貴族で。そこそこのお相手ならばそこまでうるさく言われないものね」
気づいていなかった…!
侍女一同あちゃーと目を覆いたくなるばかりです。
そこで、つい侍女その二はコトリンに聞いてしまいました。
「コトリン様は、王太子殿下のことをどう思っていらっしゃるのですか」
「え?えーと、そうねぇ」
少し考えてからコトリンは答えました。
「顔はとってもかっこいいわよね。顔だけならものすごく好み。…なーんて王太子殿下相手に失礼だとは思うけれど」
「…顔だけ、とは」
ごくりと引き続き侍女その二が突っ込みました。
「だって、結構怖いのよ。すぐ怒るし、口うるさいし、脅してくるし…」
対外的に言われている王太子殿下の姿です。
「…でも時々優しい…」
ぼそりと言ったコトリンの姿に侍女たちは思わず悶えました。
何それ、萌える…。
ちょっと頬を染め、一心不乱に刺繍に向き合うコトリンの姿を見た侍女たちは、心に誓いました。
私、コトリン様推しにする…!
あれこれと侯爵令嬢だの伯爵令嬢だのと王太子妃候補は取沙汰されています。
それこそ有力貴族の子女たちですから、候補としてはかなり有力なのです。
けれども、ここにきて急浮上したコトリンに対して口さがない言葉を吐く者たちも大勢いるのです。
コトリン付きの侍女としては主人を悪く思いたくありませんし、できればいい主人であってほしいと思っています。
そして、王太子殿下がコトリンに気安く声を掛けるのを見れば、礼儀的に紳士的に接する侯爵令嬢たちよりは、余程脈があるのではとやはり思うのです。
そして、コトリンは噂よりもずっと素直でよい女性だと思うし、なんと言っても王妃様のお気に入りで、ちらりと聞けばどうやら幼少時に出会っている二人は幼馴染だろうということで、ただの田舎者呼ばわりされるには惜しい女性です。
ただ、問題は、コトリンに自覚がないことと、二人が幼馴染、というその点を覚えてないということです。
もしかしてもしかしなくとも、コトリンを待っていたとも受け取れる王太子殿下の行動と言動です。
身分違いとは言え、幼い頃に出会い、成長してから再会して結婚する物語のような展開にわくわくどきどきが止まらない侍女たちです。
ああ、神様、この結末をどうか最後まで見守らせていただけますように。
普段は熱心な信者でもないくせに、この国で信仰されている神に祈ってしまうほどに侍女たちは萌えてしまったのでした。
ところがそのコトリンの部屋の前で、部屋に入ろうとしていた人物は、案内の侍女と警護していた騎士の視線を浴びながら気まずい思いで立っていました。
額にはうっすらと青筋を立てたまま、眉間にしわを寄せて、大きなお世話だと思いながら。
中で交わされた会話はよく聞こえなかったものの、力一杯コトリンが放ったすぐ怒るし…の言葉だけは聞こえたため、微妙な表情で踵を返して立ち去りました。
「お、お待ちください…!」
案内した侍女が慌てて追いかけましたが、あまりにも足早に去って行ってしまったため、がっくりと肩を落としながら中のコトリンたちに報告する羽目になったのでした。
しかし、それを聞いたコトリンが「ほら、すぐに怒るー!」と叫んだため、あまりにも不敬ということで中の話は口外禁止になったとか。
さて、結構な反対を押し切り、コトリンを行儀見習いで王宮に招いた王妃でしたが、優秀であるはずの息子の不甲斐なさに嘆いておりました。
なんだかんだと今まで数多ある縁談を断っておきながら、文句を言いつつコトリンの行儀見習いには渋々応じたというのに、その後の進展のなさに歯噛みする思いだったのです。
王妃の勘からすれば、コトリンならばうまくいきそうな気がするのです。
本当に気に入らなければ、王宮に招き入れるとわかった時点であの手この手で根回しを済ませ、絶対的に阻止するはずなのです。
それを承知した挙句に王妃の為すがままにするなど、潔癖で融通の利かない冷徹とまで言われる王太子殿下の所業ではありません。
何度か打診のあったモート伯爵令嬢にも周りからごり押しのイズミ侯爵令嬢にも首を縦に振らなかったのです。
政治的にバランスをとるためと言えば聞こえはよいのですが、お相手としてはどちらも申し分のない身分と教養、美貌に恵まれたご令嬢たちでした。
お陰で男色扱いを受けているのですから、自業自得と言うほかはありません。
コトリンはどうやらいまだに思い出してもいないようですが、王太子殿下にとっては唯一と言えるほどの幼馴染で、王太子殿下にとっては覚えていないことに腹が立つものの、思い出してほしくない気持ちもあるようで。
その複雑な胸中を作り出した原因の王妃としては、ちょっとだけ手助けしようなどと思った行儀見習いの招待だったのです。
「さっさと求婚してしまえば話は早いのに」
そんな王妃のつぶやきに王妃付きの侍女たちは聞かぬふりをしておりましたが、どう見てもあの王太子殿下が人が変わったように求婚するとは思えません。
「何のための御膳立てなんだか」
はい、そうですねと口に出す者はいませんでしたが、それこそあの王太子殿下なら御膳立てなど不要ではないのかと。
しかし、政略結婚などいとも簡単にうなずきそうでうなずかなかったということは、やはりコトリンを密かに想っていたのではないかという王妃付きの侍女たちの憶測は、今や定番になりつつあります。
なんというか、二人が会話している様子は、まだまだ恋仲というよりは子ども同士が言い合うような微笑ましい様子です。
「照れちゃって」
王妃様のつぶやきは侍女たちの心に思ったより響きました。
あの王太子殿下が?
あり得ないがあり得るかも?
本人たちが気づかぬうちに進行する恋心。
何それ萌える…!
王妃様付きの侍女たちは、断然あの二人を見守っていくことにしようと心に誓ったのでした。
ざわざわと王宮内が騒がしい中、全く周りを気にしていなかったコトリンでしたが、さすがにここまで来て気づかないわけにはいきません。
「ね、ねえ、あた…じゃなかった私、もしかして場違い?」
コトリンが移動するたびにこそこそと噂されるくらいにはざわついておりました。
もちろん王宮で働く侍女たちは、侍女として礼儀があるため、コトリンの前でのあからさまな噂話はしませんでしたが、侍女以外の通りすがりの官僚たちには「ほらあれが」と目線で示されるようになり、息抜きで中庭に出たときには休憩中の使用人たちが噂しているのを耳にしてしまい、さすがにこれは自分の存在があまりにも異色であるということを気づかされたのでした。
そんな問いにも侍女のモトは冷静に答えました。
「場違いと言うのは正確ではありません。王宮内での滞在が珍しいことではありませんが、王妃様のお声がかりで滞在というのが珍しいことなのです。
王太子殿下とのお年頃も近いためにあれこれと噂されるのも致し方がないことでしょう。
コトリン様にできることは、堂々と微笑んでいらっしゃればいいことです。何も疚しいことはありません」
「も、もちろんよ。そんな疚しいことなんて…」
コトリンは思わずこぶしを握りましたが、それも行儀としては褒められたことではありません。
おっといけない。
モトに言われたとおりに、こちらを見て何事かを話していた官僚たちと目が合ったためにっこりと微笑むことにしました。
そう、余裕をもって、軽く会釈…だったわよね。
噂をしていた官僚たちは、コトリンにぎこちなく微笑み返すと、そそくさとその場を立ち去ったので、コトリンはほっと息を吐きたいのを我慢してその場をできるだけ行儀見習いで習ったように優雅に歩き去ったのでした。
部屋まで戻ってようやく大きく息を吐き、モトを振り返りました。
「あたし、うまくできたわよね?」
モトはにっこり笑って「私、でございますよ」と駄目出ししたのでした。
それでも、他に駄目出しされなかったため、コトリンとしては褒められたも同然です。
言葉遣いだけはすぐには直せませんが、これもいつかは慣れるかもしれません。
「王妃様のお声がかりって、ただの行儀見習いなのに…」
田舎娘で行儀もなっていないし、偶然王太子殿下と休憩室で会っただけという理由でコトリンはそう思っていましたが、いつまでいればいいのかとか、どこまで習ったら合格なのかとそればかりが気になっていました。
「このままだといつまでたっても帰れなさそう。いっそ侍女見習いの方がしっくりくるかも」
などと自分の境遇を知りもせずにつぶやくと、侍女たちがなんとも言えない顔をしてそっと息を吐きました。
そもそも王宮で貴族の娘が王妃様や王女様付きの侍女として仕えるのはよくあることです。ましてやコトリンのような下級貴族ならばなおさらです。
それを破格の待遇で滞在させてもらうことにそろそろ心苦しくなっていたのです。
「今からでも侍女見習いとしてお仕えできないか手紙でも書いてみようかしら」
コトリンは真剣ですが、その手紙はいったいどこに届けるつもりでしょう。
侍女たちはコトリンが余計なことをしないように「さ、さあ、コトリン様。明日までに王国の歴史をおさらいしておきませんと」と促したのでした。
「そうね。そうします」
コトリンは歴史の講義は嫌いではありませんでしたが、講義をしてくれる講師の喋りが微妙に眠りを誘うため、後半はいつも眠気と戦う羽目になるので、あまり覚えていなかったりするのです。
そうしてコトリンがぶつぶつ言いながら歴史の本を読み始めたとき、コトリンの部屋の扉が叩かれました。
集中しているコトリンに代わり、モトが扉の向こうを確かめると、そこにはコトリン宛の急ぎの手紙を携えた侍女がいたのでした。
「え?手紙?急ぎ?」
さすがにいかに集中していようと急ぎの手紙を遮るわけにはいきません。
手紙を届けた侍女が、手紙を読み終えて口頭で返事を託すまで待っているというものですから、コトリンは急いで手紙を読むことにしました。
一通り読んだ後、「お伺いしますとお返事してください」と告げた。
侍女はうなずいて「お伝えします」と戻っていった。
モトは「失礼ながら」とコトリンに手紙の内容を尋ねると、コトリンは「医療所の医師の方からよ。ほら、少し前に腰を傷めて気絶した件で」と最後のほうはちょっと嘘をついた罪悪感で声がしぼみましたが、モトはそれで納得したようでした。
「それなら、医師のほうをこちらに伺わせればよろしいのに」
「で、でも、何か検査をしたいと書かれてるから、きっとお部屋ではできないことなのよ」
「診察には私も付いてまいりますので」
「それは構わないけど」
「それでは、早速午後の予定を調整いたします」
「ありがとう。急にごめんなさいね」
そう答えながら、コトリンはいったい何の検査だろうと首を傾げたのでした。
(2022/01/10)
To be continued.