貧乏子爵令嬢は王太子殿下の婚約者に選ばれました




立っていた人の顔を見た瞬間、コトリンはせっかく立ち上がったというのに、そのまま卒倒したのでした。

こ、殺される…。

コトリンの心の修羅場はともかく、王太子殿下からすれば曲者以外の何物でもありません。
「気絶する前に答えろ。誰の命令でここに来た」
「め、命令?そんなものありません…休憩したいと申し出たらここに案内されて…」
とそこまで答えた途端、コトリンの腰に限界がきたのです。
「うっ、いたたたた…」
「ばばあか」
…二度目です。
「ど、どうか、お見逃しください。すぐに…うっ…腰が…」
「おかしいと思わなかったのか」
「デ、デビュタントなので、王宮に来ること自体がまだ三度目で、不案内なのです。ど、どうか、お許しを」
「そもそもお前を案内したとかいう侍女は本当にいるのか」
「…かなりきれいな人でしたが。…でも声が低くて…もしかして男…?ということは偽物…?」
それを聞いて王太子殿下の眉がピクリと動きました。
「名を、名乗れ」
「こ、腰が痛くて礼をとることもできませんが」
「そんなのはどうでもいい。名は」
「アイハラ子爵が娘、コトリン・フグ・アイハラ、です」
「…やはり…」
額に手を当てて、しばらく考えを巡らせていた様子の王太子殿下でしたが、大きなため息をついたかと思うとそのまま部屋を出ていこうとしました。
…が、そこへ「殿下、お時間です」と扉の外から声がかかりました。
王太子殿下は扉を少し開け、声をかけた側近だけを部屋の中に引き入れました。
「何事ですか」
部屋に引き入れられた側近は、コトリンを見ると驚いた顔はしましたが、冷静にいったい何が?と王太子殿下に目を向けました。
「母が強硬手段に出たようだ」
「王妃様が」
側近は少し考えて言いました。
「ですが、彼女は確かアイハラ子爵の…」
「父の古くからの友人の娘、だそうだ」
何故それを、とコトリンは驚いて王太子殿下を振り返りました。
「あたたた…」
勢いよく振り向いたので、またもや腰に負担がかかったようでした。
「このご令嬢は、どこかお身体を?」
「こ、こんな格好で大変申し訳ありません。すぐにここから立ち去りたいのは山々なのですが…先ほど腰を傷め…その、動けなく…」
「そうだったんですね。殿下、ご令嬢をこのままにしておいてはいけません」
「どう見ても不審者だろう」
「そうかもしれませんが、本人は知らなかったこととお見受けします。王妃様の策略だろうとなんだろうと酷い仕打ちと噂されかねません」
「そのほうが気が楽だが」
「すでに冷酷だの血が通っていないだの令嬢に興味がないなら男色家だのと酷い言われようです。一緒にいる私の身にもなってください。私は殿下と一緒に男色家の汚名を被るつもりはございませんよ」
「俺もない」
「そうであるならば、ご令嬢を運びましょう」
「おまえが連れて行けば?…いや、やはり俺が連れていく」
「あ、舞踏会に出ないつもりですね」
「噂を利用しておけば、しばらくは母もうるさくは言わないだろう。まさか子爵令嬢と婚約話など誰も思いつかない」
「そうは言いますが、王妃様を甘く見ないほうがよろしいかと」
床に四つん這いになったまま、二人の会話を聞いていたコトリンは、じりじりと扉のほうに移動しようとしていました。
「待て、どこへ行く」
気づかれていないと思っていたコトリンはびくっとして止まりました。
「このまま出ていけば、お前は王子の部屋に突入した不埒な女と有名になるぞ」
「そ、それだけは…。そんなつもりは一切ございません。目立たず、滞りなくデビュタントを終えるつもりでおりましたのに」
眼鏡をかけた側近はにっこりと笑って「ではこのまま医療所へ」とコトリンに言ったのでした。
「そしてこのことは他言無用で」
「も、もちろんです」
そんな噂になったら王都にもう来れない、とコトリンは怯えたのでした。
大きくうなずいた瞬間、コトリンの身体はふわりと浮き上がりました。
「な…」
言うまでもなく、王太子殿下がコトリンの身体を持ち上げて部屋を横切り、何やら別の扉を開けた側近に見送られながら別の場所へと移動し始めたのです。
しかし、残念なことにコトリンが夢見た抱き上げ方ではなく、どう見ても小麦袋でも背負っているかのようです。
なんて恐れ多いことを、とコトリンは焦りましたが、腰が痛いので黙っていました。
動けないのです。こんなに若いのに腰を傷めるなんてどういうことだとコトリンも思いましたが、ここ数日いろいろとあったので疲れがたまっていたとでも思うことにしました。
「俺が運ぶのが不満か」
「そうではなく、恐れ多くて。側近の方は…」
「あいつは文官志望。お前を運ぶには体力も筋力も足りない」
「さ、左様でしたか」
「おまけに人に知られずに行くにはこの裏道しかない。舞踏会に出ないのを誤魔化してもらわないといけない」
「そうなんですね…」
思ったより王太子殿下が饒舌だったので、コトリンは驚きました。
談笑している姿さえ少ないという噂だったのです。もちろん今は非常に嫌そうな顔で談笑には程遠かったのですが。
おそらく王太子殿下的には舞踏会に出ない口実ができて幸い程度に思っていることでしょう。
それでもコトリンにとってはこんな奇跡は一生にあるかないかの確率です。
たとえこの先領地に一生引っ込むことになろうとも、いい思い出ができたと思えばいいのです。
でもよく考えてみれば、不敬な上に不審者丸出しです。
無事に領地に帰れるのかすらわからない状況であることにコトリンは一時忘れていたのでした。


医療所に着くと、そこには極めて退屈そうな医師が待機していました。
腰が痛くて連れてきてもらったはずなのに、無慈悲にも医療所の中のソファにポイっとコトリンを放り出すと、自分はさっさと戻っていったのでした。
今までのは現実だったのかどうかすらコトリンは混乱したまま、医師の言うとおりに保護者であるアイハラ子爵を呼び出してもらうことにしたのでした。
「ところでアイハラ子爵令嬢」
「…はい」
「どうして王太子殿下の休憩所に?」
「そ、それは、侍女が案内してくださったのですが、どうやらその侍女が間違えたらしく」
「君、王太子殿下に色仕掛けでもして大胆だなぁと思ったけど、そんなわけないか。その場で殺されなくてよかったね」
「ガッキー男爵様、このことは、どうか、ご内密に」
「当たり前。こんな事言いふらしたら、私も命がないからね」
「でも間違えたという侍女、今頃どうなっていることやら」
「はあ。あたし、もうこれで思い残すことはありません。領地に戻って慎ましく暮らしていきます」
「あれ、王都で遊ばないの?」
「遊ぶほどのお金も暇もありません」
「そんなに?」
「王太子殿下は怖かったけど、かっこよかった…」
「まあ、この国一番の美貌を誇ると言われてるしね」
「いえ、この大陸一ですよ」
「男に美貌と言われてもうれしいかどうか微妙だと思うけどね」
「でも、頭も良くて、剣の腕もすごいんでしょう」
「と言われてるけど、僕はそっち方面には縁がないので見たことないんだよね」
「なんで婚約者が決まらないのかしら」
「女嫌いだから、と。世継ぎなのにね。さっさと婚約でも結婚でもして次の世代をばんばん産ませないと」
「ばんばん…」
「そんな王太子殿下だから、いつでも寝所にも休憩所にもあらゆるところに女が忍び込んで既成事実をって…」
「はあ、大変そうですね。だからいつも不機嫌なのかしら」
「ふむ。もしよければ王都での思い出作りに私と…」

「コトリン!大丈夫か!」

バン!と大きな音を立てて扉が開きました。
「お父さん!…あたたた…」
言わずと知れたアイハラ子爵、コトリンの父の登場です。
「アイハラ子爵ですね」
「おお、あなた様は、医師のガッキー男爵でいらっしゃいますか」
「はい、子爵令嬢をお預かりしておりました。他の者は出払っておりまして、私一人でしたが、決して令嬢の不名誉になることは致しておりませんのでご安心ください」
「王宮で働く医師の方にそんな。この度は娘が大変お世話になりました」
コトリンの父は深々と頭を下げ礼を尽くします。
「娘を運んでくださった方は…?」
「それは」
「それは?」
コトリンは息をのみ、ガッキー男爵は口を開けたまま固まりました。まさか馬鹿正直に答えるわけにもいきません。
「それは!あたしがはってここまで!ええ、すぐそこで転んで腰を打ってしまったものだから!近くてよかったわー!」
コトリンにしては頑張った言い訳です。
それでも人の好いコトリンの父は「大事に至らずそれはよかった。しかし、相変わらずお前は…」とあっさり信じたのでした。
ガッキー男爵も額の汗をぬぐいました。
「まあいい。では帰ろうか、コトリン」
「はい、お父様」
今更取り繕っても遅いが、とりあえず子爵家の令嬢としての面をかぶり直し、コトリンは父に抱えられながら帰ることにしました。
「他に使用人はいらっしゃらない?」
ガッキー男爵の言葉にコトリンとコトリンの父は振り返って「おりません」と答えたので、ガッキー男爵はふうとため息をつくと「私が馬車までお送りしましょう」と申し出たのでした。


「結構気さくで親切な方でしたね」
コトリンは結局父とガッキー男爵に捕らわれた何かのように連れられて馬車に乗せられて帰宅途中です。
本当は抱え上げてくれようとしたのですが、コトリンの「せっかくの思い出が…!」との言葉にガッキー男爵は諦めたのでした。
何の思い出か、もちろんアイハラ子爵には言えませんでしたが、強固に断られればガッキー男爵とて無理に令嬢に触れることはかないません。
おまけに婚約者のいる身のガッキー男爵が未婚でデビュタントしたばかりの令嬢を助けるためとはいえ、父であるアイハラ子爵も無理に馬車まで抱きかかえろとは申しません。
「コトリン、いくら王宮でもほいほいと知らない男についていってはいけないよ。いや、むしろ王宮だからこそ危険な男がたくさん…」
コトリンはすでに半分夢の中で、父の言葉は聞いておりませんでした。
揺れる馬車はゆっくりと王都の端のアイハラ子爵邸へと向かっており、夢の中では見目麗しい王子がコトリンを抱え上げ(ここではいわゆるお姫様抱っこ)、何事かささやいているという夢物語を繰り広げておりました。
しかし、数日後には領地へ帰ろうと予定を立てていたコトリンとコトリンの父でしたが、今日の日の出会いが、まさか後にあんな驚愕の出来事になろうとは、さすがの王太子殿下ですら知る由もないことでした。

(2021/10/24)

To be continued.