貧乏子爵令嬢は王太子殿下の婚約者に選ばれました




朝食はほとんどのどを通らず、正直生まれてからこんな朝は病気の時だけだったような気がするコトリン・フグアイハラ子爵令嬢は、いくら父であるアイハラ子爵が国王と幼馴染だったとはいえ、何故か王妃様の意向により王宮に留め置かれるなど、前代未聞の出来事にほんの僅か口にした朝食さえも吐きそうな緊張感を味わっておりました。
何せ隣には苦々しい顔をした王太子殿下が一緒にあるいているのです。しかも王宮自慢の王族専用中庭で。
どうしてこうなった、と何度か首をひねっても、状況は変わりません。
とにかくお連れしろと言われた王太子殿下が嫌々ながらも中庭に連れ出してくれたのです。きっと王妃様に何か弱味を握られているのでしょう。親子なのに。
それを申し訳なく思う心はあっても、王族に逆らうことなど考えないしがない貧乏子爵令嬢としては、そこは常識的な範囲で王太子殿下に付き従うことにしました。
中庭に入り、それでも黙々と歩いていると、急に王太子殿下が立ち止まりコトリンを見ました。
「この辺でいいだろう」
「は?あ、ええ、そうですね。案内、ありがとうございました」
コトリン的には丁寧にお礼を言って、せっかくなの一回りして適当に時間をつぶして戻ろうと考えていました。
「さすがに来てすぐに帰ったら怪しまれるだろう」
王太子殿下の言葉にコトリンは「まあ、そうでしょうね。どうぞ王太子殿下は先に一回りしてお帰りください」と頭を下げた。
「で、お前は一人で帰れるのか?」
「え、ええと、多分…」
自信はないが、とりあえずそう答えたコトリンは、きょろきょろと中庭を見渡してん?と何かを思い出しました。
「ここ、初めて入ったはず…?」
独り言を聞きつけた王太子殿下は、「…ああ…そういうことか」とコトリンを見ました。
「中庭なら入ったことあるだろう」
「いえ、王宮の、しかも王族専用なんて、入ったことあるわけありません。王宮はまだ三度目です」
「というおまえの記憶が一番当てにならないがな」
どうしてほぼ初対面に近い王太子殿下に、先程からコトリンの記憶力を揶揄されなければならないのかと、コトリンは不満に思いましたが、相手は王族。あえて反論せずに流すことにしました。
「王妃様はああおっしゃっていましたが、この間が初対面、ですよね?」
伺うように恐る恐る王太子殿下に尋ねると少しだけむっとして「ああ、そうだな」と返答されました。
なぜそこで怒ったように返事をされなければならないのかコトリンには窺い知れませんが、こんな王太子殿下とどうにかなるとかいう夢物語は、やはり物語の中だけで楽しむのがいいとつくづくコトリンは思ったのでした。
噂通り王太子殿下は女性に冷たく、結婚しないのはやはり男色…。
「おい、何を考えている」
「い、いえ、何も」
あわわわ…なんでわかった、とコトリンは大慌てで首を振りました。
まさか自分の顔が馬鹿正直に考えを映し出しているなど、考えたこともありません。
それゆえに今まで嘘という嘘は乳母にも執事にも看破されてきたのですが、知らぬは本人だけ。
こんなに場所は素晴らしい逢引き場所だというのに、これほど色気のない会話を交わしているとは誰も思わないことでしょう。
周りから護衛だとかお付きの侍女だとかの気配がないのです。
これもきっと王妃様からのお達しなのでしょう。
コトリンはそれには気にしないようにして中庭を見て回ることにしました。
やはりこの中庭にはうっすらと記憶があるような気がしてきてしまうのです。
「似たような中庭をきっと勘違いしたのかもしれません。こんな素晴らしい中庭を間違えるなんて、やはりあたし…じゃなかった私の記憶力は当てになりませんね」
それに、見覚えがあったとしても、ここに一人で来たというよりは、やはり誰かに導かれて回った記憶です。同じ年頃の女の子と。
「…王族に同じ年頃の女の子はいらっしゃいますか?」
王太子殿下に姉妹がいないのは国民もよく知っていることです。
「まさか国王様に隠し子なんて…」
と思わず口にしたらしく、王太子殿下に「間違ってもそんなことをよそで吹聴するなよ」と睨まれました。
「し、し、し、しません!」
王太子殿下はため息をつきました。
「リーカという従妹ならいる」
「ああ、リーカ様…」
王族の親戚としてリーカ公爵令嬢がいたのを思い出したが、今は確か隣国に留学しているはずだ。
「もしかしてお会いしたことあったかしら…」
「さあな。そもそもここに入れるのは基本王族だけだ」
「そうなんですね。そんな貴重な機会をいただき…」
そう思えば、もしかしたら王妃様の言うように幼い頃は王宮に立ち寄ったことがあって、その時に迷子にでもなってここに迷い込んだりなんかしたらありうる話かもしれないとコトリンは結論付けた。
「そろそろ戻るぞ」
「はい。…いいんですか、一緒に戻っても」
「おまえ一人だと迷子になるぞ」
「…ですよね」
おとなしく王太子殿下の後ろを歩くことにしました。
とりあえず中庭は一回りすることにしてくれたらしく、案外ゆっくりと歩いてもうすぐで中庭を抜けるというそのとき、コトリンはつまづいて王太子殿下の背中にあわや追突…というところで何故か振り向いた王太子殿下に抱きとめられました。
さすが王太子殿下、とコトリンは感心しましたが、中庭出口だったせいかあまりにも見守る人が多かったのです。
王太子殿下の護衛、コトリンを迎えに来た侍女、通りかかった王宮侍女、出勤していたらしい医療所の医師と一同「あ」という声と同時にほっとしたため息が漏れました。
それが一人なら目立たなかったのでしょうが、何せ人数がそれなりに多かったのです。声もため息も些細なものがやけに響いて王太子殿下の耳に届きました。
素晴らしい王太子殿下の動きもさることながら、抱きとめられた幸運な、しかも王族専用中庭に案内されたらしき女性は注目の的です。
コトリンが「ありがとうございました。失礼いたしました」とお礼を言ってちょっと心をときめかせていると、王太子殿下の顔がこわばっているのがわかりました。
え?と思って周りを見渡すと、コトリンと王太子殿下を見守る人の多かったことにコトリンもぎょっとしました。
無言でコトリンを助け起こし、大きなため息を一つついて、王太子殿下は立ち去りました。
確かに無事に中庭は抜けましたが、あまりにも目撃者が多かったことで、後にこれまたとんでもない噂が回るとは、コトリンも王太子殿下も知る由はありませんでした。


「コトリン!無事だったか!」
部屋にたどり着くと、泣き出さんばかりのアイハラ子爵が待ち構えておりました。
いえ、無事ですけど、とコトリンは父に向って若干申し訳ないと思いつつも引き気味に答えました。
いったいどんな想像をして王宮に来たのか丸わかりです。
「お父さ…ま、こんな朝早くから、かえってご迷惑になったのでは?」
「そうは言っても気が気でなくてな」
「確かに無事なんだけど、さらにやばいことになりそうで」
あ、やばいも怒られるかもと思いつつ侍女頭の顔を思わず確認してしまいましたが、親子の会話としてとりあえず聞こえないふりをしてくれたようです。
「どういうことだ、何をやらかした」
アイハラ子爵の中では、コトリンが何かをしでかしたのだろうというのが当たり前のことのようで、コトリンは少しだけむっとしました。
いや、確かにしでかすことは多いのだから、当たらずとも遠からずなのですが、やらかしたこと前提なのはさすがにコトリンといえども腹が立つのです。
「やらかしたのはつまづいて王太子殿下に助けてもらったことだけです」
あとちょっと言葉遣いも悪かったような気もしましたが、そこは咎められなかったのでコトリンの中では良しとすることにしました。
「それよりも、王妃様がまだ帰っちゃダメって」
「…それについては、帰してもらえるように後でまたお願いすることにしよう」
「大丈夫かなぁ」
「このままだと、そのうち何かで不敬だとか言ってどうにかなりそうで心配だ」
「あ、それより、国王様と幼馴染って本当?」
「う…まあ、それは秘密だったから」
「そんな接点なさそうなのに」
「それはいろいろあってだな」
「それから!王太子殿下にも小さい頃会ったことがあるって本当?」
「…う…そ、それは…本当だが、それについては聞かないでくれ」
「まあ、王族のことだから言えないこともあるんでしょうね。でも記憶にないけどなぁ」
「そりゃそうかもしれないな」
「なんで?」
「そ、それは…わたしの口からはとても言えない…」
「そうなんだ」
何か重大な秘密が隠されているとみて間違いありません。もしこの秘密を知ってしまったら、コトリンの命は危ない?
「それじゃあ聞かない。王妃様が話そうとしたら王太子殿下が阻止したし」
「お、王妃様…」
頭を抱える父の姿を見ると、知ってはならないことなのかもしれないとコトリンはようやく納得しました。
「いいか、コトリン。くれぐれも…くれぐれも無事で。家のことは心配するな。どうせ貧乏弱小貴族。今更路頭に迷ってもどうにかなるだろう。しかし、できれば一族郎党連帯責任だけは避けてくれ。そうじゃないと屋敷の皆が気の毒でな…」
「わ、わかりました」
切実な父の願いにコトリンはうなずきました。
おそらく人の好い乳母とか執事とかは父と共に行くと宣言でもしたのでしょう。
そんな優しい人々を守るためにもコトリンは頑張らねばなりません。
「きっと無事に帰るから!」
ここは戦場かという抱擁と別れをして、父のアイハラ子爵は帰っていきました。
それを見届けた侍女頭はおほんと咳払いをして一言だけ言いました。
「ここは生きて帰れぬほど恐ろしい場所ではありません」
「そ、そうよね。失礼だったわ、ごめんなさい」
「…今は、まだ」
「ど、どういことー!」
コトリンは青ざめましたが、侍女頭はそれには答えず言いました。
「コトリン様付きの侍女の選定を行いました。入らせてもよろしいでしょうか」
「いいも何も、私にはそんな贅沢なこと…」
「では、入ってもらいます」
そう言うと、扉が開いて、外から五人ばかり侍女が現れました。
「これからこの者たちがコトリン様付きとなります。一人変わった者もおりますが、気にせずにお使いください」
変わった者?とコトリンが侍女の顔を見ると「あ!」と思わず一人の侍女を指差してしまいました。コトリンをあの休憩室に間違って(いや、策略か)案内した侍女でした。
それには言及せず侍女頭がさらに言いました。
「それから新たに護衛もお付けします。そちらはあまり気にせずにお過ごしください」
「…はあ…護衛…」
コトリンにはわけもわからず皆の顔を見て「こんな私に申し訳ないです。しばらくお願いします」と頭を下げたのでした。

王宮生活一日目。
コトリンは何だかこのまま家に帰れなくなりそうで憂鬱だったのに、今頃になって鳴りだしそうなお腹の虫を必死に抑える自分の図々しさに呆れましたが、もちろん有能な王宮の侍女たちは、そんなコトリンを見てすぐにお茶の用意をしたので、空腹に耐えかねてコトリンはついお茶の時間を満喫してしまいました。

…どうしてこうなった。

満腹になったコトリンがはっとしたとき、有能でハスキーなちょっと変わった侍女はモトと名乗りました。
彼女の秘密を知ったときには、コトリンはすでに王宮中で噂の的になっておりました。

(2021/11/17)

To be continued.