ドクターNと夢の世界12
男爵令嬢はちらりと見かけたところ、実に楽しげに働いていた。
偶然出会ったときに、目標は王太子妃候補の侍女だと言われた。
まあ道のりはまだ先だと思うけども、そのうちなれるかもねと言っておいた。
何でも早口で言われたことは、学舎時代から密かに子爵令嬢に憧れていたのだとか。
どこに憧れる要素があったのか、よくわからなかったけれども、そういうことなら害をなす心配は今のところなさそうだと判断でき、近づけた僕の責任を問われることはなさそうだと安心できた。
行き過ぎた憧れは執着心となってそれはまた怖いことになるんだけれどもね。
「ところで、それは何かな」
侍女が何やら熱心に読んでいるのは、『薔薇の庭』という本だった。
「これはですね、崇高な愛を書いた読み物です」
いたってまじめな顔で淡々と言ってのける侍女だったが、ちらりとのぞくとどう見ても男同士の愛を書いた禁断本ではないかと思われた。
それも主人公が無愛想な王子と付き従う幼馴染だった。
「まさかとは思うけど」
「何を危惧しているのかはわかりませんが、貴方様が思っているような話ではありませんよ」
「いや、心配しているのはそこじゃなくて」
「この話の主人公たちが誰かに似ているですって?そんな噂もありましたね、ええ。ただの噂ですよ」
どうしてこの城の人たちは噂という名目ですべてを片付けてしまうのだろうか。
しかもこの侍女も淡々としながらそういう話をここで読むってどうなんだ。
「なんでここで読もうと思ったの」
「家で読むのがはばかられるからですよ」
「だーかーらー、なんで家ではばかられるものをここで読むのさ」
「…さあ、なんででしょう。いいじゃないですか。そこに隠してある媚薬の件を黙っているんですから」
「うっ」
「どこの誰に使おうが、侍女頭様には黙っていて差し上げますよ」
「いや、使うなら彼女に…」
「ええ、ですから彼女にこっそり使っても黙っていてあげますとも」
「で、面白いの、それ」
「そうですねぇ。続きが待ち遠しい感じですかね。いいところで終わってるんですよ」
「いいところって?」
「二人の不貞に気付いた婚約者令嬢が密会の場に乗り込むところですかね」
「…後でちょっと貸してくれる?」
「媚薬一本いただけるなら、今後も続きが出たらお貸しいたしますわよ」
本を手に、侍女がにんまりと笑った。
くっ、はめられた…!
* * *
朝から顔を合わせた無愛想な後輩が、男同士でいちゃついている姿を想像してみた。
…ないな。うん、ない。
あまりにも琴子ちゃんと一緒にいる姿しか想像できなくて笑えてくる。
でもきっとこんなやつでもあんな本の対象になったりしてしまうんではなかろうか。
一部の過激なファンにはそういう趣味嗜好の者もいるだろうし。
僕は知らなかったが、僕までそういう趣旨の話に参加させられている、ということを知ったのは随分後のことだったが、少なくともその本を目にする機会がなく幸いだったのだ。
ピンク髪の少女、五輪織子が眠りだしてからはや二日。
脱水予防のために点滴を始めたが、どうやら時々目を覚ますタイミングがあるらしい。…が、起き上がって食事をしたりするほどの覚醒ではなく、何やらつぶやいては眠ってしまうので、打つ手がない。
この手の病には、患者自身が夢の世界からきちんと覚醒する必要があるのだが、夢の世界で楽しいことや夢中になることがあるとしばらく眠り続けてしまうとのことだった。
今のところ最長7日間眠り続けた例があったようだが、その人は夢の中で世界を救って満足して夢の世界を終わらせたらしい。
どこかに終わりが来るのは確かなようだが、どこで終わりなのかは患者ごとに違う。
僕のように細切れに夢を見やすいものは容易に戻ってこれるのだが、現実から目をそらす者ほど眠りから覚めにくいのかもしれない。
ただ、夢の世界でもうまくいかない者はおり、現実と夢の世界が区別できない例の犯罪も確認されているのだ。
しかし、この社会現象はいい面もあるのだ。
日中しっかり働いてさっさと家に帰り、しっかり睡眠をとるようになった者もいて、逆に健康的になった者もいる。
何がいいとか悪いとかは言えないが、人間夢を見てばかりではいられないのだ。
「五輪さん、そろそろ起きなさいよ」
だから僕は回診のたびにこうして彼女に呼びかける。
実は一つ考えているのは、琴子ちゃんが呼びかけたらあっさり起きるのではないかと。
ただ、それはあの後輩の許可が必要だ。
いざとなったらの策であり、もう少し様子を見る必要があるのだが、このまま目を覚まさないようならば、試してみようと思っている。
でも、もしも僕が起きなくなったら、いったい誰が起こしてくれるのだろうと思うと、ちょっと怖くなってくるね。
そんなことを思う日々だ。
(2022/12/19)
To be continued.