ドクターNと賢者の椅子




い、椅子?

つまずいた足を擦り、僕はその邪魔そうな…いや、いかにも古めかしい椅子を見た。

「えーと、これはなんですか」

安藤さんは僕の質問に何を言ってるんだというような目で見た。

「椅子、ですが」

そりゃ、椅子だろうよ。
どう見ても椅子以外には見えないが、万が一ってこともあるだろう。
おまけにどうして病院の狭い個室にこれほど大きな椅子が必要なんだ。

「いや、質問が間違ってました。この椅子は、何のために?」

安藤さんはますます僕を不審そうな目で見る。

「座るため、ですが」

そうだよな、そうだよ。
椅子ってもんは座るためにあるんだよ。でも、万が一ってこともあるだろう?
他にもこの個室に置くのに最適なサイズの椅子があるだろうよ。

「いや、失敬。どうしてこの椅子をここに?」

安藤さんは首を傾げた。

「だから、座るためです」
「いや、そうなんでしょうが、そうじゃなくて、わざわざこの椅子をこの病室に持ち込んだのかってことでですね」
「今朝一番でようやく届いたのですよ」
「いや、朝から届けるほど、それほど重要な椅子だとでも?」
「実はそうなんです」

そうなのかよ!

思わず心の内をそのまま声に出していないことを確認の上で、僕は一つ咳払いをした。

「あ、えーと、まずは熱を診ましょうか」

僕は一時話題をそらすため、熱を出した安藤さんの身体を診ることにした。
それは多分風邪で、後から肺炎にでもなってないか調べる必要はあるが、とりあえずそれはいいとしよう。

「それにしても、随分と大きな椅子ですね」
「そうでしょう、運び込むのに苦労しました」

いや、そこまで苦労するなら家に持って帰れ。
というか、病室に運び込むな。

「なんというか、魔法でもかかっていそうな椅子ですね」

なんとも古そうな、年代もののような威厳を醸し出している。
そう、あのチッペンデールも髣髴とさせるアームチェアだ。
脚は艶かしささえ感じる猫脚。
その布張りの座面は多少隅が擦り切れている感もあるが、それが更に古さを感じさせる。

「実はそうなんです」

僕はふむふむとうなずき、はて、と考えた。
いったい「そうなんです」はどこにかかるのか。

「えーと、お高いんでしょう」
「そうですね、先生が逆立ちしても買えないかもしれません」

安藤さんは真面目な顔でそう言った。
自慢でも嫌味でもないらしい。
地味に傷つくな…。
そりゃ勤務医の給料なんて高が知れてるしね。
安藤さんは大会社の社長だしね。
それにこんな個室に何週間もいられるくらいには金持ちだよね。
僕じゃ逆立ちどころか、四回転してひねりを入れて、技にニシガキって名前が付くくらいがんばっても買えないだろうね。
ああ、きっとそうだろうさ。
おまけに一人で技を完成させたって思っていたら、何故かいつの間にかイリエ・ニシガキなんていう風に技の名前が変更されちゃうくらいだよね。おまけに自分の名前が後ろにいっちゃったりなんかしてさ。

「先生?」
「あ、いや、それに随分と古そうですね」
「そうです。十八世紀頃のものと聞いております」

その椅子に手をかけようとした僕は、思わず態勢が崩れるのも構わず後ろに引いた。
おー危ない、うっかり素手で触るところだった。
というか、さっき足で蹴飛ばしちゃったけどな。

「で、この椅子は何か特別なわけでも?わざわざ病室に運ばせるくらいですし」
「ええ。ここだけの話ですが、実はこの椅子…」

安藤さんが声を潜めたそのとき、「先生!」と勢いよく入ってきた者がいた。
しかも入ってきた勢いで、その十八世紀の作だというとんでもなくお高い椅子に蹴躓いた。

「あ、ごめんなさい」

そう言ってしおらしく謝ってはいるが、今、君、蹴飛ばしたよね?

「先生、5A病棟からお電話です。PHSに出ないってお怒りでしたよ」

僕は白衣のポケットの中のPHSを見た。
うーん、しまった、充電切れだった。僕としたことが。
そんな風に言いながらやばい、と思っていた。
昨夜はみちこちゃんとのランデブーで邪魔されたくなくて一時的に電源を切っていたんだっ た。もしかしてそのままだったかもしれない。

「それでは、また、その話、改めて聞かせてください」

そう言って安藤さんの病室を出る。
そりゃもう全速力でナースステーションに戻り、何気ない風を装って電話に出た。
5Aの師長はそりゃもう凄く怖いんだ。
ただのお化け屋敷だと思ったら、正真正銘の心霊スポットだった並みに。
でもこれで、僕が最初に椅子を蹴飛ばしたことはうやむやになったはずだ。
怒られながら何とか電話をうまく切った僕の脳裏に、何かとんでもなく引っかかった言葉があったんだが、何だったろうか。
それを思い出したのは、5A病棟で師長の魔女みたいな形相の顔を見たときだった。

(2013/10/08)


To be continued.