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5A病棟の師長に睨まれながらひと仕事終え、僕は再び外科病棟に戻ってきた。
ナースステーションに入ると先ほど僕を呼びに来たナースがいた。
「ああ、さっき君は安藤さんの椅子を思いっきり蹴飛ばしていたよね」
話題づくりのためにちょっとだけ笑ってそう言うと、彼女は嫌そうに言った。
「私よりも先に先生が蹴飛ばしたって聞きましたけど?」
うっ、何故それを。
「でも安藤さんは快く許してくださいましたけど」
「そ、そうか」
僕は内心ドキドキしながら先ほどの椅子を思い浮かべた。
「随分と高そうな椅子だったよね」
「ええ。先生のお給料の何倍もするって」
何故のその例えを。
「そう言えば思い出したんだけど、安藤さんてばおかしなことを言っていた気がするんだ」
「おかしなことですか」
「うん、確か…」
とそこまで言いかけたとき、個室のほうで大きな声が聞こえた。
「きゃーーー、ごめんなさい、ごめんなさいっ」
あの声は…琴子ちゃん…。
僕は一目散にその声のするほうに走っていった。
もしや、という考えが頭をよぎる。
お約束のようにいろいろやらかす彼女のことだから、もしかしたら…。
声のしたほうに駆けつけると、隣には息を切らした清水主任がいた。
うん、さすがだ。
「入江さん、何をやったんですか」
どうした、じゃなくて何をやった、というところが、残念ながらこれまでの彼女の所業を見事に表している。
「あの、えーと、すみませんっ」
あわあわしながら出てきたのは、お約束どおり安藤さんの部屋だった。
「だ、だって、戸口に何か大きな椅子があって…」
まさか蹴飛ばして壊したとか?
「お昼の食事を運んでいったら、つまずいてしまって」
まさか椅子の上にぶちまけたとか?
「あ、安藤さんの…」
思わず主任と二人で息を飲んだ。
「顔にお食事をぶちまけちゃったんです!」
「何か拭くもの、着替えと布団とシーツの交換」
清水主任はそれだけぴしりと言うと、安藤さんの部屋に入っていった。
あのお高い椅子にぶちまけたわけじゃないことを知って、僕は少なからずほっとしてしまった。
本当は逆なんだろが、何せ僕の給料ではまかなえないくらいお高いらしいし。
「ぞ、雑巾」
「いや、雑巾じゃ顔は拭けないだろ」
僕の突っ込みに琴子ちゃんは涙目ではっとした。
「そ、そうですよね。えーと、タ、タオル。それでもってモップ。シ、シーツ」
ようやく冷静になれたらしい。
そう言いながら廊下をあたふたと走っていく。
転ばないといいけどね。
部屋の中をひょいとのぞくと、既に清水主任がひっくり返ったお盆を片手に散らばったお椀を回収している。
熱があったんだが…どうやらまだ回復には程遠そうだな。
漫画かと思うほど見事に頭から食事をかぶった安藤さんが、少しだけ恨めしそうな顔でこちらを見ている。
「ええ、わかっていたんです。こうなることは」
「なぜに?」
ぼそりとつぶやいた安藤さんに思わず聞き返した。
「あの椅子は、ちょっとした不幸をもたらすのです」
何でそんな椅子を朝一番で持ち込む?!
「いや、よく運送屋さんも運んでくれたね」
「いえ、運送屋に断られ、うちのスタッフが総出で運びました」
「そこまでして!」
「24時間以内なら、さほど被害は少ないのです。ですから、私もまだこうして昼食をかぶるくらいですんで」
「彼女のドジは今に始まったことじゃないと思うけどね」
うん、ただの偶然だと思うけど。
大体どれをもって不幸というのかその基準が曖昧だよね。
「で、24時間過ぎるとどうなるんですか」
「さあ。24時間過ぎた後のことは、誰も知らないのです」
「誰もって…」
まさか、その後だれもかれもいなくなったとか言うんじゃないよね?
たいした病気じゃないのに突然死なれても僕も困るんだけど。
「何でそんな椅子を持ち込むんですかっ」
僕は思わずそう言った。
いや、正直な感想だろう。
「それをもってしても余りあるご利益があるんです」
「どんなご利益が?そう言えば、先ほど妙なことを言ってましたよね」
「ああ、この椅子には魔法がかかっているってことですか」
「そう!それだ」
「…とりあえず、着替えましょう」
安藤さんは頭から昼食のコーンスープをぽたぽたと垂らしながら会話していたのだ。
眉をひそめた清水主任の横槍により、その話は一旦おさめられた。
(2013/10/15)
To be continued.