ドクターNと賢者の椅子




「それで」

そう言って僕は着替え終わった安藤さんに再び聞いた。
これでも一応着替えの最中は遠慮したさ。
着替え終わった頃を見計らってもう一度戻ってきたんだよ。
ま、一応熱いスープをかぶったのだから熱傷とか風邪の悪化がないかとかが理由なんだけどね。
僕の隣にはしゅんとした琴子ちゃんがいる。

「その椅子のご利益とは何なんですか。そもそもそんな風に不幸にする椅子を持ち込まれても病院側としても困るんですが」

これは清水主任からも一言言っておくようにと言われたので、僕だけの意見ではない。

「申し訳ありません。でも、どこにも置いておけなくて」
「まあ、そりゃそうなんでしょうが、ここは病院ですし」
「大丈夫です、持ち主にしか不幸は訪れませんから」
「そうなんですか。それを早く言ってくだされば…。
いやいや、それでも安藤さんには不幸が訪れるかも、なんですよね?」
「ええ。どんな不幸かよくわからないのですが」
「わからない…。もし命に関わることになったら」
「ですから、病院に入院したんですが」
「そんな風に便利に使われても、人の力の及ぶことしかできませんよ」
「それは、仕方がありません。でも一説には、この不幸に打ち勝てば、病知らずになるとか」
「それがこの椅子の効能なんですか」
「いえ、違います」

違うのかよっ。

それまで黙っていた琴子ちゃんが不意に顔を上げた。
何か、嫌な予感がする。

「あのぉ、そのご利益を受けるには、どうするんですか」

おっとそう来たか。

「座ればいいんです」
「座るだけ、ですか」
「そうです。簡単でしょ」

安藤さんは得意げに言った。

「で、安藤さんはもう座ったんですか」
「座りました」
「で、何か変わりました?」

琴子ちゃんは乗り出すようにして安藤さんに聞く。
おいおい、謝罪に来たんじゃないのか。

「それが、まだよくわからないのです」
「はあ、それじゃあ困りますね」
「困るんです。せっかく手に入れたのに。しかも期限の二十四時間は来てしまうし」
「二十四時間経ったら効果がないのですか」
「さあ、それも謎なんです」
「持ち主にしか効果がない?」
「一説には、持ち主を選ぶ、とも言われているんですが、結局所有権のある者に不幸は訪れるようで」
「不便な椅子なんですね」
「不便なんです」

琴子ちゃんと安藤さんはしみじみと語り合う。
僕は丸ごと無視かい。

「前に所有していた方はどうなったんですか」

僕はそう聞いた。
はっとして安藤さんが僕を見た。
なんだよ、そのリアクションは。

「それが、私がこの椅子のお金を払った後、行方知れずになりまして」
「行方知れず」
「ええ。噂では、どこかの石油王になったという話もあるんですが、どうやら不幸のお陰で身元を特定されると困るとかで、今までの経歴を全て抹消したとか」
「…CIAの証人保護プログラムみたいですね」
「でもそれでは石油王になったとしても楽しめるかどうか。しかも噂になってちゃ経歴抹消もあまり意味がないんじゃ」
「あくまで噂ですから。それに、石油王となった人物の一人が過去の経歴を明かしていないというだけですから。そもそもそんな人間山ほどいますしね」
「なるほど」
「は、まさか安藤さん、この病院の入院費を踏み倒す気ですか」
「こ、琴子ちゃん」

いきなり琴子ちゃんが入院費云々と現実的な話を持ち出した。
石油王の話をしていたのに、入院費とはなんて狭いワールドなんだ。
もしかしたら不幸のモトは君かもしれないっ。

「もしあたしが今座ったら、どうなるんでしょう」

僕は琴子ちゃんを見た。
誰もが考えそうで言わなかったことを君はさらっと言ったね。

安藤さんは肩をすくめて言った。

「多分、何もないと思いますよ。魔法の椅子ではありますが、何でもかんでも願いを叶える椅子ではありませんので。元々は座るために作られたただの椅子のようですし」
「へー。じゃあ、ちょっとだけ、座ったら、ダメですか」
「どうぞ」
「え、いいんですか。わーい」
「え、ちょっと待った、僕も座ってみたいな、なんて」
「あたしが先ですよ」
「ま、レディファーストでどうぞ」

「入江さん!あなたはお詫びにうかがったんじゃないんですか」

今まさに座ろうとした琴子ちゃんは、清水主任の鋭い声で飛び上がった。
座ることなくそのまま主任に連れられて行ってしまった。
では遠慮なく、と僕が座ろうとした瞬間、「先生」と入口から目を細めてじっと見ている人間がいた。

「お、おや、どうした」

いや、別に座ってもいいんだろうけど、何となく立ち上がって今まさに診察が終わった振りをした。

「ガーゼ交換、忘れてましたね」
「わ、忘れてなんかいないさ。そういうのは研修医の仕事だろ」
「ああ、そうですか」

何かを考えている素振りでこちらをじっと見ている。
なんだ、何かあるのか。
相変わらず無愛想な後輩だ。
少しだけ気まずくなって、僕は「それじゃあ、安藤さん、くれぐれも安静にしていてくださいね」と颯爽と病室を出て行くことにした。
しかし、心の中では少しばかりあの椅子に座ってみたかったなと思いながら。
病室を出る瞬間、心なしか椅子がゴトッと音を立てたような気がした。

(2013/10/21)


To be continued.