ドクターNと賢者の椅子




「いや、びっくりしたよ。入江先生が病室を去ろうとしたときに、この椅子がね、まるで行くなというように震えたんですからね」

そんなバカなと僕は思った。
椅子が生きているわけでもあるまいし、勝手に動いたのならば、それこそホラーだし魔法だ。

「私も聞いたことはあったんですよ。ほら、椅子が主を選ぶって」
「いや、あの、安藤さん。椅子に意思があるならば、それはもう椅子じゃないような気がするんですが」
「だから不思議なんですよ。椅子を所有すると不幸が訪れるっていう言い伝えも同じです」
「それが魔法だって言うんですか」

僕はいまだ座ることも叶わない椅子を目の前にして、安藤さんの話を聞いていた。

「座ってもいいんですが、どうやら椅子は当分の主を見つけてしまったようなので、どうなるかわかりませんよ?」
「どうなるって、不幸になるとかですか」
「さあ。入江先生の後に座った入江先生の奥さんの看護師さんは、何ともないようでしたけどね」
「琴子ちゃんは、ある意味つわものですからね」
「不幸も逃げていきそうではありましたが」

僕はその古い椅子を目の前にして座るか座るまいかちょっと考えていた。
安藤さんによれば、入江先生が座った後、琴子ちゃんが座ったわけだ。
その後、誰も座ろうとしないらしい。
何だか、座ってはいけないような気迫をこの椅子から感じるらしいのだ。
気迫って何だよ、気迫ってのは。
僕はそういうのは感じないから、大丈夫だろうと思って今まさに座る気満々なんだが。

「座ってもいいですよ」

安藤さんの許可は出た。
でも何故だか僕はいまだ座っていない。
何故だ。
あんなに座りたかった椅子なのに。

「では、遠慮なく」

腰を下ろそうとした瞬間、バカバカしいと思うが、椅子が一瞬何やら違うと主張したように感じた。
椅子ごときにバカにされてたまるか。

「よおし、座るぞ」

気合だけは十分だが、まだ僕のおしりは椅子に着地していないのだ。
今まさに着地しようとした瞬間、椅子が、震えた。
何かうれしそうに。
お、僕に主を見出したか。
そう思ったのだが、おしりを着けた途端に何となく居心地の悪いものを感じてまた立ち上がる羽目になった。

「失礼します」

そこには、僕を気の毒そうな目で見ている後輩が病室をのぞいたためだ。
おまえか?おまえのせいなのか?
椅子に意思がある?
そんなバカな。
安藤さんはうなずいた。

「安藤さん、検査の結果を説明いたします」

手には先ほど届いたのだろう血液検査の結果を手にしている。
僕は一応主治医なのでそのまま留まることにした。

なんだろうか、この敗北感。
こいつはただ顔を見せただけだと言うのに。
僕は一応この椅子に座った。
座った途端に立ち上がったことなど気にすることはない。
一応座ったには違いないのだ。

いや、そもそもこの椅子に座ったからといってどうなのだ。
この椅子が僕に不幸をもたらすわけでもなく、幸運をもたらすわけでもなく。
そう言えば最初の目的は何だっただろうか。
えーと、魔法の椅子だから座ってみたかったのか。
いや、チッペンデールばりに価値のある高い椅子だからちょっと座ってみたかったんだよな。
だから椅子に座らせてくださってありがとう、で済むはずなんだ。
僕の給料の何倍も価値のある椅子だから、僕が手に入れられるわけでもないから、ちょっと座ってみたかっただけなんだよな。
そうだ、そうだった。
魔法云々を本当に信じているのか、僕は。
いやいやいや、この現代にそんなバカげた話があるか。

「先生、ではこの先の予定について何かありますか」
「へ?」

つい椅子のことを考えて、検査の結果説明なんて聞いてなかった。
それを誤魔化すためにもつい笑って何気なく「うん、別にないよ。君の言う通りでかまわない」とだけ言ってみた。

「…だそうです。では、明日退院ということで」

いつの間にか安藤さんの退院が決まっていた。
椅子も一緒に退院することが決まった(当たり前だが)。

(2013/11/05)


To be continued.