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「あの椅子、不気味なのよね」
そんな噂がナースステーションでささやかれていた。
昨日の時点では、安藤さんに不幸は何も訪れていない。
強いて言えば、ご利益もよくわからないという。
大金を出しただろうに、なんて甲斐性のない椅子だ。
不幸はともかく、僕の給料よりも高い値段であるならば、それ相応のご利益をもたらさないと意味がないじゃないか。
「ところで、あの椅子の何が不気味だって?」
僕の話に隣にいたナースは驚いたように言った。
「安藤さんの椅子のことですか」
「そうだよ、それのことじゃないの?」
「いえ、そうですけど」
「で、何が不気味なの」
ナースは声を潜めるようにして言った。
「それがですね、あれは教授回診の時のことでした」
ナースの話は長いので要約すると、教授回診も終わろうとしたそのとき、何気なく教授がその椅子に話題を振って座ろうとしたらしい。
ところが、その椅子に座った途端、すぐに立ち上がっておしりを擦りながら部屋を出て行ったというのだ。
「痔でも患っていたとか」
「教授は三年前に痔の手術を行って以来、ここ最近痔はないそうですよ」
いったいどこからの情報だ…。
ナース恐るべし。
「僕もあの椅子に座ってみたら、少し震えたような気がしたんだよね」
「ええ、それって初耳」
「そうかい?」
「ええ。安藤さんの話では、ちょっと変わった現象が起きたのは、入江先生と入江さんだけらしいんですよね」
「へぇ。持ち主を選ぶらしいしね」
「え、じゃあ、先生たちは持ち主にふさわしいってこと?」
「椅子に認められたかな」
「さすが先生」
「でも、少し…座り心地はいまいちだよね」
そう言った途端、尊敬の眼差しで見ていたナースの目が一瞬にして疑わしい目つきになった。
「それって…」
「何かな」
「いいえ、それはちょっと違うような…」
「何が?何が違うんだ」
「ええっと」
僕を気の毒そうな目で見て、ナースはさりげなく「バイタル入力しなくっちゃ」と僕の前から去っていった。
なおも追いかけようとしたら、「先生、明日の指示出しがまだなんですが」と清水主任に止められた。
仕方なく地道に明日のオーダーを済ませることにしたが、肝心な椅子の不気味さについてはよくわからなかったじゃないか!
教授のおしりの話なんていいんだよ、聞きたかないね。
どうせならかわいい桃尻の話のほうが聞くに値するよ。
そこへ現れたのは琴子ちゃんだった。
「あ、琴子ちゃん、君にあの椅子について少し聞きたいことが」
「なんでしょうか」
「うん、君はあの椅子に座ってどんな感じだった?」
「えーそうですねぇ。王女様な気分?」
「そ、それは、座り心地が良かったとか?」
「座り心地?どうでしたかね。えーっと、そんなに気になりませんでしたけど。だって、あんなに高い椅子ですよ?座り心地悪いわけないじゃないですか」
「ああ、何となくわかった、ありがとう。さすが君は偉大だ。さすがあの入江の奥さんをやっていられるだけあるよ」
つまり、琴子ちゃんは稀に見る鈍感だな。
そう言えば、あまり細かいことにはこだわらない性質だった。
そうでなきゃあんな入江の嫁なんかやってられるか。
今までどれだけ入江の傍若無人に彼女が泣いていたことか。
「ところで琴子ちゃん、今夜はこれから暇かな」
そう言ったところ、後ろから仁王立ちした清水主任がその美しい顔に怒りを乗せて言った。
「先生、先生は今夜どころか今からここでの指示出しをさっさと終えて、三階病棟からも催促のお電話がありましたが」
「お、おや、そうだね、ちょーっと忙しかったかな。
あー、忙しい、忙しい」
仕方なく僕はオーダーするためにパソコンの前に座る。
「ところで、僕の後輩であるところの僕よりも仕事をするべきの入江はどこへ行ったのかな」
僕の疑問は当然のことだろう。
本来ならこういう細かい仕事は、下っ端である彼がやるものだ。
「入江先生ならとっくにご自分の分の仕事を終えて回診に回っておりますが」
「じゃあ、この仕事はなんだ」
僕は納得できなくて声を上げた。
ところが清水主任はじろりと僕を見ると冷たく言った。
「これは先生ご自身が後で僕がやるからとお返事くださったものです」
「あ、そうだったかな」
そんなことはちっとも覚えていなかったが、再びパソコンに向き直った。
ところが。
「おおおおおおおー」
廊下の向こうから雄たけびが聞こえてきた。
僕と主任は何事かと真っ先にナースステーションを飛び出した。
あの一番奥の部屋。
主任と顔を見合わせて二人でダッシュした。
あの部屋は、安藤さんの部屋だった。
(2013/11/11)
To be continued.