ドクターNと謎のプリン




黙々と仕事をしている大魔王のような後輩を検査室で見つけた。
遠目に見るだけにして、ちょっと考える。
今までの経験からいって、ここで真正面から突破しようとすれば、まず間違いなく阻止される。どころか二度と琴子ちゃんに会わせてもらえない気がする。
それくらい今のあいつは手負いの獣同然。
実はバカなんじゃないかと思うくらい琴子ちゃんの周辺に対して警戒している。
実は医者でもないんじゃないかと思うくらい心配が過ぎると思う。
琴子ちゃんはしれっと「妊娠してても入江くんは全く変わりませんよ」とか言ってたけど、そんなふうに思ってるのは君だけだよ。
桔梗君なんて、ようやく無事に産休に入ってくれてほっとしてるんじゃないだろうか。
もし何かあったらなんて考えたら、ぞっとするね。
どうせ家でも例のツンデレとか言うやつで琴子ちゃんに対してはいつもと変わらない風を装ってるんだろう。
なんという見栄っ張り。
バカじゃないか。
やっぱりバカなんだろう。
そんなことを思いながらヤツを眺めていたら、ヤツと目が合った。
うわっ、あいつの目やばい。
あまりにも危険なオーラを感じて、さすがの僕もホイホイと近づくほど間抜けではない。
ここはさっさと退散することにして、どうにかして琴子ちゃんと話をする算段をしないと。
さくっと入江家に電話してしまうのが早いか。
そんなことを考えて医局に戻ると、ヤツの来ないうちに連絡先一覧から自宅の電話番号を手に入れて、電話してしまえばいいんじゃないかと気が付いた。
早速連絡先一覧を見ようと手に取った。
ところが、見ようとした視線を下げることなく僕は元に戻すほかなかった。
先ほどまで検査室にいたはずのヤツが、何故か医局入口に立っていたからだ。
…何故だ。
おまえ、検査はどうした。
患者はどうした。
その質問を口にしかけたが、ヤツは無言で自分の机から何かを取ると、僕をふーんと見た後、何を言うでもなくまた医局を出ていった。
なんという偶然。
いや、偶然なのか?
僕は一気に心拍数の上がった心臓を落ち着かせるようにしてヤツが乗ったエレベータが確実に動くのを待った。
うん、行ったな。
さてと…。
そう思って再び連絡先一覧を手に取ろうとしたその時、突然電話が鳴った。
「はい、外科医局」
『あ、そこに入江先生いませんか?』
「いないけど」
『じゃあ、先生でいいです』
じゃあって、なんだよじゃあって。
「で、何?」
『昨日オペした林さん、胆汁が出てこないんです〜』
「…ああ、はい、詰まったかな」
『かもしれないです、様子見に来てくださ〜い』
「…入江、電話に出ないの?」
『電話中らしくって』
なんでだよっ。
「まあ、行きます、はい」
仕方がない、後で電話するかと、とりあえず自分の携帯に入江家の電話を控えておき、病棟に向かうことになった。
仕事を押し付けられることはあっても、あいつの尻ぬぐいなんて珍しいというか、滅多にないんだが。というか、いつも先に先に動いているせいで、出番がないというか。
小林さんはさほどのトラブルもなく、見終わった頃にヤツは現れた。
「おまえがいなかったせいで、僕が呼ばれたんだよ!」
思わずそう愚痴ると、ヤツは眉を上げて「それはどうも」とだけ言って、カルテを見た。
「おい、それだけかよ」
「先ほど、救外に笹山さんがおいでになっていたので」
僕はその名前を聞いて「へ?」と声をあげた。
「誰もいなかったようなので、代わりに処置しておきました。ついでに入院手続きもしておきましたが」
笹山さんと言えば、院長と懇意の…?
それはやばい。
「も、もちろん、笹山さんは…」
「心筋梗塞でしたが、幸い閉塞部位も狭く、カテーテル処置で済みましたが」
「そ、それは…」
僕はううっと腹に力を込め、屈辱のその一言を絞り出す。
「助かった、ありがとう…」
「いえ、お互い様なので」
しれっとそう言って、ヤツは出ていった。
思ってないだろ、おまえ、ぜーったい!
だいたい心筋梗塞なら、循環器だろ循環器。
元は虫垂炎かもしれないが、完治してるだろーが!
循環器の医者を呼べよー!
俺は消化器外科だぞ――――!
しかもおまえ後輩だろうが―!
声に出せない叫びを飲み込み、笹山さんが入院したという病棟に早速出向くのだった。

 * * *

やれやれ、長い一日だった。
そう思いながら家に帰る前に例の後輩がまだ医局にいるのを確認してから、こっそり入江家に電話をしてみることにした。
当然のことながら琴子ちゃんにとっては姑で後輩の御母堂が真っ先に電話に出ると思ったら、なんと琴子ちゃんが出た。
こりゃラッキーとばかりに「あ、僕、僕」と機嫌よく言ったら『…詐欺でしょう?その手には乗りませんからね!』と切られそうになったので慌てて名乗る。て言うか、声でわからないか?わからないから詐欺が成り立つんだっけ…。
『それで、わざわざ入江くんのいないときにどうしたんですか?』
「あいつならまだ医局だけど、実はね」
『さっきまだ急患が来るから帰れないって』
「…ああ、さっきね、さっき…」
電話繋がらないってそれか。
『それでね、入江くんったら、何か変わりがないかって。お義母さんがいないから、すっごく心配してて』
「ああ、はい、そうだろうね」
『それでね、それで、あたしがちょっと…』
このまま話が続く前にさっさと幻のプリンのことを聞いてしまいたい。
ところが、急に沈黙になる。
「…琴子ちゃん?」
『…あの、なんか、お腹が…変…』
「ええっ!?ちょちょちょちょーっと待って、琴子ちゃん」
『…う…待てない』
「え、やばい」
やばい、やばいやばい…やばいぞ!
『さっき、トイレに行ったとき、なんか水みたいなのが出て…』
「破水だから、それ!もう生まれるから!」
いや、まだ生まれないの?いや、そんなことどうだっていい、生まれるよ、生まれるってば。
『お義母さんもいないの…』
「そ、そうだね!」
い、入江、入江ー!
『裕樹君ももうすぐ帰ってくると思うし、そんなにすぐ…う…生まれないと…思うし』
「そうかもしれないけど、そうじゃないかもしれないよ?」
僕は電話を持ったまま、移動し始めた。
病院玄関ロビーにいたのだけど、そこから急いで医局に向かうエレベータに乗り込む。
「すぐ…、すぐにあいつにつなぐから!」
エレベータが医局のある階に着くのももどかしく、僕はエレベータの中で足踏みしながら話しかけ続ける。
「今どんな感じ?」
『…今?…えーと、平気になりました』
琴子ちゃん、やっぱりそれ陣痛だから。
「陣痛きてるじゃん。何で誰もいないの」
『えーと、たまたまというか。本当はすぐにみんな帰ってくる予定だったんですけど、入江くんは急患で…』
…僕のせいか!
うわー、恨まれるぞ、これ。
『お義母さんはお義父さんの仕事の関係で…どうしても行くのやだって言ってたんですけど、外せなくって。裕樹君もすぐに帰ってこれる予定だったんですけど、なんか電車遅れてるとかで』
なんて迷惑な…!
ウイーンと扉が開くのも押し開けるようにして走り出る。
「い、入江、入江、入江いるかー!?」
突然僕が大声でヤツの名前を連呼したものだから、隣の脳神経外科の医局からも誰かが顔を出す。
医局の中に走って入ると、ヤツは今まさに帰ろうとしていたようで、鞄を手にしていた。
「また急患ですか」
「違う!いや、違わないけど、急患は琴子ちゃんだ!」
「…は?」
琴子ちゃんの名前を出しただけで、ものすごく凶悪な目つきになったんだけど、僕はめげない。
「とにかく、電話!出ろ!」
そう言って僕の電話を押し付けると、ヤツは電話に出た。
その途端真剣かつ無表情を通り越して何かやばいオーラを出し始めた。
「もう生まれるのか」
「いや、まだ生まれない。陣痛間隔がまだ長い。今から向かえば間に合うはずだ」
ヤツはそんなことを言いつつも既に玄関に向おうとしている。
エレベータなんて待っていられないらしく、階段を駆け下りる。いや、エレベータの方が早くないか?ここ、十一階だぞ。
何となく僕も後をついて駆け下りていくが、尋常じゃないスピードで駆け下りていくヤツの後姿を見失わないようにするのが精一杯だ。
「なんでついてくるんですか」
「いや、だって、なんとなく、乗り掛かった、舟というか」
「それなら今すぐ降りてください」
「まだ、琴子ちゃんに、聞きたいこと、聞いてないし」
「裕樹か。…うん、そうだ。こちらも急いで帰るから」
僕が息を切らしかけている今、ヤツは余裕で弟に電話していた。
「琴子ちゃん、に、会わ、せて、くれ!」
「断る」
あっさりきっぱり一言で断られた。
そうだろうねー。
「琴子ちゃん、の、陣、痛を、教えて、やった、のは、僕だぞ!あだっ」
舌をかんだ…。
カンカンカンカンと靴音が響く階段でひたすら降りる。
ようやく下に降り切った時、ヤツは素早く正面玄関に止まっていたタクシーにさっさと乗り込み、僕を置いて行ってしまった。
僕も続いて乗り込もうかと思ったのだけど、「…先生、お急ぎですか?」と遠慮がちに前に並んでいた患者を見てしまっては、さすがに奪うこともできない。
「いえ、次で大丈夫ですから、どうぞ」
ここで横入りしたら、絶対に後で患者を差し置いてと非難轟々間違いなし。
行く場所は決まっているんだから、この患者の後でも遅くはない。
そう思っていたのに、前の患者を乗せていってしまった後、後続のタクシーがなかなか来ない。
いつもは暇そうに患者を待ち構えてるじゃないか、今日はどうしたタクシー!
よりによって今日は車で出勤ではなかったのだ。
なかなかの都会にあるこの病院は。大学や病院関係者全員が車で出勤できるような広大なる駐車場がないからだ。
飲んでいない日の夜に呼び出される時くらいだよ、車に乗ってくるのは。
僕の焦りを知らずか、タクシーは一向に来ない。
タ、タクシー!

(2020/04/01)



To be continued.