ドクターNと謎のプリン




タクシーを待ち続けること十分。
ようやくタクシーが来た。
喜び勇んでタクシーに近寄った僕に、タクシー運転手はちょっと眉根を寄せて言った。
「ご予約の方ですか?」
「は?」
「お名前をお願いします」
「えーと」
「すみませんね、これ、予約車なんで」
「そ、そうですか」
タクシー運転手はすいっと車を乗り場まで動かして行ってしまった。
ああ、本当にタクシーって、どうして欲しいときに捕まらないんだろうね!
どうでもいい時はよく見かける気がするのにさ。
などと思っていると、ようやく予約でも何でもないタクシーがやってきた。
「タクシー!タクシー!乗せてくれ!」
つい興奮してタクシーの前に両手を振って飛び出す勢いだったものだから、タクシー運転手は無謀な僕の行動に「お客さん、危ない!」と怒られた。
「は?ここの医者?…全く、斗南はどんなしつけを…」
ぶつぶつと愚痴りながらもちゃんと僕を乗せてくれた。
いや、斗南にしつけられたわけじゃないんだけどね…。
「世田谷のパンダイ社長宅まで」
詳しい住所を伝えるのが面倒で、そんな頼み方をしてみたのだけど、タクシー運転手はちょっと考えて「ああ、はい、わかりました」と車を出発させた。
わかるんだ!…よく考えたらすごいな、あいつの実家。
そんなこんなであいつに遅れること数十分、僕はようやくあいつの家に向かうことができたのだった。


タクシーで入江家に着くと、防音であるはずの家の方から騒がしい声が聞こえてきた。
あ、念のため言っておくと、入江家はだだっ広い。
塀で囲まれているその上から豊かで現代的な植樹が見え、いかにも高級住宅街にふさわしい。しかもその植樹の隙間から見えるのは、何だか二世帯だか三世帯だかと思えるような家なのだが、どう見ても増築です、ハイ。
そんな一角に琴子ちゃんたちの部屋はあるのだろう。
いったい僕のマンションの部屋の何倍あるんだろうな、この家。
家を眺めて下り立とうとしたとき、家の方から「あ、いいところに!」という甲高い声がした。
何が?と思う間もなく押し退けられるようにされて、あの入江の御母堂がタクシーの運転手に話しかけた。
「このタクシー、この後予約とかあるかしら?」
「ございません」
なんか言葉遣いまで違わないか?
「では、この後の予定を貸し切りで」
「かしこまりました」
心なしか、タクシーの運転手はまるでお抱え運転手のようにネクタイを引き締め、姿勢を正した。
なんか態度まで違わないか?
「とりあえずここじゃ邪魔でしょうから、駐車場で待機してくれるかしら。かわいい嫁が産気づいたの。でも運転していくには誰も冷静ではいられなくて、ちょうどタクシーを呼ぼうと思っていたのよ」
「さようですか」
そこでようやく入江の御母堂は僕に気づいた。
「…あら、いらしてたのね。ああ、そうだった。そう言えば何でタクシーが来るのがわかったかというと、お兄ちゃんがもうすぐここにタクシーが来るって言ってたのよね」
僕がタクシーで追いかけてくることくらい予測済みってやつね。
御母堂は、出かけていたという言葉通り、いつもより改まった格好で、大慌てで帰ってきましたという感じだ。
まあ僕が電話してから既に1時間。初産ということでどうやら入江家には皆さん勢揃いのようだ。
「それで、琴子ちゃんは?」
「陣痛としてはまだまだね。でもいつどうなるかわからないし…」
「琴子ちゃんに聞きたいことがあるんで、ちょっと話したいんですが」
「そうねぇ。電話で教えてくれたのは、先生なんですって?」
「ええ、そうです。それなのに、あいつときたら琴子ちゃんに会わせまいとして…」
言ったところで気づいた。そう言えばあいつ呼ばわりしてしまったが、この御母堂の息子だった。でもそんなことは気にしてもいないらしい。
「それなら、その時に聞けばよかったのに」
ごもっともです。
でもね、聞こうとしたときに陣痛がきちゃったんですよ…。
「まあ、まだ話せる状態だと思うから、よかったらどうぞ」
そう言うと、御母堂は僕を入江家の中へ誘ってくれたのだった。


ちょっと楽しみで、ちょっと緊張するような入江家に入ると、リビングでは思いのほか家族がのんびりしていた。
後輩は腕を組んでソファに座っていたのだけど、僕の姿を見た途端に眉根を寄せて何で家の中まで入ってくるんだとでも言いたげな目を向けた。
もっとうろたえていれば面白かったのにと思ったのは内緒。
それでも僕はめげずに「お邪魔します。こんな時にすみません」と頭を下げた。あ、もちろん後輩にじゃなくて、何故かリビングをうろうろしていた琴子ちゃんのお父さんらしき人とか福顔の人とか、後輩のコピーかと思うような弟らしき青年に。
福顔の人が後輩の御尊父であるとするなら、後輩と全く似てない上にものすごく性格が良さそうな気がする。知ってたけど、後輩は間違いなくあの御母堂似だよな。
え?何で琴子ちゃんのお父さんはすぐわかったって?
その落ち着きのなさというか、その言動と仕草がどう見ても庶民的…。
あ、いや、なんとなく琴子ちゃんと相通ずるものがある気がする。
「誰、この人」
横から後輩のコピー君が言った。
僕に言ったわけではないが、しっかり聞こえてるぞ、君。
「お兄ちゃんの職場の人よ」
御母堂はそう答えた。
「ふーん」
いや、あの、もっとリスペクトしてもいいんじゃないかなーと思うわけ。
かつては君のお兄さんの指導医でもあったんだ。
その後すぐになんだか抜かされそうになってるけども。え?抜かれてるって?いや、まだ抜かされてはいない!…と思う。
「ところで肝心の琴子ちゃんは?」
「琴子なら、今は俺の部屋に」
「俺の部屋…」
琴子ちゃんのお父さんも一緒に住んでいるのか。
「畳の方が落ち着くって言うんで」
「ちょっと聞きたいことがあっただけなので、それを聞いたら帰りますので」
「おう、それならちょっと見てみるか」
琴子ちゃんのお父さんはそう言ってリビングを出ていく。
廊下を行くと和室があり、そこがどうやら琴子ちゃんのお父さんの部屋らしい。
「おーい、琴子」
扉越しに声をかけるが、返事はない。
そっとのぞくと、琴子ちゃんは写真立てを抱いて眠っていた。
そっとしておこうかと扉を閉めようとしたその時、いきなり目をかっと開くと「いったーい!」と起き上がった。
陣痛だもんね、そりゃ起きるよね。
でもあまりにいきなりだったから、ホラー映画のような覚醒の仕方で、隣にいた琴子ちゃんのお父さんと抱き合うくらい心底驚いた。
「いやー、びっくりしたなー」
琴子ちゃんのお父さんは汗をぬぐって琴子ちゃんに近づいた。
「大丈夫か!」
「いたい、いたい、いたい…」
それまで抱いていた写真立てを放り出し、「ものすごく痛くなってきた」と半泣きだ。
こういう時は確か…。
「琴子ちゃん、ひっひっふーよ!」と僕を押しのけて後輩の御母堂が現れた。
「はい、ひっひっふー!ひっひっふー!」
つい御母堂と一緒に僕も琴子ちゃんのお父さんもひっひっふーと声を合わせていた。
何度かひっひっふーを繰り返した後、また陣痛はおさまっていったので、琴子ちゃんは落ち着いてけろっとしている。
落ち着いたところでなんとなく一緒にラマーズ法を合唱してしまった僕は、ちょっとしたお父さん気分だった。
もちろんそんな僕をヤツは見逃すはずはなく…。
傍に放り出してあった写真立てを拾あげながら、僕をぺいっと引きはがした。それも足で!
先輩に何たる仕打ち。
「おまえ、お母さんの遺影に何してんだ」
そう言って琴子ちゃんに写真立てを渡してるから、途中で痛みのあまりに放り投げたそれは、琴子ちゃんのお母さんの遺影だったらしい。
いや、そんなことで話を逸れている場合じゃない。
「琴子ちゃん、幻のプリンって何?」
僕の勢いこんだ質問に、琴子ちゃんは「へ?」と返した。
首をかしげて一応考えてるふりをしてくれた。何となく僕にはわかる。実は全く思いだしもしていないことを!
そしてにっこりと笑った。
「ごめんなさい、知らない」
オーノーゥッ!
僕は頭を抱えてうわあああと叫びたくなった。
何となくそう来るだろうと思ったけど、実際にその返事を聞くとこれほど衝撃の大きいことはなかった。
僕の頭の中では知らない…知らない…とこだましていく。
ここまで…ここまでずっと幻のプリンを追いかけてきたのに。
「…あの、大丈夫ですか」
胡散臭げに、それでいてちょっと生意気そうに、コピー君は打ちひしがれている僕に言った。
大丈夫じゃないよ。大丈夫じゃないけど、ここまで数々の伝言ゲームをこなしてきた僕だ。立ち上がって帰ることにした。
その時、またもやあれがやってきたのだ。
「ううっん、また来た!」
「琴子ちゃん、まだよ、まだまだだから、ひっひっふーよ!」
今度は御母堂にぺいっと引きはがされて、僕は部屋の隅に転がった。
あー、もーいいーんだ、僕なんて…。
「うおー、神様仏様悦子様〜!」
「…お義父さん、落ち着いてください、まだすぐには産まれませんよ」
思ったよりも余裕綽々な後輩。
すっ飛んで帰ったことはなかったことにしてそうだ。
「もう病院に行った方がいいんじゃ…?」
部屋の中に入ろうとして入れず、廊下から恐る恐る声をかけている福顔の御尊父。
「そう言えば、あのタクシーの運転手さんは?」
気になって聞いてみると、御尊父はにっこり笑って言った。
「それならリビングに」
御尊父の言葉にリビングをのぞいてみれば、タクシーの運転手はちゃっかり座ってお茶を飲んでいた。
「あ、ママ、言われた通りお茶を出しておいたよ」
そんなことまで…。
お茶なんて出したことがなさそうに見える御尊父もさすがに出産ときては、自分で動かざるを得ないんだな。うん、うん。
ってよく見たら、この家の男率高いなー。
そりゃ琴子ちゃんは蝶よ花よの扱いかもな。
いや、それは御母堂ができた人で、普通は優秀な息子を取られまいと嫁を敵対視する話は腐るほどある。おまけに嫁の方が過干渉を嫌ったり、同居は嫌だと言ったりするのは当たり前だったりするし。
いまだ独身の僕も、そう言う話を聞くたびに結婚する気がしぼんでいくのに、琴子ちゃんと御母堂を見てると結婚してもいいかなという気になってくるから不思議だ。
しかも今度は孫まで生まれてくるというから万々歳だね。
女孫をという圧力はすごかったみたいだけど、今回だめなら僕と…。
「いてっ」
何もしてないぞ、今は!考えただけだぞ、チラリと!
「何かよからぬことを考えているオーラが出ていたので」
そんなことを言う後輩に何やらをぶつけられた。
おまえは先輩にクッションをぶつけるのが礼儀なのか?え?
琴子ちゃんは後輩に渡されたクッションと写真立てを握りしめ、うーんうーんと唸っている。
いや、ほら、ひっひっふーはどうした!
周りの者だけがひっひっふーと必死だ。
決めた。
僕は決めたぞ。
どうせこの後暇なんだ(多分)。
琴子ちゃんの出産まで見届けようじゃないか。
そして、あの魔王のような後輩が、うろたえ、ひっひっふーと必死になり、無垢なる赤ん坊が生まれて感激して涙を流すところをぜひともカメラに収めたい。
そしてそれをネタに…。
そんな野望を秘め、僕はリビングに戻った。
帰る気満々だった僕が居座る気満々なのを見たコピー君は、訝しそうに言った。
「帰るんじゃ…」
「いや、ここまで来たらぜひとも琴子ちゃんの出産をお祝いしたい」
しばらく無言の後、「お兄ちゃーん、ママー!居残る気だよー!」と叫んだ。
タクシーの運転手は隅でおとなしく待っているが、何事にも動じず淡々と待っている。できるな、この人。ただのタクシー運転手じゃないのか。

(2020/06/08)



To be continued.