君と夏の終わり




「琴子ちゃん、外科病棟は何歌うのかな〜?」
さり気なく琴子に探りを入れたつもりだろうが、その言葉は琴子を通り越して第三外科病棟のナースたちがすぐさまブロックに走った。
「西垣先生、琴子に探り入れようなんて、だめですよ〜」
「いや、探りって言うか、単純にどんな歌うたうのか気になったんだけ…ど…」
ずいっとナースたちに迫られて、西垣は「わかった、わかった」と後ずさる。
「そう言う外科は誰が出るんですか?」
「それは、なんと!」
「なんと?」
西垣はにやっと笑って「おおっと、まだ内緒」とひらひらと手を振った。
「あ、ずるい」
「ずるくない、ずるくない。そっちだって教えてくれないんじゃ、おあいこ」
お互い、手の内は演目順発表まで見せないつもりらしい。
「それよりも、審査委員長であるはずの病院長が、『孫』を歌うってきかないらしくって」
「えー、病院長が?」
「ゲストで歌わせるかっていう話になってるって」
「誰が病院長のカラオケ聞きたいかってーの」
ナースがそう言って呆れながら仕事に戻ると、琴子は西垣ににじり寄った。
「西垣先生、まさか、まさかってことはないですよね?」
「そのまさかって、まさかってことを期待してる?」
「そうですよぉ。家でカラオケしても一回も歌ってくれないし、聞いたことないし」
「琴子ちゃん、君、何年あいつと付き合ってるの」
「えー、付き合ってませんよ。強いて言えば二週間くらい?付き合う前に結婚しちゃいましたもん」
「いや、そういうことじゃなくってさぁ」
西垣は呆れたようにそう言ったところで、琴子ともども何かの気配を察して振り返った。
「えーと、し、仕事に戻ろっかな」
「さあて、回診、回診」
ナースステーションに現れた人物を避けるようにして二人は解散した。
眼光鋭いその人から逃げるとも言う。
何事か察したようだが、避けられた人物は、無表情のままパソコンの前に座り、仕事をこなす。
たかが夏祭り、たかがのど自慢、たかが癒しの賞品。
そうは言っても、かつてないほど院内は夏祭りに向けて盛り上がるのだった。

 * * *

夏祭りまであと一週間というその日、院内は妙に浮足立っていた。
ようやく出演者と演目順が発表になったせいだ。
「おや、これはわたしたちも観に行けるのかな?」
廊下に貼られたポスターを見て、患者が言う。
患者ですらどうにかして見に行こうと待ち構えているが、なにぶんその時間は夜の巡視の時間。
「何言ってるんですか。ダメに決まってるでしょう」
担当ナースにそう断られてはがっくり来る患者も多い。
どうにかして見に行こうと、その日だけ外出届を出してみたり、外泊届を出してみたりする患者もいたりする。
なにぶん前代未聞。今までここまで盛大に行った夏祭りはないのだ。


「第三外科病棟は…ふうん、『朝娘。』なんだ。なるほど、ありがちだけどいいねぇ」
外科医局で演目一覧を見ながら、西垣はうなずいた。
「でも、『朝娘。』だけでえーと、1、2…結構あるな、オイ」
「まあ今流行りですからね」
西垣の言葉に別の医師が言う。
「その中でいかに生き残るか、ですよ。同じような演出が続くか中で差をつけないと第三外科も厳しいですよね」
「確かカラオケやって代表決めるんじゃなかったのかな」
「ああ、それ、もめにもめて、結局誰にも決められず、全員…というか、出たい人みんなで出ようってことになったみたいですよ。ほら、『朝娘。』って人数多いからどうとでもなるっしょ」
「まあそうなんだろうけど」
西垣は外科病棟の印刷部分を見てふんと鼻を鳴らした。
「まさかこうなるとは」
外科医局のところにはドクターXと書かれている。
これも夏まつり実行委員事務局には相当「困るんですよねー」とか言われたが、病院長側からのごり押しによりオッケーが出た。今の病院長は外科出身だから、無茶も通るというわけだ。
何故こうなったのか。
それは、誰が出るか決まらなかったからだ。
俺が俺がの医局長か、歌は上手いが押しの弱い講師か、人気をとって西垣か、誰も歌声を聞いたことがない謎の入江か。
もちろん病院長ともども最後まで説得しろと入江を推す声が多い。
しかし、誰も聞いたことがないのだ。
そう誰も。
小さい頃はピアノを習っていたし、よく歌っていたというから、音痴ではないはずだ。
入江の声で歌う姿が想像できない。
入江の妻だという琴子ですら聞いたことがないとは思わなかった、というのが外科の本音だ。
もちろん病院長命令により無理矢理に歌えということはできるだろう。
できるがその代償もどうやら大きそうだ。
何より、病院長自身がそれは嫌だと拒否をした。
何か弱みを握られているらしい。
さもありなん。
そういうわけで、気が弱いが歌の上手い講師を中心に、出場者をスタンバイさせながらの入江説得となったのだった。
ちなみにこれは外科医局のトップシークレットだ。
これを誰かにばらした者は、地方僻地の系列病院もしくは診療所に転勤することが密かに決まっている。
飛ばされてはたまらない人がほとんどなので、誰もがその話題は医局以外ではNGだ。探りを入れられようが、脅されようが、ナースに振られようが、仕事を押し付けられようが、新人医局員からベテラン医局員まで皆口をつぐむことになったのだった。


「違う、違う、よく見て」
大きなプロジェクターに映し出された『朝娘。』の踊りを見ながら、集まった面々は練習していた。
場所は何故か入江家。
入江家の半地下にはカラオケもできる部屋が備えてあり、ソファなども退かせてしまえばそこそこの広さもあるからだ。
何よりも聞きつけた入江家の女主人こと紀子が張り切っている。
何故部外者が張り切るのかよくわからない面々だったが、ありがたく使わせていただくし、何よりもここは入江家なのだ。
あの入江医師の実家であり住まいでもある。
隙あらば入江家のプライベート空間に入り込んでみたいナースは多い。
皆そわそわとしていたが、いざ練習が始まるとそれどころではなかった。
「『朝娘。』…ダンスやばい」
「踊って歌えない」
「みんな口パクになるわけよ!」
「無理…もう踊れない」
「何言ってるの、あなたならできる!」
「そんなシューゾーマツオカみたいなこと言わないで」
「ほら、ここの『こ〜い〜の〜』のところ、手がこう…揃わないと」
「ああ〜もう、筋肉痛よ!誰がこれやろうって言ったのよ」
「文句ばっかり言ってないでちゃんとやって」
既に体育会系のノリとなっている。シューゾーマツオカが出てくるわけだ。
こんなふうに煮詰まりかけると、すかさず紀子が差し入れを持ってくる。
「みんな〜、楽しそうね。お夜食でもいかが?」
紀子の差し入れに第三外科のナースたちは飛びついた。
「うわあ、すごーい」
「ちょうどお腹空いてたんです」
「まあ、本当に熱心ね。こんな若いお嬢さんたちばかりで、楽しいわぁ」
にこにこと楽し気におもてなしをする紀子にナースがさりげなく聞いた。
「あのぉ、入江先生は?」
「ええっと、直樹はまだ帰ってないわよ。あ、ほら、琴子ちゃんなら先ほど帰ってきて」
「いや、琴子はいいんで」
「え?」
紀子の様子が変わった。
「え、えーと、今度のこれに琴子は参加しないので」
慌てて別のナースがフォローする。
「まあ、そうだったわね」
「ところで、入江先生って、カラオケしたりしないんですか?」
さっさと話題を変えることにした。
「それ、何度も聞かれたんだけど、そんなに直樹を歌わせたいのかしらね」
「そりゃ聞きたいですよ」
「ええ、本当に聞いてみたいです」
紀子は少し顔をしかめて思いだすようにして言った。
「あの子が歌ったのは…そうね、多分三歳までかしらね。あ、そりゃ合唱とかは歌ったことくらいあると思うんだけど」
「ええ?そんな前?親ですらも聞いたことないんですか?」
「声変わりしてからは特にないわね」
きっぱりと紀子が言う。
「そんなぁ」
「だって、琴子ですら聞いたことないのよ、あるわけないじゃない」
「そうねぇ、歌わないと人類が滅亡するってことになったら歌うかもね」
紀子が笑いながら言った。
「何歌ったら似合うかしらね」
「えー、じゃあサウダージとか?」(作者注:繰り返しますがこれはあくまで2001年頃の話です)
「あんたが好きなだけでしょ」
「うわー想像つかない」
「大学の研究発表とかでマイク持つ姿なら簡単に想像できるのにねー」
「カラオケと何が違うのかしらねー」
「ホントホント」
そんな話を楽し気にしていたナース軍団だったが、まさか同じような話をその上、二階某寝室でで交わしていたとは誰も思わなかっただろう。


その頃、二階で帰ってきた直樹に対してにこやかに「おかえり〜」と琴子が出迎えたが、直樹は琴子が手に持っていたプリントを目にして嫌そうな顔をした。
「ただいま。そう言えばおまえ、実行委員だったな」
「そうよ。結構今回は大変なんだから。みんな今まで通りだったら楽だったのにって言ってる」
そりゃそうだろうと直樹は荷物を置いて下へ降りていこうとしたが、思い直してベッドの端に座った。
「入江くん、本当に歌わないの?」
「俺が?」
それだけ返して琴子を手招きする。
下へ降りていくと、ちょうど第三外科のナースたちと顔を合わせる羽目になるなとしばらく時間をつぶすことにしたのだ。
「例えば、入江くんが歌わないと部屋に閉じ込められて出られないとか」
「何だよ、それ」
「えー、お義母さんとそういう話になって。お義母さんは人類滅亡をかけるくらいじゃないと歌わないだろうって」
「それなら人類滅亡させるほうがいい」
「えー、ひどい」
琴子が直樹の隣に来たのをいいことに、それ以上発言させず、ベッドの上でゆっくりと時間つぶしで琴子をつぶした直樹だった。

(2019/10/13)

To be continued.