君と夏の終わり




「ところで昨日、琴子も家にいたのよね」
翌朝、ナースステーション休憩室でいきなりそう言われた琴子は、「え?」と強張った顔のまま振り向いた。
「え、ええっと、いた、かな」
「あんたの子どもは音楽に乗って楽しそうだったわよ」
スタッフの言葉に思わず昨夜の出来事を頭に浮かべたが、すぐに頭を振って追い出した。いや、今こんなこと考えている場合ではない、と。
何よりもまだ仕事前の朝なのだ。
「そ、そう。邪魔しなかった?」
「まあ、あんたのお姑さんが面倒見てたから別に邪魔ではなかったけど。あんたと入江先生の子どもにしては、かわいらしかったし」
「よ、よかった」
ほっとして休憩室を出ると、そこには無駄に爽やかでイケメンでしれっとした琴子の夫、直樹がナースステーションに入ってきた。
外来の前に患者廻りをしていたようだ。
「あ、入江先生おはようございます」
結婚して、子どももいて、しかもその妻はすぐそこにいるというのに、直樹の人気は衰えない。年をとって増々渋く、しかも子どもが生まれてからは以前よりも表情も態度も柔らかくなったと評判だ。
「…おはよう」
言葉少なに挨拶をしてさっさとナースステーションを出ていく。
小児外科だけでなく、普通に外科も兼ねているというから大忙しだ。
妻である琴子をチラリとも見ない。
またそこがいいと言われるのだが、よく考えたら公私混同しまくりだというのは、琴子とそのとばっちりを受ける面々にしか知られていない。
「ああやって無視するくせに、結構うるさいんだから」
ぶつぶつとつぶやく琴子は放っておかれながら、朝の申し送りが始まる。
椅子に座ろうとして、ちょっと腰に響くことを思い出した。
「あたたた…」
まさかそれが琴子が昨夜練習に顔を出さなかった原因とは知らないスタッフは、「何よ、ばばくさいわねぇ」と揶揄する。
覚えてらっしゃい、絶対入江くんに歌わせて見せるんだから!と琴子が密かに決意したことは、まだスタッフの誰も知らないのだった。

 * * *

「琴子ちゃん、頼むよ、何とかしてくれ」
食堂で、プリンを前に琴子はお願いをされていた。
直樹の指導医だった西垣医師からの切なる頼みだった。
しかしその頼み方がプリン一つで買収とはあまりにも情けない。
「プリンだけ?」
「おごる、何でもおごる」
プリンでは安すぎたかとちょっと反省した様子の西垣医師。
琴子からすればお願いされても本当に成就できる願いなのかどうかもわからないが、少なくとも何とか脅してでも歌わせてやろうと密かに目論んでいるので、役得ではある。
ここは子どもを使うべきか。
いや、ここは昔の古いアルバムを…。
そんなことを思ってプリンを食べ始めた。
「古いアルバムの中には隠れた思い出がいっぱいなのよ」
「…琴子ちゃん?」

西垣医師が急にふふふと笑いだした琴子にちょっと引き気味に問いかける。
ここはそっと立ち去るべきか。
あの魔王が来ないうちに。
西垣医師はそっと立ち去ることを選択し、その場から立ち去った。
その数分後に直樹が来たことを考えれば、西垣医師の選択はナイスだったということだろう。少なくともこの時点で魔王に目をつけられてしまっては、外科医局の企みも、琴子の企みも全て台無し、というわけだ。

もちろん直樹もいつもは食べないプリンを手にしている琴子を見て、ちょっと不穏なものを感じていたが、わざわざそこを突っ込むほど暇ではない。
さり気なく琴子の隣のテーブルに陣取り、琴子が気づかないうちにさっさと親子丼を食べ、琴子のふふふ笑いについてしばし推測し、お茶を飲み干して立ち上がった。
「あ、入江くん、いたなら声かけてよ、もう」
同じ職場だから、という理由では全くないが、いまだに入江くん呼ばわりが直らない妻を前に、直樹は眉間にしわを寄せた。
「おまえ、またろくなこと考えていないだろうな」
「ろくなことって…そんなのどれがろくなことなのかわかんないわよ」
言い得て妙である。
直樹にとって琴子の考えることの大半はろくなことではない。
いつもそれを指摘すると、琴子にとってはろくなことではない、らしい。
なので、琴子の考えるろくなことと直樹の考えるろくなことが一致することはまれである。
どれもこれも琴子にとっては必要なことであって、ろくなことではないのだから。
「午後からもお願いしますね、入江先生!」
何かを誤魔化すようにして琴子はトレーを持って立ち上がった。
一緒に食堂に来たナースはみんな先に引き上げたようだ。
つまり琴子だけ残っていたに違いない。
やはりろくなことではないようだという結論付けたが、それは口に出さなかった。
口にしてもろくでもないことなので、また何か起こった時に考えようと直樹は後回しにした。構えてもその斜め上を行く琴子の騒動だからだ。
プライベートでは相変わらず入江くんで、仕事モードの時は入江先生。子どもに対してはパパ。
案外器用に使い分けてはいるが、琴子の頭はさほど器用ではない。
そのうちぼろが出るだろうと直樹はトレーを返しながら、浮かれて歩く琴子の後姿を見送ったのだった。

 * * *

「琴子ちゃん、本当に大丈夫なんだろうね」
「大丈夫かどうかと言われたら、大丈夫なんじゃないかな、としか言えません」
西垣医師の言葉に琴子はドヤ顔で答えた。
「で、本当に『桜塚』、歌ってくれるのかな」
「入江くんが『桜塚』歌ってくれたら、もう絶対優勝よ」
そこまで言って、琴子ははっと気が付いた。
「いや、優勝しちゃまずいんだっけ?」
今回外科医局もライバルではある。何せ各病棟医局対抗戦なのだから。
「いやいや、琴子ちゃん、そこは目をつぶって、ね?」
西垣医師は必死だ。
夏祭りまであと六時間。
つまり、今は昼の休憩に入ったところなのだが、今のところ絶対直樹が歌う、との確証は得られていない。
琴子は実は今日休みをとっている。
なのにわざわざ夏祭りのために病院に来ているわけだ。
医局の前でこそこそと西垣医師と話していたが、今は直樹待ちで、琴子があえて子どもをダシに急用と呼びだしたのだ。
一応病棟と外来の迷惑にならないように今は急用がないことを確認したうえで呼び出している。後で直樹におこられるのはごめんだからだ。
「で、琴子ちゃん、その手に持っているのは何かな?」
「これが入江くんに歌を歌わせる武器です。いわば、最終兵器というわけ」
「へー、それがねぇ…って、だから、それ何?」
そんな漫才のようなやり取りをしている間にエレベータが着いたようだ。
「来た!」
琴子の言葉に合わせて、何故か西垣医師も突撃せんばかりに待ち構える。
エレベータが開くと同時にエレベータ前にすっ飛んで行った琴子だったが、下りてきたのはなんと外科医局長だった。
「おや、入江くん。なんだか必死の顔でどうしたんだね」
「入江先生に用があって、ちょっと」
「ほー、入江先生に、ね」
医局長は、公には言わないが、大変カラオケの好きな人だった。しかし、そんなことは周囲にバレバレだが、あえて医局長に突っ込む勇気のある者はいない。
ゆえに今回の夏祭りには、医局長はぜひとも出場したいと考えている。
考えてはいるが、病院長が直樹を押している以上、あえてその野望も引っ込めている。
いい意味で出過ぎず控え過ぎずのできた医局長なのだ。
しかし、ここにきていまだ直樹の出場承諾は取られていないとなると、医局長の出番かとささやかれている。
いや、その前に歌のうまい極控えめな講師が一人いるのだが、医局長に抜かりはない。その講師は朝から何故か週明けの手術を控え、大忙しだった。
何だか次から次へと雑用が言いつけられていて、このままでは普通に出場すること自体が危うい。
「入江先生は、今日はどこへ行きましたかね?」
そう言って医局長は後ろにいた下っ端医局員に話を振った。
「さ、さあ…」
医局員は目をそらす。
「朝から見かけませんね」
「そんなぁ」
「入江先生もいろいろ忙しそうですね」
ほっほっほっほっと朗らかに笑って医局長が去っていく。上から下からせっつかれる立場とはいえ、一介の看護師に負ける医局長ではない。
「うわー、さすが医局長。敵だか味方だかわかんないね」
琴子は手に持った最終兵器を手に、「負けないわよ」と鼻息も荒くこぶしを握っている。
呼び出したのだから来るはず。
多分、いや、きっと。
琴子と西垣医師はエレベータが着くのを待ったが、なかなか現れない。
「呼び出したんだよね?」
西垣医師が不安になって聞く。
「…入江くん、勘がいいからな〜」
「いや、そんなこと言ってる場合?」
と言ってる間に再びエレベータが着いた。
「来た!」
本日二回目だが、今度も違っていたらどうしようとちょっと二人して躊躇している。
しかし、念願かなってエレベータから下りてきたのは。
「入江くん!」
すかさず琴子が駆け寄ると、直樹は渋い顔をしている。
「…で、用事は何だ」
「それがね、これ、子どもに見せるべきかどうか、迷ってて」
そう言って、琴子が手に持った何かをちらりと直樹に見せた。
途端に渋い顔が無表情になり、次の瞬間盛大に眉間にしわが寄った。
「…琴子…、今さらそれを持ち出すか?それはしまっておけと言っただろ」
「やだ、入江くん。眉間にお箸挟めそう」
何で箸なのか、突っ込みたかったが、この会話に混ざれる自信が西垣医師にはなかった。
「何が目的だ」
これでは夫婦の会話じゃないな、と西垣医師は思う。
「目的なんて、そんな。昨日子どもが引っ張り出してきたらしいの。寸前で阻止したんだけど、朝からあれは何だとうるさくて。
ほら、あたしと入江くんの子どもなせいか、好奇心が強くって、しかもあたしの血をひいてるからか、なかなか諦めなくって」
「………」
「…ところで入江くん、歌うの拒否してるんだって?」
「それが目的か」
「目的って、だって、あたし、医局の皆さんにも頼まれて、特に病院長とか…権力には逆らえないじゃない?」
小首を傾げてかわいげにふるまっているが、内容は脅迫まがいだ。
「今回一度きりでいいんだよ」
「そもそも俺にあの歌は歌えない」
「大丈夫、入江くんなら一度聞いただけ覚えられるから!」
「無理だ」
「だって、お義母さんに聞いたけど、小さいときは一発で聞いて覚えてたし、実は絶対音感みたいなのあるんだよね?」
「そんなのあるんだ。初めて聞いた」
思わず出た西垣医師のつぶやきに、ぎろりと直樹がにらみつけてきた。
「歌詞だって、一度眺めれば覚えるって」
さすが琴子というべきか、押しが強い。
「これ、お義母さんに渡したら、きっと喜んで見せるよね。今までお義母さんが持ってるコレクションも取り上げてはあるけどぉ」
西垣医師がちらりと見れば、琴子の持っているものはどうやら古い写真らしい。
そう言えば昔はフィルムで焼き付けだったっけ、と。
「入江くんが歌ってくれさえすれば、これはまたどこか倉庫にでもしっかり封印しておいて、入江くんが子どもに上手いこと言ってくれればそれで解決よ」
直樹は呆れたように頭を振って、西垣医師を見た。
「本番に何かあって呼び出されたら、それで終了。もしも歌わなくても金輪際こんな企画には参加しない」
「オッケー、オッケー!」
西垣医師はナイス、琴子ちゃん、と握手を交わした。
…が、その手を直樹に奪われた。
細かいところで嫉妬するやつ、と西垣医師は恨めしそうに直樹を見るのだった。

(2019/11/04)


To be continued.