君と夏の終わり




繰り返し言うが、今日は琴子の仕事が休みだ。
このまま家に帰って、夏祭りの時間に戻ってこようかと思ったが、実行委員会に任命されている以上早めに準備に勤しまなければならず、考えた挙句帰るのをやめた。
先ほど別れ際に曲の入ったjポッドを直樹に渡した。
ちゃんと聞くかどうかは不明だが、少なくとも琴子の役目は終わった。
歌わせるように仕向けることと歌を覚えさせること。
病院長からの使命は果たしたはずだ。
これで直樹が覚えていなくても琴子の責任ではない。
しかし、直樹は覚えるだろう。
少なくともプライドをかけてとは言わなくても、本当に一度聞けば覚えるのが直樹の真骨頂なのだ。
浮かれてつい病棟に行ってしまった。仕事もないのに。
まあ休憩する場所が欲しかったのでよしとしようと思いつつ、ナースステーションに入る。
何故かナースステーションは通夜のようだった。
「なんか暗いね」
側にいたスタッフに話しかけた。
「…センター務めるマユミさんが…」
「え?」
「ぎっくり腰で…」
「ええっ」
それはやばい。
琴子は青ざめて後ずさる。
「か、代わりのセンターは」
「それはセカンドのカオリがやるけど」
「そ、そうか。それはよかった」
「よくないわよぉ。それぞれポジションが変わったことによってやばいのよ」
「が、がんばって…。じゃ、あたし、実行委員だから…」
と琴子はそのまま後ずさってナースステーションを出ようとした。
「待って!」
その腕をつかまれ、琴子は「…あたし、忙しいんだけど」といつもより弱気だ。
「後ろでいいから参加して!」
「む、無理!知らないし!」
「大丈夫、簡単なところしかないから」
「無理だって」
「琴子以外に暇な人いないんだって」
「あたし、今忙しいって言った!」
「聞いたわよ」
「え」
「入江先生、引き込んだんだって?」
「どこでそれを」
「さっき医局長がぶつぶつ言ってた」
あの医局長め〜と琴子が思っていると、更に言う。
「入江先生の件、まだ誰も知らないから、黙っていてあげてもいいんだけど」
「う…」
「決まりね。みんな―、琴子捕まえた」
先ほどまで通夜のようだったナースステーションから歓声が上がる。
「わーーーー、無理!」
ナースステーションは急に活気づき、がっしりと腕をつかまれた琴子は、急に現れた救世主のように扱われ、ちょっとだけ満更でもなくなった。
もちろんその後に来る苦難のことなど、一時頭から抜け出てしまったのは、琴子のお調子者たる所以なのだが。

 * * *

「あの、あたし、実行委員の仕事が…」
「大丈夫、許可取った〜」
「え、でも、一応役割が…」
「あともう一息がんばって、琴子」
「それに琴子がいない方がはかどるって」
「…この踊りにあたしいらないんじゃ…」
「人数は必要なのよ」

先ほどから不毛な会話をしつつ、琴子は踊らされていた。
正直もの覚えはよくない。
運動神経が鈍いとは言わないが、それほどいいとは言わない。
おまけに子どもを産んでからいろいろと体力や気力が足りない。
こんなところでこんなことをしている場合ではない、と言いたいのだが、夏祭りの開始時間までもう一時間もない。
第三外科病棟の出場時間まで振りを覚えるとして、歌はどうなる。
これは歌合戦ではなかったか。
しかもこの夏祭りには、見事な入江家撮影隊がやってきている。
できれば出場はばれたくない。
絶対ビデオに撮られて末代まで言われるわー!と琴子の心は荒んでいた。
それでも頼まれた以上、なんとか振りを覚える琴子だ。
励ましのもと、ぎりぎりまで振りを覚えさせられ、いよいよ残り時間はわずか一時間。
そろそろ設営準備も終わり、あとは時間通りに進めていくだけとなっている。
実行委員としての仕事は、何故か他のスタッフが代わりに行ってくれているという至れり尽くせりだ。
それでもそろそろ体力も限界。できれば本番までは休ませてほしいところだ。
「もうダメ…」
珍しく弱気な琴子だった。


その頃外科医局では、琴子から手渡されたjポッドが放置された直樹の机の上。
「おいおい、大丈夫なのか、こいつ」
医局に戻ってきた医師たちがjポッドを見てそれぞれ好き勝手なことを言っている。
「ところで、こいつちゃんと覚えたのか?それにどこ行ったんだ?」
医師たちは顔を見合わせ、「さあ?」と首を傾げたところで西垣医師がやってきた。
「西垣先生、入江先生、どこ行きました?」
「病棟、かな」
「ちゃんと歌えるんでしょうね?」
「それは知らないけど、もう覚えたとは言ってたよ」
西垣医師の言葉に他の医師たちはざわついた。
「マジか」
「だから置いてあるのか、これ」
「というか、もともと知ってたんじゃないのか、結構売れた曲だぞ」
「知らない方が驚きだよ」
「いや、入江先生だからなー」
「そうだな、入江先生だからなー」
そんな無責任なことを言っている平の外科医局員は、歌合戦のことなど正直どうでもよかった。
それよりも週明けに入っている手術や、受け持っている患者、外来での紹介状などやることは盛りだくさんで、自分は歌などうまくなくてよかったと思っているクチだ。
いや、直樹の場合は歌すら誰も聞いていないのに候補に入ったのだから、顔がいいというのも考え物だと自分を慰めるのみだ。
それぞれエントリーされているメンバーを見ると、概ね病棟は集団で歌って踊るか、やたら歌のうまい人を出すかで、医局の場合はそんな暇はないとばかりに研修医をネタ扱いで出させるかだ。
外科病棟は、何故かガチだ。
それは病院長の意向もあるし、噂によると提案した癒しのなんちゃらが外科医局であれば病院長の采配により予算を縮小できるからではないかというせこい考察もされている。
あながち噂とは言い切れないところが怖いところだ。

西垣医師は直樹御母堂から預かった衣装を横目で見た。
院内放送で呼び出されて行ってみれば、待っていたのは直樹の御母堂であり、琴子の姑である紀子だった。
スーツを手渡され、直樹に着せろという。
無茶を言う、と西垣医師は一旦断った。
指導医とはいえ、西垣医師の言うことを素直に聞くような男ではない。
むしろ反発して歌わないと言いかねない。
しかもちょっと衣装カバーを開けてみると、中に入っていたのはピンクのスーツだった。
「ピンク…」
西垣医師はそれを着た直樹を想像してみたが、どうしてもできなかった。
これを着て出たら完全にお笑いのPだ。
渡された時にはスーツの色については何も言っていなかったが、御母堂曰く「大学の入学式に用意した」代物だという。
一度も袖を通さないまま、いったい何年経っているのだろう。
そもそも着れるのか。
いつか着せようと、サイズ調整されていたというから、御母堂の執着恐ろしやと西垣医師は人知れず体を震わせた。
そもそも出場することやどんな歌を歌うことは、どこから漏れたのだろう。
琴子の脅し方からいってばれていたのだろうと思う。
それについては院内じゃないからいいやという結論に達したものの、春の歌だからこの色というのは、なんという強引さ。
それを自分の息子にという御母堂の容赦のなさ。
いや、嫌がらせで着せたいわけではないのだろう。
あくまで、この衣装が映える、と持ってきたのだ。
想像しようとして想像しきれない西垣医師は、だんだんと笑いがこみあげてきた。
一応言ってみる価値はあるだろうか。
いや、これは危険すぎるから避けるべきだろうか。
琴子に話せばかなり強く勧めるだろう。
それも面白いかもしれない、と西垣医師は思ったのだった。
ちなみにこの時間に御母堂がいるというのは意外だったが、既に入江家撮影隊はベストポジションに待機中だという。
さすが、だった。

さあ残るはあと一時間。
そろそろ本格的に直樹を探さねばならない。
スタンバイも必要だし、御母堂から預かった衣装(笑)を着るよう説得も必要だ。
本当に覚えたのか歌って見せろよと言いたくもなる。
これで壮絶な音痴だったら、それはそれでネタとして面白い。
面白いどころか、盛大にいじり倒してみたい。
それでどうなろうが、今に始まったことではないのでどうでもいい。
院内携帯で呼び出そうか。
医局からかけたのでは絶対出なさそうだが。
ただ、今ここで病棟に下りてしまうと、何事か用事を言いつけられて、肝心の歌合戦を見ることができなくなってしまう。
ここは研修医に任せて、病棟に下りるのは緊急事態だけにしようと西垣医師は決心した。
そして、一か八か医局の電話で直樹の院内携帯にかけてみることにした。
西垣医師からの院内携帯を何故使わないのか。
それは絶対にこの時間では出ないだろうとわかっているからだ。
一応呼び出し音は鳴っている。
緊急連絡もあるので、切ることはない。
ところが。
「あ、入江?そ…」
無情にも要件を言う前に電話は切れた。
しかも向こう側の気配は一切伝わらないままだ。
そろそろスタンバイしないと、というつもりだった西垣医師は、電話を見つめながら「くっそ、切りやがった!」と受話器を叩きつけた。
叩きつけた電話は本体から外れて転がる。
そこにちょうど通りかかった医局付きの秘書が声を上げる。
「西垣先生!備品をそんなに乱暴に扱わないでください」
「…あ、ああ、ごめん」
「今度壊れたら買ってもらいますからね」
「今度って、一回も壊したことなんてないぞ」
それでも丁寧に受話器を戻し、秘書を見る。
「斗南はそんなにお金ないのか…」
「斗南がないわけではありません。ないのは外科医局、です」
「…なるほど」
「ぽんぽんと新しい機器を買い入れたりするからですよ」
「いったい何をそんなに買ったっけ」
「入江先生が入局してから、手術に幅が広がったからとあれこれと」
「…そうだった」
手術場での諸々を思い出し、西垣医師は歯噛みする思いだ。
西垣医師がどんなに懇願しても買ってくれなかった、あれやこれやの機器の数々を、直樹が難しい手術を行うにあたってぽんぽんと気前よく買っていた院長。
確かに実績は文句をつけるところがないのだから、更に腹立たしい。
「ところで僕もうすぐ誕生日なんだけど」
医局秘書は全く表情を変えず「存じ上げませんでした」と答えた。
いや、絶対知っている、とは思ったものの、普段生年月日の入った書類を整理する立場の秘書の返答に取り付くしまはない。
「入江先生の誕生日は先日有休申請をされましたので覚えておりますが」
と医局秘書はさらりと言った。
「あー、絶対着させてやる!」
西垣医師が叫んだ。
医局秘書はあえて何を?とは聞かない。
冷静沈着な彼女は秘書室へと戻りながら振り返って言った。
「私、もしも子どもが生まれたら、子どもに二番目に好きだと言ってくれるような男性と添い遂げたいと思っているんです。先生は…、たくさん一番目がありそうで…」
ぱたんと無情に秘書室は閉まった。
「Love,day after tomorrow…なんだけどな…」
西垣医師は医局秘書が言ったようなことを平然と言ってのけそうな男を一人だけ知っている、と思った。
そしてそれは、きっと医局秘書も知っているに違いない。

(2019/11/29)


To be continued.