ドクターNのお見合い4
医局の新年会などで訪れたこともあるが、普段は出入りすることのないBホテルのロビーで、彼はゆったりと座りながら見合い写真の彼女を待っていた。
実はかなりのお嬢様であることがわかり、粗相のないようにと教授からの言葉もあった。
粗相も何も、男との付き合い方を教えるのに、いったい粗相のないように何をどう教えろというのかと彼は内心思っていたが、そこは処世術で素直に「承知しました」と答えておいた。
見合い写真から読み取れるのは、強張った笑顔がそもそもやや厳つい顔を更に厳つく見せてしまうことだと彼は分析していた。
加えて、身体を包む着物は、恐らく成人式のときのものだろうが、着ている柄がこれまた微妙だ。
誰が選んだのか、サーモンピンクの鮮やかな着物に身を包んだ彼女は、ボンレスハムのようだった。可愛らしい振袖であることには間違いないのだが。
まあそれはいいとしよう。やせたり太ったりなど彼にとっては些細な問題だ。
ロビーを少なくない人々が歩いている。
彼女が来ればすぐにわかるだろう。
それは間違いない。
彼は雑誌を膝に置き、ヤングエグゼティブ気取りで抜かりなく周囲に気を配っていた。
一応大きな大学病院で働いている若手エリート外科医だしっと彼は並み居る会社員のエリート然とした顔を見ながら胸を張った。
「…あの」
そう言われて振り向くと、そこには巨大な…いや、写真よりもさらにふっくらとした彼女がいた。
「いつのまに」
思わずそう口走ったが、こほんと一つ咳をすると、彼は立ち上がって恭しくお辞儀をして言った。
「初めまして。西垣と申します」
彼女は黙ってお辞儀を返した。
初めの第一声こそ勇気を振り絞ってみたようだが、後はひたすらだんまりだ。
「大変失礼いたします」
彼女の身体に隠れて見えていなかったが、彼女の後ろには一人の老紳士がいた。
一瞬彼女の腹話術かと思った。
「西垣様、でいらっしゃいますね」
「はい」
「このたびは当方の我侭なお願いをお聞き届けくださりありがとうございます。
当家のお嬢様ですが、極度の恥ずかしがり屋でいらっしゃいますので、なかなか会話もままならないとは思いますが、どうかよろしくお願いいたします。
私は今より3時間後にお迎えに上がりますので、どうかくれぐれも」
「はぁ」
「くれぐれもお嬢様をよろしくお願いいたします」
「…はい」
彼は厄介なことを引き受けた感満載で老紳士を見送った。
きっかり3時間後、彼は時計のアラームをセットしておくことにした。
「では、えーと」
彼は見合い写真を見てはいたが、名前までは覚えていなかったことに気がついた。
いきなり名前を聞いたら失礼だろうかと考えた挙句「やあ、僕は少しでも親しくなるためによかったらなんと呼ばれたいのか君の口から聞きたいな」などといつもの調子でさりげなく聞くことにした。
沈黙が辺りを支配したが、きっかり3分の後に彼女から「…凪子(なぎこ)とお呼びください」という答えが返ってきた時は、思わずガッツポーズをした。
凪子が本名かどうかはこの際どうでもいい。
要は彼女がそう呼ばれたがっていることを知っただけでももうけものだからだ。
しかし、この場で込み入った話をするのもあまりスマートではない。
だからと言って彼の得意なカフェに連れて行っても大丈夫なのだろうかというところからまず悩んだ。
そう、表現するのも忘れていたが、今日の彼女の格好は、やはり和服だった。
色はグリーン。
…植木が移動しているかと思った。
彼女はだんまりを決め込んでいるものの、決して機嫌が悪いわけではない。
ただはにかんでうつむいている。
態度はなかなか可愛らしい、と彼は評価する。
どうしたものかと腕を組んで悩んだとき「言い忘れておりましたが」と背後から声がした。
驚いて少々大げさに振り向いた。
「当家行きつけの茶店がこのホテルの地下1階にあります。
そこを西垣様のお名前で予約してございますので、どうぞご利用ください」
先ほどの老紳士がいつの間にか彼の背後に立っていて、そうささやいた。
気配を感じさせないその身のこなしはなかなか侮れない。
彼はただ黙ってうなずいておいた。
これで場所の問題は解決だ。
彼は彼女をエスコートして、その茶店に行くことにした。
(2012/07/04)