ドクターNのお見合い6
彼は女性と二人で座ってここまで無言だったことはなかった。
何かしら取っ掛かりの言葉から会話を広げるのが彼の得意技であったはずなのに。
さすがの彼もこれでは名うてのプレイボーイを気取ったことも返上かと心の中で嘆いていた。
しかし、ここでめげてばかりはいられない。
彼のいいところはすぐに立ち直ってポジティブなところなのだ。
「ところで凪子さん、僕は最近美術館巡りも好きなんですが、凪子さんはどんなことが好きなんですか」
「…着物を少々」
「…着物」
彼は彼女の着物を見た。
鮮やかなこのグリーンの着物は、彼女の趣味であったらしい。
…身内の誰でもいい、誰か止めろよ、その趣味、と彼は少々投げやりに思った。
確かに物は良さそうだ。
しかし、この鮮やかさはやはり特注だったりするのだろうか。
いや、今はそんなことを探っている場合ではない。
彼はコーヒーをがぶ飲みしたせいか、トイレに行きたくなってきた。
今ここでトイレを申し出て、彼女は気分を悪くするかもしれないが、背に腹は代えられない。というより、彼女にどう思われてもちっとも構わないんだが、と彼は思い切って「ちょっと失礼」と言ってトイレに行くことにした。
トイレのために個室を出る時は、慎重に辺りを見回してから出ることにした。
隣室の何かとんでもないものを見ないように、だ。
音も出さないようにそっと歩いていく。
お手洗いはどこだと確認したかったが、上品な場所であるせいか、あからさまな表示はない。
仕方がないので入口付近まで戻って店員に聞くことにした。
「すみません、お手洗いは…」
なるべく小さな声で話しかけたとき、運の悪いことにこれまたどこかで見たような人が現れた。
「あら?あら、ねえ、この方、確かお兄ちゃんの…」
彼は目が合わないように向きを変えたのだが、入口からすぐのこの場所では隠れる場所などなかった。
したがって、彼の姿は今到着したらしい客の目にしっかりと入ったらしい。
このまま無視して回れ右をしてしまいたかったが、彼の膀胱は今まさにあふれんばかりに便器を恋しがっている。
心なしか顔が青ざめているのは、思わぬ人に会ったせいなのか、限界を迎えようとしているせいなのか。
「お、お手洗いは…」
彼はめげずに店員に訴えた。
たとえ店員が今来た客を案内しようとも、これだけ見るからに切羽詰った客にお手洗いの場所を指し示すのを躊躇うとは思えなかったからだ。
「あちらにございます」
店員の指が光り輝いて見えた。
お手洗いへと続く通路は、迷える子羊に啓示された神への道のようにさえ思えた。
彼はいそいそとお手洗いへ向かって直行した。
…はずだった。
「やっぱり、お兄ちゃんの病院の方でしたわね。
私、直樹と琴子ちゃんの母でございます。いつもお世話になっております」
目の前に立ちふさがれてそう言われては、さすがに無視して通り過ぎるわけにもいかず、彼は曖昧な笑いをしながら「は、はあ、それはどうも」と頭を下げた。
どうでもいいが、速やかにお手洗いに行かせてほしいのだが、と彼はそのご母堂と隣にいる男を見た。
いかにも、な社長然とした父(多分)。
華やかな着物を身にまとった婦人があの生意気な後輩のご母堂だ。どちらかというと琴子の母ではないかと疑うほどの陽気な感じだ。
「今日は二人も先に来てるんですのよ」
「あ、いや、呼ばなくて結構ですから。私も連れがいるものですから」
「あら、そうなんですか。
まあ、そうですわよね。こんな茶店にお一人でいらっしゃるはずないですわよね。私ったら、気がつかなくて申し訳ありません」
「で、では、また」
彼は早々に話を切り上げて、栄光のお手洗いロードへと駆け抜けて行くつもりだった。
今度こそは引き止められることもなく、お手洗いへ駆け込むと、ようやく一息ついた。
用を足しながら、できれば早急に切り上げて帰りたい、もしくは移動したい衝動に駆られた。
いや、それよりも隣のやつらが帰るまで、あの個室内にこもっていればどうだろうか。
彼は時計を見てうーんとうなった。
「大きいほうならそんなところで唸らないでください」
振り返ると、やつが、いた。
(2012/07/25)