ドクターNと好みのオムレット





「ひどい目に遭った」
医局長に呼ばれ、さんざん悩んだ挙句しぶしぶ医局に戻った僕は、ただいまIDもはく奪されて正直役立たず。
ああ、自分で役立たずなんて言う日が来るとは。
(いや、以前IDカード破壊されて役立たずになったことはある)
医局に入ると、医局長は当然医局室。
医局長だというのに隅っこの部屋でこれまた狭苦しいくらいだ。
そもそも医局長なんてあれこれ責任押し付けられるだけであまりいい役目じゃない。
将来もう少し出世したいがために嫌々引き受けるのだ。
医局員が何かやった折には神経質そうに怒鳴り声が聞こえる。
そもそもいい大人が怒鳴るってどうなのとか、外科医なんだからもう少し冷静にとか思わないでもないんだが、怒鳴るしか何もできない時もあるしね。
特に入ったばかりの研修医はあれこれとやらかしてくれる。
一本ウン万円の薬剤割ってくれたり(医局の負担)、大事なカギを持ったままアルバイト先に行ってしまったり。
少なくともその点に関してだけは、生意気だが優秀ではあるあいつの指導医でよかったと思ったもんだ。
あ、そう言えば皆が慰安旅行に行ってる間にとんでもないことやったことあったっけ。ま、あれも患者死なせたわけじゃなくて結果的には手術も成功ではあったから、ほとんどお咎めなしだったっけ。いや、僕は確か始末書書かされたな…。
とにかく、医局長に言われた言葉は、「君、スパイしたの?」だった。
マジか!
あの生意気な後輩の言ったことを本当に疑われているとは思わなかった。
「とんでもないです!」
「いったい何をいじったんだ」
「…さあ?」
そんなこと憶えていない。
動かなくなって、腹が立って、あちこちカチカチとクリックしまくったり、キーボード押しまくったりはした。
「外科病棟の清水主任もそのほか何人か、君が怪しい動きをしていたということはない、と言ってくれてね」
「そ、そうですか!」
さすが清水主任。
「そもそもそんな知識を持ってない、そんな高度なことをできる人ではない、女にだらしがなくて時々ものすごく無責任な人だが、とりあえず悪い人ではない、と」
ちょ、ちょーっと引っかかるが、とりあえずは感謝しよう。
あれからシステム管理室の方でもログをあれこれ確認して、君の容疑は晴れそうだ」
「そうですか。そうでしょうね。何もやっていませんから」
「君は以前IDカードもダメにしたことがあったね」
「あれは…!あれは入江が何かの加減で握りつぶしてしまって」
「…ああ、そうだったかな」
そうなんだよ!
頼むよ、そういうところだけ忘れないでくれよ。
びくびくした割には、思ったよりあっさりと釈放されて、僕はほっとして医局を出た。
でもIDがないので、病室に行ってもやることはない。
仕方がないのでちょっと院内をふらふらと歩くことに。

院内でふらふら歩く場所は決まっている。
いつも行く外科病棟か、手術準備室か、研究棟か、外科外来か。
ちなみに今日の外科外来は僕の当番ではない。
明日までに何とかしてくれないと、外来担当ですらお役に立てなくなるぞ。
もちろん外科外来も正直それほどやりたいわけではないんだが。
何せ腐っても(いや、腐ってはいないか)外科医の端くれ。一応外科医局の中でも中堅からベテランの域に入る今まさに乗りに乗ってる外科のホープ。
え?あの生意気な後輩はどうだって?
う、うん、あいつは別格。まさに怪物。魔王の域だから除外してもらおうか。
さて、今日のお昼は何かな。
そんなことも考えながら足が向いた先は職員食堂へ向かう廊下。
ちょっと早いけど先にお昼にしてしまおうか。いつ呼び出しがかかるとも限らないし。
エレベータに乗って、職員食堂のある階のボタンを押すと、そこへ飛び込んできた人がいた。
「ま、待ってください」
書類を両手に持った麗しき秘書、といった感じかな。
あまり見かけたことはないなぁ。
「どちらまで?」
「えっと、最上階まで」
「食堂?」
「いえ、特別病棟です」
「ああ、なるほど」
そう言われてみれば、事務系の制服だし、さすがにそこまで僕は把握していないな。
「医療事務さん、かな」
「はい、そうです」
そんな会話をしながらエレベータは上昇していく。
もちろん医局からなのですぐに到着。ちょっと惜しい。
「それじゃあ、ね」
「はい、ありがとうございました」
彼女を先に下ろして優雅に降りると、彼女はきっちり僕に会釈した。大したことしてないんだけど、なかなか好感度は高いな。うん、見た目もなかなかだ。
僕は基本的に女の子ならあまり顔の造作はあれこれ言わない。それでももちろん美人が好きなんだけどね。
特別病棟へ向かう彼女は、IDカードが裏返っていて名前が読めなかった。こりゃ残念。
もちろん特別病棟に入るには、IDカードを入口でピッと読み込ませないといけないんだが、事務要件で来たらしい彼女は一応インターホンで断りを入れてからIDカードで入室していった。
特別病棟ってのは、私立病院にありがちないわゆるVIPが入院するところと相場は決まっている。
僕たちだって呼ばれればもちろん行く。
でも外科でオペになる患者は意外に少なくて、忙しい身分の人が多くて、割と内視鏡手術が増えてるんだよね。ほら、内視鏡手術ってうまくいけば入院は一日、二、三日で復帰できるから。あ、傷口云々は別だけど。
内視鏡手術と言えば、内科の十八番。外科だというのにしゃしゃり出てきて、といったやっかみもある。
別に外科医が内視鏡やったって問題ないと思うんだが、そこはやはり外科医。切るのが大好きな連中だから、切らないのは手術ではない、というわけだ。
ともかく、IDで管理された特別病棟は、ちょっとした特別な場所、というわけだ。
僕は彼女が入っていったのを横目で見ながら職員食堂へ。
少し早い時間だからほとんど誰もいないに等しい。
今日のメニューは…と。
「あら、先生、今日はチキンソテーがAセットよ」
食堂のおばちゃんがお勧めするので、それにしようかとおもったのだけど、念のため聞いてみる。
「で、Bセットは?」
「今日はチキンライスね」
「オムライスじゃないの?」
「卵で巻くのが面倒なのよ〜」
「ああ、なるほど。時間との勝負だもんね」
作り置いては冷めていると言われ、その場で用意すれば遅いと言われ、食堂のおばちゃんも苦労しているらしい。
「でもチキンライスを卵で包むくらいの時間、サクラさんだったらうどんをゆでてお湯切るくらいの時間でできそうなもんだけど」
そうそう、このおばちゃんの名前はサクラさんという。
心の中ではおばちゃん呼びだったりするけど(その方が食堂のおばちゃんっぽい)、声をかけるときはちゃんと名前呼びするんだ。その方がおばちゃんの機嫌もいいしね。
「あら、それなら追加料金払って包んでみるかい?」
「え、いいの?」
「追加料金、払ってね」
「うん、うん」
「男ってのは、オムライス好きだよねぇ」
「そうかな」
「うちの旦那もそうだけど、いまだにオムライスって言うと喜んじゃって。子どもみたいだよ」
というわけで、おばちゃんはチキンライスをオムライスにしてくれたのだった(もちろん追加料金はしっかり取られた。たまにはサービスしてくれればいいのに)。
あまり人のいない食堂でオムライスを頬張っていたら、なんとそこに先ほどの事務の女の子がやってきた。
あまりにも空いているので、逆にどこに座っていいかわからないようだった。
僕は思わず「やあ!」と陽気に手をあげて招いた。
一瞬躊躇した後、それでもその女の子はこちらへやってきた。
僕の目の前の席を「どうぞ」と勧めると、彼女は「あ、すみません、お邪魔します」と素直に座った。
僕のオムライスを見て「え」と声上げた。
「どうかした?」
「そんなメニューなかった」
「あ、ああ、これね。食堂のおばちゃんに頼んでオムライスにしてもらったんだよ。そりゃ追加料金取られたけどね」
「えー、そんなことできるんですか」
そう言いながら、いただきますと小声で言って、目の前のランチを食べ始めた。
これはA定食だね。
「わたし、オムライス好きなんです」
「そうか。もう食べちゃったから交換はしてあげられないなぁ」
彼女はくすっと笑って「大丈夫です」と言った。
そう言えばまだ名前も知らない。
名札は相変わらず裏返っている。
「医療事務さんだったよね」
「はい」
「あの、名前は…」
その瞬間、どこからか電話の音が…。
って、僕か。
ズボンに突っ込んであった電話が鳴っているので、仕方なく電話に出ることに。
「あ、もしもし」
『先生、IDの使用禁止が解除になりました』
「あ、ああ、そう」
使用禁止って、やっぱり思いっきり犯罪者扱いだったわけね。
『もう一度パスワードの登録からやり直してください』
「えー、面倒くさいなぁ」
『それやらないと使えませんので、お願いします』
「…はいはい、わかったよ」
そう言うと、電話は切れたが、いつの間にか目の前の事務の女の子は消えていた。
い、いつの間に?!
早い!
とか言っている間に次の電話が。
しかも二度目なので、まだ人が少ないとはいえ、ちょっとだけ周囲の目が厳しい。
仕方なくトレーを持ってその場から立ち上がり、電話を片手に食堂から移動することにした。
「はい、に…」
『先生!ID復活したのなら、さっさと船津先生の分、投薬しに来てください』
「え、だって、それは入江のやつが…」
『…まだですよ。先生の分はちゃんとやってくれたんですから、十分でしょ。それに昨日船津先生と一緒に飲んでたの、先生なんですって?責任とってやってください!』
「えー、でも僕が担当じゃないし」
『部下の不始末はきちんとつけてください。わざわざ薬剤部に頼んで船津先生の分の処方締め切り伸ばしてもらったんですから』
「…何もそこまでしなくとも」
『お願いしますよ』
言いたいことだけ言って電話は切れた。
そもそも船津はどこへ消えたんだ?(答え:トイレ)
何で僕がこんな目に?
そう言いながらもちゃんと外科病棟へ戻る僕。
部下の不始末って、船津の指導医は僕じゃないんだけどな。そうそう、同じ講師の乾先生だったよな。
そこではたと思い出した。
乾先生って、そう言えば今週から大阪へ出張中だった!
仕方がない、この埋め合わせは乾先生にさせよう。そうしよう。
そう僕の中で決めると、外科病棟への道を戻ることにした。
ところがエレベータの中に何やら不穏な気配が…。
扉が開いた瞬間、僕は一瞬回れ右をしたくなったね。
僕の危機管理能力も捨てたものじゃないと思う。
そこには、恐ろしく不機嫌な大魔王の姿があったんだ。
「早めに昼食をとったんですね」
エレベータが下降を始めて、ヤツは言った。
「う、うん、食べられる時に食べておかないとね」
「さすがです。IDがなくともできることがあると、清水主任が」
「え、清水主任が?」
「…頑張ってください。教授に呼ばれましたので、研究棟に行ってきます」
そう言ってやつは研究棟へつながる階で下りていった。
思ったよりあっさり行ったな。
そう思って、外科病棟のある階でエレベータを下りると、そこにはピリピリとした清水主任がちょうど病室から戻るところだったらしい。僕の姿を見つけると、きりっとしたまなざしを僕に向けた。
「8号室の澤田さんが急変しました。入江先生がとりあえず処置をしてくれましたが、まだ血圧が不安定です」
「そういうときこそ電話してくれれば」
「入江先生が、先生がIDがないとオーダーも大変だろうから後で戻って来たらその後を見てもらってほしいとおっしゃってくれたんですよ」
「そうなんだ。悪かったね」
「入江先生が昇圧剤をオーダーしていかれました」
ナースステーションに入って、その患者のカルテを確認する。
「あ、そうそう、ID復活したんだよね。無実だって証言してくれてありがとう」
「…無実だとは申し上げておりません。そういうことはできないだろうと、と申し上げただけです」
「うん、まあ、何でもいいや、疑いが晴れたし」
一応そうお礼を言っておくと、清水主任は「後をお願いしたします」と去っていった。
「あ、先生!」
椅子に座る間もなく今度はリーダーナースからの声が。
「澤田さんの処置が終わり次第、船津先生のオーダーを頼みます。ちなみに締め切りまであと30分です」
思わず時計を見る。
「え、そんな時間なの」
「あ、先生、それが終わりましたら、来週手術予定の患者の家族が話をしたいとお見えです」
「ああ、うん」
更に別のナースがやってきた。
「先生、5号室の患者さんの傷口、その後でいいので見てもらえますか」
「う、うん」
えーと、澤田さんの昇圧剤、船津患者のオーダーに面談に回診っと。
わーい、もう午後の予定いっぱいだ。
これが仕返しか?そうなんだな、入江め!
なんで指導医が率先して仕事を片付けなきゃいけないんだよ。
いや、そりゃ患者は大事だ。大事だが、それとこれとは話が違う。
なんで全部俺に任せておまえは教授のご機嫌伺い(注:教授が研究のために呼び出した)なんだよーーー!
船津ー!おまえも憶えてろよー!
黙々と仕事をこなす傍ら、ナースたちはぼちぼちランチに行くようだ。
そこで僕は「今日はBランチがチキンライスだったんだけど、追加料金払って僕はオムライスにしてもらったんだよ」と言うと、ナースたちは「へー!」とこれはいいこと聞いたみたいな感じで出ていった。
ナースたちがランチが終わった後も僕は黙々と仕事を片付ける。
ふとあの事務の女の子の名前聞くの忘れたなーとか思いながら仕事をしていると、なんと船津が戻ってきた。
何時間ぶりなんだよ。
そうだ、お前のせいで…。
「先生のせいで!」
まだ顔色は悪かったものの、船津は僕を指さした。人を指すな、しかも上司を。
「真里奈さんが…」
「品川君が?」
「今日オムライス食べたから(デートは)やっぱなしって…!」
「あ、はあ」
「なしって…なしって…うおおおおおお!オムライスの店なら都内全部言えるぞ!いろんなオムライスがあるんだ!食堂のオムライスごときで!」
えーと…。
久々に切れた船津が怒った清水主任に強制的に排除されるのをただただ見送った。
「…はあ、仕事しよう」
気の抜けた僕は、船津に怒るタイミングを失ったまま、その日琴子ちゃんが夜勤で失敗するまでを見守ることになるのだった。

(2016/07/26)

To be continued.