ドクターNと好みのオムレット





その日の僕は、あの事務の子をちょっとのぞいてみようと外来の会計辺りをうろうろしていた。
ただ、白衣を着た医者がその辺りうろうろするのはかなりの異様な光景だ。
だって、そこには会計を済ませようとする患者で一杯で、医者がいったい何の用事があるんだ。
そもそも事務の子はレセだの何だのと外来には来るが、医者が出向くなんてことは滅多にない。というか、ほぼない。
あ、レセというのはレセプトと言って、診療報酬の明細だ。
これがないと保険組合とか区や市に保険請求できない仕組みだ。しかもそのレセにおかしな点があるとチェックが入ってバッサリと保険請求が切られて病院の損にもなるという非常に面倒くさいながらも大事な書類なのだ。
つまり、きちんとした病名のもとにそれにふさわしい検査と薬剤処方があって初めて保険請求できるのだ。
腹痛で診療を受けたのにいきなり湿布は出せない。それこそ腰痛症だの変形性膝関節症だのと病名をつけないとダメなんだ。
ガンじゃないけどガンの疑いの病名つけないと腫瘍マーカーの検査もできない。もちろん腫瘍マーカーはガンの発見のために検査するんだから当然だと思うけどね。病名だけ見ると患者がぎょっとするような病名がついていたりする。
抗生剤は二週間以上使っちゃいけないとか、決められた期間を超すと処方する理由という名のコメントが必要なんだ。
それを書き入れるのも医者の仕事。それが抜けていれば医者に求めるのが医療事務の仕事。
だから月末近くになると医療事務はレセを抱えて医者のもとを訪れる羽目になる。
たまに診療報酬水増しってニュースになるが、一応レセを確認する作業を行う人がいる。それが委託された一般の医者だったり第三者だったりがとある場所に集められて一斉に確認作業を行う。人によってはばっさばっさと切る人もいるから要注意だ。
切られて戻ってくると、もう一度理由をつけて戻さなければならない。
これが多い医者は医療事務に嫌われる。うん、面倒だからね。
これが診療報酬の仕組みなんだが、あまり医者に無茶言って他の薬をもらおうとかよその病院でも同じ薬をもらおうなんて思ってもどこかでばれるから、気をつけよう。
ちなみに僕はあまりレセの返還はない、はずだ。
少なくとも余程のことがない限り返還されるような検査や処方はしない。
つまり、あまり医療事務とは接点がない。
しかも医療事務は普通の事務方とは違う場所でたむろっている。
接点がなければ出会う機会もない。
接点がなければ接点を作るしかない。
接点を作るには、情報が必要だ。
…というわけで、まずは手始めに外来が終わってから病棟へ行く道すがら様子を見に会計近くをのぞいてみたというわけだ。
当然のことながら大勢の人ごみの中、会計辺りしかこちらから見えないので、奥で誰が働いているかなんてわからない。
そりゃいきなり見つかれば苦労はないが、とりあえず誰か話のできそうな女の子を捜す。
誰か知ってる子はいないかな〜と思っていると、今月のレセに落ちがあるのか、レセを抱えて出てくる事務の子もいる。
おっと、その中にいたよ、顔なじみの子が。
「あ、先生、久しぶり。え、何か用事?」
彼女は僕を見ると、一瞬胸元を見てくすっと笑った。え、何だろう。
「ああ、マキちゃん。先日ちょっとだけ世話になった子がいるんだけどね、お礼を言おうにもどこにいるのかさっぱりで」
「へー、あたしじゃないんだ、それは残念」
「もちろんその子に伝えてくれたら、マキちゃんにも食事をごちそうするよ」
「ホント?どの子?名前は?」
「んー、それが、名前を聞いていないんだよね。だから余計わからないわけ」
「先生でもそんな手抜かりあるのねぇ」
「君だから言うけど、僕は確かにいろんな女の子と食事をするけど、ほとんどは食事をするだけだって知ってるだろ」
「ああ、まあ、確かに気前いいわよね」
「楽しく過ごすのが目的なんだからね。でもちょっとお世話になったって子は、当然ながらナンパしたわけじゃないんだから、名前は聞きそびれちゃって。でもお礼しなけけりゃと思ったからここまで来たんだ」
「別にいいわよ。それで、どんな子?」
「うーん、確か髪はセミロング、ちょっと化粧っ気の薄い子で、特別病棟に出入りできる子」
「あー、もしかしてこの間来た派遣の子かな」
「派遣?」
「忙しいときに時々来るのよ、派遣事務所から。仕事の早い子という条件で」
「その子は今は?」
「また明日、かな?よかったら明日、確かめて知らせてあげるわ。先生、明日は?」
「また外来かな」
「ん、わかったわ」
「ありがとう。この次はぜひ」
「それじゃあね、先生。ネクタイ、似合ってるわよ」
そう言って彼女は笑った。
ネクタイ、ちょっとこの色は冒険すぎだったかな。
そんなふうにして何とか渡りをつけた僕は、さっさとこの外来から立ち去ることにした。そうでもしないと…。
「あらー先生!」
おっと、来たよ。
「まあ、先生、今日は先生の外来に立ち寄れなくて」
「はあ、まあ、元気なら別に…。い、いや、まあ、最近お元気そうで」
「そうなんですよぉ。先生に手術していただいてからすっかり調子も良くなって」
「そりゃあよかった」
「先日もね、私のお友だちがお腹の調子がおかしいというものだから斗南にかかりなさいよってお勧めしたんですの。でも先生の外来にはかかれなかったというものだから」
「それはまずは内科で調子を診てもらわないとね。その、僕は外科、だから、どちらかというと手術と手術後の患者さん専門だから」
「ああ、そうでしたわね」
そう言いながら、やはりこの人も僕の胸元をちらちら見ている。
やはりこのネクタイ、何かまずかったかな。
「そ、それでは、ちょっと急いでいるので」
「あ、先生〜、またお邪魔いたしますわね〜」
ふう、やばいやばい。
よりによってやばい類の患者さんにかち合うとは。
悪い人ではないんだよね。こうやって僕の手術の腕もほめてくれて、手術後も嬉々としてかかってくれるんだからさ。
ただ、そう、話が長いからね。外来では僕についてくれている看護師が上手い具合に話を切ってくれるんだが、こういう場所ではそうもいかない。
患者は医者と話すのが大好きな人が多いから、大変だよ、まったく。

医局に一度向かおうとエレベータに乗ったら、そこにはまたあの生意気な後輩が乗っていた。
僕も先ほどの攻撃をかわしたところだったらか油断していた。
普通に乗り込んだところで他の看護師や事務たちも乗ってきた。ちなみにこれは業務用エレベータの小さいやつね。ろくに冷房も効かない裏方専用。しかも揺れがひどくて時々大丈夫かと心配になる代物。
看護師も事務も先に乗っていた生意気な後輩を見て一瞬足が止まっていた。
今日は別に不穏なオーラは出ていないはずなんだが。
「やだ、入江先生よ、ラッキー」
そんな小声が聞こえてきた。
どこがラッキーなんだ。何がラッキーなんだ。
こんな狭いエレベータでは本人に聞こえちゃうぞ。
看護師と事務はすぐにエレベータを降りていったが、結局は医局まで乗り付ける僕と後輩だけが残った。
「おまえがいるとまるで今日のラッキーアイテムって感じだな」
「…何ですか、それ」
お、珍しく返事来た。
「朝のテレビ番組とかで今日の占い、あなたのラッキーアイテムは緑のネクタイ、とかってやつ」
「…ああ」
そこでやつは少し笑った。
何を思い出したか僕にはわかったぞ。
琴子ちゃんだろ。琴子ちゃんが朝の番組見て今日のラッキーアイテムはこれよ!とかなんとか言ってるんだろ。図星だ、そうに違いない。
「だから、今日は緑のネクタイなんですか」
やつはさらに俺の胸元を見て笑った。
「違う!これは今ちょっと言ってみただけで、本当にラッキーアイテムなわけないだろ」
「それにしても」
「…何だよ、はっきり言えよ」
「そういう番組を見るんですね」
「違う、いつもじゃない。そんなもののんびり見ていたら遅刻するだろうが。たまたまだ、たまたま。女の子との話題作りのためだ」
「へー」
そう言ってやつはエレベータを降りた。僕もつられて降りた。
医局だと思っていたが、外科病棟のある階だった。
しまった、つられたよ。
仕方がないのでそのまま一緒に外科病棟に行くことにした。
外科のナースステーションに入ると、ひと際にぎやかしい声がした。
「あー!緑のネクタイ!」
何?僕?
おなじみ琴子ちゃんが突進してきて、僕のネクタイをつかんだ。
ぐえっ、締まる!
「こ、琴子ちゃん、息が…」
「これ!緑のネクタイ!」
「え、やだ、本当だ」
「先生ってさそり座だったんですか」
「どうでもいいから、手、手…放して」
やっとのことで手を放してくれた琴子ちゃんが言うには、今日のさそり座のラッキーアイテムが緑のネクタイ、だったんだと。
彼女たち曰く、緑のネクタイなんてもの、入江くんは持っていない。むしろそんなダサいネクタイ似合わない。緑のネクタイ持ってる人なんているの?などという話になっていたらしく。
…ああ、そうですか。
緑のネクタイはダメですか。
というか、それを意識して緑のネクタイをしてきたわけじゃないってのをわかってほしいな。
「いや、僕はさそり座じゃないよ」
「じゃあなんで緑のネクタイなんですか」
「偶然だよ、偶然」
曲がったネクタイを直しながら僕は一息ついた。
死ぬかと思ったよ。
「そうなんですか」
ひそひそひそと交わされる言葉に僕は彼女たちを見た。
「えーと、何かな」
「いえ、緑のネクタイがよくお似合いで」
「そうかな」
「ええ、そんなネクタイを着こなせるのは、斗南病院広しと言えど、先生だけです」
「はは、そうかな」
何だか若干言葉に引っかかりはあるが。
「ねえ、入江くんってば」
「お断りだ」
その裏で何やらいちゃこらと会話しているそこのバカップル!
「ほんのちょっと借りてみたら?」
「そんなもの何の根拠もない」
「そうかもしれないけどぉ」
どうやら、さそり座であるらしい生意気な後輩に、僕の緑のネクタイを借りて締めろということらしい。おいおい、持ち主の許可も取らずにかい?
その時だった。
「真里奈さ〜ん」
調子よく現れたのは、白衣の下にど派手なピンクのシャツを着た真面目な後輩だった。
何だ、そのセンスは。
いや、僕なら着こなせると思うけどね。
「何、船津先生、そのシャツ」
「ああ、これは今日のラッキーアイテムです」
「おまえもか!」
思わず僕が突っ込むと、彼は僕を見て言った。
「ああ、今日のさそり座のラッキーアイテムですね」
「いや、違う、僕はさそり座じゃなくて、しし座だ!」
「それにしても船津先生…そのシャツは…ないわぁ」
他のナースも口々に「ないない」とうなずく。
「今日のしし座はオムライスですよ」
「またオムライスかよ」
いや、そんなことより、何なんだよ、この占い。
「あら知らないんですか、今話題の朝のトップの星座占い」
いやいやいや、嫌がらせ的な何かを感じるよ。
そもそもどれもこれも身に着けるには微妙なアイテムばかりじゃないか。
オムライスはまだマシにしても。
絶対その占い、適当だよ。裏で本当にそんなアイテムを身に着けた奴を笑っているに違いない。
あっ!そう言えば今日視線を感じたのはこのネクタイのせいか!
事務のマキちゃんもきっと誤解したな。
「ちなみに、今日の占いで入江に会うと何かラッキーなこと、あるのかな」
そう聞いてみたら「えー?そんなのなかったと思います。入江先生に会えればそれだけでラッキーって気分になりますよね」だとさ。
何だよ、それ。
ちなみにバカップルはまだ僕の後ろで「ねえ、入江くんもラッキーの方がいいでしょ」「おまえといるだけで十分トラブルだらけなんだから、そんなもの効き目あるわけないだろ」「えー、そうかなぁ」だとさ。
これって新手のノロケ?
トラブルだらけでも一緒にいたいと?要は効き目があってもなくても関係ないと?
やつらの夫婦愛は僕には理解不能だね。けっ。

(2016/08/03)

To be continued.