ドクターNと好みのオムレット





外来業務も終わりに近づき、やっとカルテの一覧に終わりが見えてきた。
僕についてくれている看護師のショウコさんは先ほどの患者を誘導していった。
そんなときに「失礼します」と書類の束を抱えた事務のマキちゃんが入ってきた。
「これ、先生の分です」
彼女が差し出したのは、今月分の差し戻されたレセプトだ。あ、ちなみにマキちゃんはいつも僕のレセを担当することが多い。だから顔見知りなんだけどね。
もちろん僕は優秀なので、レセの数も少ない。
そのレセの間にクリップで止められた伝言があるのを見つけた。
僕は見事なウインクでもってマキちゃんに返して「ありがとう。この件については近日中に返事するよ」と言った。
何せ外科外来主任のショウコさんが戻ってきたからね。
マキちゃんは慌てず「ではお願いします。失礼いたしました」と一礼して去っていく。
僕はレセの束を自分の荷物の上に置くと、「さあ、次いこうか」とショウコさんに次の患者を呼び入れるように促した。
この辺はいまだアナログなんだよね。もちろんポンとボタンを押すと「123番の方、2番の診察室へお入りください」とかいう表示もアナウンスもあるんだけど、高齢の人だとなかなか慣れないらしくて、結局ショウコさんが呼びに行ったりるするんだ。
いろいろハイテクになる中、医療はまだまだ人対人だからね。最新治療技術とは別でまだまだアナログな部分が多いんじゃないかな。
外来は何事もなく終わり、紹介状なんかの仕事もついでに片付けると、僕はメモを見た。
ショウコさんは午前外来の片づけと午後の専門外来の準備に忙しい。
メモには、「二時までに食堂に来て」と書かれていた。
二時?!
二時と言えば十四時だよね、やっぱり。
僕は時計を見た。
今は十三時五十分。
やばい!
外来はいつも混みあっているから、十四時に終わらないことなんてしょっちゅうだが、医療事務の子と接触するには遅い時間だ。
今はレセの真っ最中だから、閉めた計算窓口の奥で居残りをする時期ではあるから、マキちゃんは何とか十四時という時間を設定したのだろう。
そう言いながらも僕は懸命に机を片付け、書類と荷物を片手に外来を飛び出した。
「ショウコ主任、何かあったら呼び出して。今は急ぐから」
「わかりました」
あらあらという感じでショウコさんに見送られると、最速で職員食堂に向かった。
途中のエレベータなんて、気が焦って足踏みしたくらいだ。
エレベータを下りてからもダッシュで食堂に向かうと、そこには一応二人の美女が待っていた。
「おっそ〜い!」
「やあ、ごめんごめん。診療が長引いちゃってね」
「そっか〜。仕方がないよね、先生外科のお医者様で忙しいから」
マキちゃん、ナイスフォロー!
「あたしたちも残念ながらあまり時間がないんだ。二時までっていう約束で遅番のお昼ご飯に来たから」
「本当にごめん。おごるから」
「いいよ。それはまた別の日にね」
確かに食堂の会計はトレーを持って通り抜けた時点で済んでいる。
「先日はどうも」
僕はしっかりともう一人に顔を見て挨拶をした。
「あ、はい、えーっと」
天然なのか?僕のことももう忘れているのか、本気なのかわからない仕草だ。
いいんだ、僕はこんなことではめげないから。
「先日、ここで一緒のテーブルで食事をした…オムライスの」
「…ああ!大変失礼いたしました」
「あら、もう知り合いだったのね」
「ええ」
マキちゃんの言葉に彼女はうなずいた。
「これも何かの縁ですね、よろしければお名前をうかがっても?」
「沢口です」
「…沢口さん。特別病棟を任されるなんて、仕事ができる人ってことですね。それにしては今まで見かけなかった気がするなぁ」
「あ、はい、わたし、派遣なんです。幸いにもこちらの病院に半年の予定で派遣されることになって。先生は医療事務の方まで把握をされてるんですねぇ」
これは嫌味なのかどうなのか。
いや、結構本当に感心しているようなので、どうやら天然で間違いないようだ。これが演技ならすごいよ。ま、もし演技でも騙されてあげるのも一興だけどね。
「医療事務さんとは、ほら、レセで会うしね。それに見かけたことのない人はやはりわかるよ。顔を覚えるのも仕事のうちだから」
そんなものは仕事のうちじゃなくても、いいんだよ。彼女が納得してくれれば。
でも実際一度会った患者の顔はなんとなく覚えているけどね。
「そうですか。優秀な先生とマキさんに聞いていましたけど、本当にさすがですね」
マキちゃんの顔は「今度いいものおごってね」と書いてある。うんうん、わかってるよ。
若い良さそうな医者を引き連れて、合コンでも何でもしてあげようじゃないか。
「あ、ごめんなさい。マキさん、そろそろ戻らないと」
「あ、そうね。ミカさん、来たばかりだしうるさいこと言われないようにしないと」
「すみません、お会いした早々に」
「いいや。今度医療事務の皆と飲み会をやるんだ。これ、僕の連絡先。君もぜひ参加してくれるとうれしいな。…僕が」
「え…。あ、はい」
戸惑いながらも名刺を彼女に渡すことに成功した。
今日はとりあえずこんなものだろう。
あとはまたマキちゃんのフォローを少し期待するとして。
「先生、頼みますよ、飲み会」
「任せておいてくれたまえ」
僕は胸を張って答えた。
二人は急いで食堂を去っていく。
医療事務の世界も女ばかりだもんな、結構大変なようだ。

それよりも、お昼だ、お昼。
そう思っていたら、そこに同じように外来業務が終わったのか、生意気な後輩がやってきた。
トレーを持って選んでいたら、隣に来て淡々と「カレーライス」と注文した。
「へー、おまえカレーライス好きなのか」
「単にすぐ用意できて食べられるものを選んだだけですが」
「あー、そう。サクラさん、Bセット!」
「サクラさん、いないよ〜!今日は休み」
「あーそうなの」
「それから、Bセットは売り切れ。今日のBメニューは人気だからこんな時間に来てもないよ、先生」
IDカードでピッと会計しながら、生意気な後輩はこちらをちらりと見た。
「…何だよ」
「何も」
本当に何も思っていないという顔か、それ。
「じゃあ、カレーライスでいいや」
「ごめん、カレーも今のでなくなったわ」
「えー、じゃあ何が残ってるの」
「そうねぇ、うどんかな」
「本当にそれだけしかないの」
「サクラさんがいればねぇ。作り置きも全部はけちゃったし」
サクラさん、何気にすごいな。
「まあいいや。じゃあ、うどんで」
「はいよ」
そうして出てきたうどんを会計して、いざ席に着こうと思うと、どこに座ろうか非常に迷った。
まさかこのガラ空きの中、わざわざあの生意気な後輩の真ん前に陣取って嫌味言われながら食事をするとか?
いやいや、そんなことしなくともどこでもいいじゃないか。
でも、何となく、そう何となく、だ。
あいつは心底嫌そうな顔をしてぼそりと言った。
「何でそこに?」
「ははは、どうだ、嫌なもんだろ」
開き直ってそう言ってやった。
僕は生意気な後輩と同じテーブルの真向かいに座ってやった。
でも僕は沢口ミカさんと知り合えたし、連絡先も手渡したので(連絡が来るかどうかは別問題だが)、いつもよりすこぶる機嫌がよかったのだ。
嫌味な後輩もものともしないほどに。
そして、いつも嫌がらせをされている身としては、ささやかなる嫌がらせ返しくらいしてやろうと思い至ったのだ。
「まあ、好きにしてください」
そう言うと、さっと立ち上がった。
「あれ?」
「お先に」
「え、もう食べたの」
「午後からは、小児科に行きますので、外科の方、お願いします」
「おいおい、上司に指図かよ」
「では、代わりに小児科に行ってくれますか」
「う、うーん、それは」
小児科なんて、あんなちっちゃい腕に針刺すんだぜ。
腕が無理なら指とかさ。
あー、無理。
技術的にはともかく、心理的に無理。
それをぶすぶす平気で刺しまくるあいつの神経の図太さ。
「では、外科はお願いします。早く食べないとのびますよ」
おっと、そうだった。今日はうどんだったんだ。
ずるずるとうどんをすすってみると、衝撃の事実が判明した。
つゆが、違う。
なんというか、前に食べた時の味と違う。
いつも同じ味を提供するのが食堂じゃないのか。
なんでだ。
もしやこれもサクラさんがいないからとか言う?
斗南の職員食堂って、サクラさんいなかったら維持できないんじゃ…。
もしや斗南を掌握しているのは、実はサクラさんだったりして?
いつも定番の味を提供できるのは、サクラさんのお陰なのか…!
そう言えばあのオムライスもうまかった。
カレーライスも何気にうまいし。
むしろAセットやBセットは割と普通なんだよね。
ということは、やはり斗南の味はサクラさんの味なのか…!
これはすごい発見なのでは?
サクラさんがやめたら斗南の職員食堂の味はどうなってしまうんだ。
そう言えばサクラさん、そろそろやめようかと言ったら、給料が上がったとかなんとか言ってたなぁ。
そうか、それもなんだか納得だぞ。
それにサクラさんと院長とか理事長とかよく談笑してるし、何気に仲良さそうだし。
裏を仕切ってるのは、サクラさんだったのか。
そうだったのか。
僕はうどんを何とか全部平らげると、意気揚々と外科病棟に向かった。
すごいぞ、サクラさん。
ビバ食堂のおばちゃん!
「ははは、知ってるか、桔梗君、食堂のサクラさんはだな」
「はい?来た途端にいきなり何ですか」
「実はすごい力の持ち主なんだよ」
「…はいはい、そういう話はまたにしてください」
「ちぇ、何だよ」
「あ、先生、入江先生は?」
横からひょいっと琴子ちゃんがのぞいた。
「小児科に行くってさ」
「なんだ、そっか〜」
「そうそう、琴子ちゃん、食堂のサクラさんがね」
「サクラさん?」
そうだよ、こういう反応が欲しいんだよ。さすが琴子ちゃん。
「…食堂のベテランのおばちゃんのことよ」
桔梗君の説明に手をポンと叩いて納得した。
「ああ!」
「ていうか、琴子、先生の話に付き合ってたら、仕事終わらないわよ」
「じゃあやめる」
き、桔梗君!君ってやつは…。
「えー、聞いてくれよ!」
そう言ったのに、琴子ちゃんは「さあ、仕事仕事」とすでに聞かないモードに入った。
「先生、みんな忙しいんですから、どうでもいい話をしてないで、先生も仕事片付けてください」
「ちょっとぐらい聞いてくれたっていいじゃないか!」
「何をですか?」
「それがさぁ〜」
って…振り向いたら、そこには手に腰を当てて僕をのぞき込んでいる清水主任がいた!
「いったいどんな話でしょうか。もちろん忙しい手を止めるんですから、もちろん患者さんのことですよね?」
「え、えーっと、それは…」
その眼力は目をそらすことを許さず、さあ言ってみろと言わんばかりだ。
い、一応僕医師なんだけどね…。
「食堂のおばちゃんの話だそうですよ」
こ、琴子ちゃん、余計なことを…!
「今、それ必要な話ですか」
清水主任は僕を見据えて言った。
「い、いえ」
僕は後ずさってそのままパソコンの前に。
「さ、さあってと、仕事、しよっかな〜」
IDを入力してポンとキーを打ったら、何故かエラー音が。
な、なに?また?
「…先生、何を?」
「ぼ、僕知らない」
「この忙しいときに何やってくれてるんですか!」
リーダーナースの言葉にもただ首を振るだけだ。
だって、本当に何もしてないんだもの。
「あら、何か文字が…」
清水主任の言葉にどれどれと皆でのぞき込むと…。

『婦女子に対する狼藉許し難し。
 制裁を受けるがよい。』

な、何だよ、これーーーー!
「いやー、先生、何やったんですか。ていうか、いつもやってるけど、今度はどんな恨みを買ったんですか」
リーダーナースが僕の襟首を引っ張る。
「失礼な!僕はいたってフェミニストだ!」
「でも実際に恨み買ってるじゃないですか!」
「よく考えてみろよ。女の子がこんな文章出すか!どう見たって他のやつの逆恨みっぽい文章だろ。なんだよ、狼藉って!許し難しなんて言葉今どきの女の子が使うもんか!」
「…それもそうですね。きっと琴子あたりだと狼藉なんて言葉も知らないですよ」
「あ、何かサイン?が?」
そう言った下の方に小さくあったのは。

『ダイジャー』

ダ、ダイジャー!
もうすっかり忘れていたけど、そんな組織あったな。
「いやー、な、何だろうな」
「あ、心当たりあるんだ」
「いや、ないないない!本当にない!というか、最近何もしてない」
「最近?」
「いや、ほんと」

「それよりも!どうにかして元に戻してもらってください、先生」

眉間のしわを深くした清水主任の一言で、その場はおさまった。
えーと、これをどうしろって?
もう一度試しにキーをポンと押すと、元の画面に戻った。
…が、僕のIDを入力すると、あの恨みつらみの画面に逆戻り。
使えないってこと?

仕方なく、僕は今回もシステム管理室に電話をすることになった。
システム管理室では大慌てだ。
だって、システムを書き換えるほどのサイバー攻撃ってことだもんね。
しかも僕にだけ攻撃って、いったい僕ダイジャーに何したのって感じ。
本人が自覚ないんだからどうしようもない。
裏では恐ろしい計画が動き始めていたことなど、僕はちーっとも知らなかったのだった。

(2016/08/13)


To be continued.