ドクターNと好みのオムレット





手首と足首に紐の後がまだ残る痛々しい姿は、手術衣の前では無力だ。
何せ両手足半袖なうえに七分丈のズボンだからね。
「先生、それ、随分な噂になってますわね」
そう言ったのは、気の毒そうな顔をしながらちょっと楽しげなオペ室主任のヨシエちゃんだ。
「ひどい噂だろう?」
「先生の場合、ひょっとしたら、と思わせるところがいけないんじゃありませんか?」
「どこからどう見たってノーマルにしか見えないだろ?」
「あら、オペ室の子の噂によれば、先生は随分なMじゃないかと」
「どこの誰が?!」
「さあ、誰でしたっけ」
そうとぼけたヨシエちゃんは、さっさと申し送りに行ってしまった。
これからオペなんだからさ、もっとテンション上がるような配慮をしてくれよ。
「Mなんですか」
ぼそりと眉を上げて言ったのは、言わずと知れた第一助手の生意気な後輩だ。
何でこういう話題には喰いつくんだよ!
「おまえなんかどっからどう見たってSだろ」
「琴子にあれだけいろいろされても我慢できるどころか、むしろないと物足りないんだから、Mでもありますよ」
「…ああ、そうかい」
珍しく饒舌だ。
こいつなりにオペのテンションってものがあるのかもしれないな。
でもおまえの性癖なんてこれっぽっちも知りたくなんてないんだけどっ。
あ、ちなみに今は念入りな手洗いの最中ね。手洗いの時って、目は手に集中してるんだけど、頭の中は結構空っぽなの。ひたすら手を動かして完璧で清潔な手を作りあげている。
手術に対する気負いってものはあるんだけど、ここまで来るとあとは術野見てからじゃないとどうにもなんないというか。
うーん、今日も完璧。
洗い終えると一種の満足感。
さあ、気合い入れて手術に向かうぞ、みたいな。
いや、その手首にまだうっすら紐の跡が残ってるんで、ちょっとなんだけど。
丁寧に手術衣を着て、後ろの紐を縛ってもらって、これまた手にぴったりとした手袋をはめて、こうカッと手術灯の明るい光が術野を照らしてる感じ。これこそが外科医としての正念場という感じだ。
第一助手よりさらに下っ端の研修医が丁寧に術野を消毒している。
僕がその場に立つときには準備万端になってる手筈だ。
執刀医の僕と第一助手の後輩と第二助手の研修医、直接看護師に既に患者をコントロールしている麻酔医、機械を定位置に直している間接介助の看護師と全員勢揃いしたら、ようやくオペが始まる。
この瞬間から、一応生意気だろうがそうでなかろうが、とりあえずは優秀だろう第一助手に感謝する。
言わなくてもさっさと術野広げていってくれるし、出血はすぐに見つけて止めるし、いやー便利便利。
まあそんなわけで今日もさくさくとオペは成功した。
オペ衣を脱ぎながらオペ室を出ると、既に時間は昼過ぎだ。
三時間ちょっとは、消化器外科の手術ならば結構普通だ。がんとは言え、転移もないし、まあまあきれいな術野だったしね。
これが癒着だのなんだのとあればどんどん時間が延びる。優秀な外科医と助手であっても仕方がない。
切り取った断端にがん組織がないかどうか病理医からの報告待ちもあるし。
いくら術前にこれくらいですと予定していたって、患者の容体が急変することだってあるし、術野によっては予定していた術式変更なんてこともあり得るんだから。
ともかく、今日は幸運だった。
患者さんにとっても医師にとってもね。
上機嫌で着替えて外科病棟に戻ると、噂が僕を追いかけてきた。
「先生、ちょっと失礼」
「あー、これね。でもこの程度じゃやっぱ監禁ってところよね」
パソコンに向かおうとした僕の腕をまくったのは桔梗君だ。
「おいおい、困るな。まさか君らまで僕が手足縛られて喜んでる類の人間だなんて思っていないよね」
「そういう噂にはなってますけど、私たちはそんなふうには思っていませんよ」
「そうだよね」
「ちょっといかれた女に手を出して監禁されたんじゃないかって噂はありますけど」
「おいおい」
「だって先生、一応これでも外科医だし(一応じゃなくても外科医だよ)、実はちょっとしたお坊ちゃまだし(まあ、私立医学部にやれるくらいの経済力のある家庭であったことは確かだ。でも親は別だと思ってるので自慢はしてない)、顔もまあまあだし(まあまあってなんだよ!)、案外お人よしなんじゃないかと思ってるし(お人よしなんじゃなくて優しいと言ってくれたまえ)、女の子にならほいほい後ついていきそうだし(否定はできないな)、ちょっとよよよと泣かれたら言いなりになりそうなんだもの」
…君たちの僕に対するイメージって、どんなヘタレなの。
これでも結構ワイルドをイメージしていたんだが。狙った獲物は逃がさない肉食獣ってね。
「だから、そんな女に騙されつつもつい縛られて動けなくされて監禁されそうになったんじゃないかってあたしたち思ってるんです」
「想像たくましいところ申し訳ないけども、それはだね」
ぴーっと音がした。
おい、何度目だ、このエラー音!
例のごとく、指示出しをしようとIDを入力したんだが。
「まさかっ」
そのまさかだった。
黒い画面に浮かび上がった文字は『何もしゃべるな。レンジャーとダイジャーに関しては知らぬ存ぜぬを通せ。自分の身がかわいいならば。なおこのメッセージは5秒で消える』だった。
なんてこった、またもやダイジャーかよ!
しかもあからさまな脅しだ!
「どうしたんですか!またエラーですか!」
エラー音を聞きつけて、清水主任が猛ダッシュをしてきた。
やばい、またエラーだとなれば、これはまずい。
「ど、どうしたんでしょうねぇ」
そう言いながらも心臓はバクバクだ。
先ほどまでのオペ成功の高揚感も吹っ飛んだ。
「あ、戻った」
どういう操作をしていたのか不明だが、画面は5秒後には元に戻った。
システムをいじるなんて、前にも思ったが、ダイジャー、怖いやつ。
いったいどんな奴らが担っているのか知らないが、少なくとも常に監視されているという危機感を持った。
清水主任はじろりと僕を見ただけで去っていった。
危なかった。
いや、本当に危ないのは僕!僕だよ!
ダイジャーに対抗するためには…。
そうだ!レンジャーしかないだろう。
開店休業状態のレンジャーだが(理由:レッドは不真面目、ピンクは妊娠中、ブルーの僕はその存在すら忘れていた、ブラックは元々嫌がっており、グリーンは本業に忙しい。イエロー?ああそう言えばどうしたんだっけ?)、久々に招集をかけるべきなんじゃないか?
そうと決まればレッドに…。
振り返ったら、やつがいた。
「先生、何か?」
「え、えーっと」
おい、怖いぞその顔。
「その、警告がね」
「誰にですか」
「えーっと、僕に、かな」
「誰からとは聞きませんが、その件につきましては後ほど対処するつもりですので先生は知らぬ存ぜぬでお願いします」
「し、知らぬ存ぜぬ?それは…レッドとして?」
「もう一度縛られて放置されたいですか?それとも人体実験に参加しますか?」
「どっちも嫌、かな〜」
「ではそのように」
「はい〜」
僕はまたクルリと向き返って、パソコンに向かって一心不乱に指示を打ち込み始めた。僕だってその気になれば指示の一つや二つ、猛スピードで打ち込めるんだよ。
生意気な後輩はそれっきり、そのことについては触れもしなかった。
時々怖いんだよ、あいつ、うん。
少なくとも、二度と不穏な画面は映し出されなくなった事だけは良かったと思う。
そんな僕の視界の隅にちゃりっと何かが動いた。
「あれ?何それ、琴子ちゃん」
「あ、聞いてくれますぅ?」
「う、うん」
な、なんだろう、何かまずいことでも触れちゃったかな。
琴子ちゃんは胸に差していたいたボールペンを抜き取って僕に見せた。
そのボールペンの先には、オムライスの小さなフィギアらしきものがぶら下がっている。
「これ、この間入江くんと行ったオムライスのお店でのくじで当たったんです」
「へぇ」
「それでね、入江くんが…」
それから正味一時間はその話が続こうかという勢いだったのだが、延々と琴子ちゃんの夫である生意気な後輩と行ったオムライス屋での出来事を約十分ほど聞かされた後に解放された。というより、ストップが入ったので助かった。
例によって清水主任からいつまで話してるんですかと横やりが入ったのだ。
これはあれだ、琴子ちゃんが初めて指輪をもらった時のような勢いだ。
どれだけ物を与えていないんだ、あいつは。
普通夫婦ならば、ましてや付き合いの長い相手なら、もっとこう思い出になるようなものの一つや二つあるだろうに。
ところが確か琴子ちゃんから聞いたあいつからもらったものと言えば、結婚指輪に誕生日の指輪にえーと、絆創膏に…とかいう間抜けっぷりだった。
絆創膏はないだろ。
うん、ないな。
せめてバッグの一つや二つ。
いや、せめて、イヤリングとかさ、口紅とか、何かこう身に着けるものの一つくらい。
絆創膏…どんな状況か聞いてないけど。
でもオムライスのフィギア付きのボールペンとはなかなか面白い。
ナースは何故か楽しみが少ないせいか文房具にはこだわってるんだよね。
例の白猫のキャラのとか、ねずみの王国ものとか、よく持ってるし。
小児科のナースなんてこれでもかとわんさか持ってる。
子どもたちがそれに気をとられてる間にササッと何か片付けるのも一つのテクニックなのかね。
でも、これも話題の一つだと思うと面白い。
では早速、と僕はマキちゃんに連絡を取ることにした。
メールでは、マキちゃんもあのオムライス屋に興味があったとの返事。もちろん彼女も誘ってくれよな、と念を押すのも忘れない。
リベンジだ、リベンジ。
これが最後の大勝負、とばかりに僕はオムライス屋に全てを賭けることにしたのだった。

(2016/09/02)


To be continued.