大きな花の下にて




その夜、あたしは本当に何ともないのかとびくびくしていたのだけど、夜にフルーツが届いてからしばらくきれいさっぱり忘れていた。
お腹いっぱい食べすぎて、おばさまに露天風呂入るかと聞かれたけど、とてもじゃないけどちょっと無理だと言ったら、明日の朝に入ればよいとのこと。
翌日はそのせいかすっかり早起きになってしまって、普段起きないのにと裕樹にまで言われた。
入江くんも起きてはいるみたいだけど、男子部屋から出てこないので、今のうちにと思って部屋に備え付けの露天風呂に入ることにした。
もちろん大浴場とは違って広々といった感じではないけど、常にお湯があふれていい感じ。
しかも朝の清々しい空気と一緒になって、リフレッシュできた感じ。
ぼーっと浸かっていたら、「琴子、早くしろよ、俺たちも入るんだから」と部屋の中から声がした。おばさまは「せっかくなんだからいいのよ」と言ってくれている。
もう、仕方がないなぁ。
それでも皆で入れる大浴場ではないので、順番というものはあるし、お湯から上がることにした。
その時だった。
何となく視線を感じて顔を横に向けたら、目が合った。
目、目が合う?!
露天風呂側には他の別棟がかぶらないようになっている作りで、旅館まで移動する小道も露天風呂側にはない、という話だった。
それが、板塀の隙間に目があったのだ。
その目はこちらを向いていて、お湯から上がろうとしたあたしと目が合った。
その事実にようやく気付いて、あたしは悲鳴を上げた。
「いやーーーーーー!」
やだやだやだ!
あたしはお湯の中にまたしゃがみ込んで、ただ板塀を見つめていた。
あたしと目が合った後、板塀の向こうの目はすぐになくなった。…と同時に人の気配も消えた。
部屋の中からはあたしの悲鳴に驚いたおばさまと入江くんが出てきた。
「琴子ちゃん!どうしたの!すごい悲鳴」
あたしはお湯の中だというのにガタガタ震えながら「目…目が…」としか言えなかった。
「目が、何だって?」
入江くんはさすがにまずいと思ったのか、あたしが投げてくれたバスタオルを巻いてからそう言った。もちろん露天風呂の脱衣所からこちらへは入ってきていない。
おばさまはあたしの近くにしゃがみ込んで「何かあったのね」と聞いてくれた。
「あの隙間に、目があったんです」
「ま!痴漢?!」
おばさまはすぐに板塀まで走り寄り、その隙間から向こう側を見ようと必死になったけど、「うーん、何も見えないわ」とつぶやいた。
痴漢?
あたしは痴漢だという発想がなかった。
なんだろう、こう、いやらしい感じじゃなくて、そう、もっと子どもっぽい感じの…。
そこでようやく震えが止まり、あたしは入江くんが投げてくれたバスタオルを巻いてお風呂から出ることにした。
長く浸かりすぎて少しふらふらになってしまったけど、おばさまに支えられて何とか露天風呂を出た。
少し休んだらよくなったので、着替えを済ませ、和室に戻るとそこでちょっと力尽きた。
おばさまにおでこを冷やしてもらい、ふーふー言いながら寝ていると、裕樹が寄ってきた。
先ほどあたしが上げた声は、見事に裕樹を怯えさせたようだ。
「何か虫でも出たのかよ」
恐々ながらもそう言って聞いてきたので、「…違う」と答えた。
「誰かが、のぞいてた」
「痴漢か?えー、琴子を?」
ちょっとだけ疑わしそうにそう言ったので、「それも違う気がする」とあたしは答えた。
どこからか戻ってきた入江くんが、あたしの言葉を聞いて眉を上げた。
「なんかね、大人の男の人じゃなくって…」
「はっ、そうだろうな!」
裕樹はそう言ってなぜか勝ち誇った。何で?
「子ども、だったような」
「子ども?いたずらかよ!」
まさか、これもいたずら?
額の裏のお札もいたずらなら、どうしてこんないたずらばかり?
「あら、しんしゅ…」
「おふくろ」
おばさまが何か言おうとしたら、入江くんがさえぎるように声をかけた。
何?何なの?
「新種?ママ、新種の何かがいたの?」
ぼく、捕まえなくっちゃ、と裕樹は何やら何かを捕まえる気になっている。
「また朝食の時にでも聞いてみましょう」
そう言って、おばさまは笑って話を切った。
あたしは朝食までの間、和室で目をつぶって休んでいることにしたのだった。

 * * *

露天風呂の方から悲鳴が聞こえた。
朝から迷惑な、と思うと同時に、何かあった(例えばクモが出たとかの類)にしてはあまりにも悲鳴が切羽詰っていた。
おふくろとほぼ同時に駆け出したが、風呂に入っているのは琴子。
さすがに脱衣所のところでちょっと足を止め、バスタオルを手に取った。
おふくろはそのままの勢いで露天風呂に駆け込んだ。
脱衣所からおふくろの方に向かってバスタオルを放ると、おふくろがすかさず琴子をバスタオルで包む。上半身は半ば風呂から出かかっていたから、そのまま突進していたら痴漢なのは間違いなく俺の方だ。
風呂に入っていたというのに身体は震えていて、いったい何があったのかまともにしゃべることすらできない。
仕方がないのでとりあえず風呂から出そうということになり、おふくろが琴子を支えて風呂から出した。
俺は琴子がつぶやいた「目が」と板塀に目を向けたのを見て、部屋を出て別棟の周りをぐるりと見て回ることにした。
出入口の所にはフロントや大浴場などのある本館への小道が続いているが、これはどこの別棟でも一緒で、本館を囲むようにして別棟が全部で六棟。敷地内にそれぞれ別の方を向いていて、それぞれの露天風呂自体が林や川の方に向いていて、簡単にのぞけるような感じではない。
もちろん従業員なら清掃のために別棟の周りを歩くこともあるだろうが、少なくとも今の状態では誰かが歩いた跡は見当たらなかった。
しかも琴子が「目が」よ言った場所は相当狭い。板塀の隙間も低い位置にあり、大の大人がのぞくには不便な場所だ。
痴漢で変態ならそんな不便だろうと狭かろうとものともしないのかもしれないが、そこでのぞいていたのなら、もう少し何か痕跡が残ってもおかしくないだろうと思われる。
一通り見回った後に戻ると、琴子は和室に寝かされていた。
気が抜けたのか湯あたりか。
「誰かが、のぞいてた」
その言葉だけなら、俺は誰もいなかったぞと言うつもりだった。
実際俺が見に行った時には誰もいなかった。もっとも、琴子が悲鳴を上げたのはそれよりもちょっと前なのだから、逃げていればいないだろう。
「痴漢か?えー、琴子を?」
裕樹がちょっとだけ疑わしそうにそう言ったが「それも違う気がする」と琴子が何とも言えない顔をして否定した。失礼ね!と声を上げるなら、もっとからかいの言葉も出ただろうに。
「なんかね、大人の男の人じゃなくって…」
「はっ、そうだろうな!」
裕樹の言葉になんとなく思い当たった。
「子ども、だったような」
「子ども?いたずらかよ!」
ああ、なるほど。
そこで思わずおふくろを見た。
「あら、しんしゅ…」
「おふくろ」
おふくろはこの場で昨日聞いたという神出鬼没の男の子の話とやらを披露するつもりだったらしい。
もしかしたらいたずら小僧なのかもしれないが、今ここでその話をしたら、またひと騒動だ。
既に早朝からばたばたと起こされて、とんでもない悲鳴で露天風呂に入り損ねていたのだから、そういう話は後でいいと思ったのだが、おふくろは俺を見返してはいはい、わかったわよといった感じで肩をすくめた。
こういうところは察しが良くて助かるが、時々とんでもないことを考える人だから、油断はできない。
琴子がおとなしく横になっているうちに朝食の時間になった。
琴子は気怠そうにもそもそと起きたにもかかわらず、座卓に和朝食が乗ると、先ほどまで寝ていたとは思えないくらい素早く座卓に張り付いた。
その食べ物への執着は何なんだ。
「わあ、日本食って感じですよね」
おまえは外人か。
家ではどちらかというと洋食の方が多い。というか、琴子がぎりぎりに起きることが多くて、和食だと間に合わないこともあるからだ。
朝から優雅に納豆をかき混ぜる時間もないって女としてどうなんだろうな。
琴子の言い訳は髪の毛を元に戻すのに時間がかかる、という話だ。元に戻すって、はねているところをドライヤーで直すだけだろ。不器用なだけじゃねーか。
並べ終わって早速いただきますとそれぞれ食べ始めると、先ほどの騒動はすっかり忘れて食べ進んでいる。
今日はどこへ行こうかという話も出た。
「ここに逗留していたという画家の作品が置いてある美術館もあるらしいのよ。行ってみる?」
「へー」
「ママ、琴子に美術なんてわからないよ」
「あたしだって好きな絵くらい見たりするわよ」
「じゃあ、誰か有名な画家の名前言ってみろよ」
「え?えーっと、あ、そうそうピカソ。口とか目とかてんでバラバラになってる絵の人よね」
「…有名すぎる。小学生でもわかるよ」
「あ、あとね、こんな顔書いた人」
そう言って頬に手を当てて口を開けた。
それはムンクの叫びだ。
そういうのしか記憶にないのか。
「ママの言ってるのは日本の画家だぞ」
「だって、有名な画家って言ったじゃない」
「そうよねぇ。でも琴子ちゃん、残念だけど、日本画家の記念館みたいなの」
「日本画ってあたしの知ってるの、富士山の絵とか、あと、こんな顔の人の古い絵くらいかな」
こんな顔と言って真似したのは、多分歌舞伎の見得だ。…東洲斎写楽か?確か昔夏休みの歴史の宿題にあったな。
ということは、富士山は葛飾北斎か。
おまえの絵の知識はとことん顔真似しかないのか。
「それから、こんなふうに顔がつぶれたような女の子の絵」
…岸田劉生の麗子像か。
顔当てクイズしてるんじゃねーぞ。
結局、おふくろの趣味でその画家の記念館に行くことになった。
仲居が来て朝食を片付けるときに、思い出したように琴子が言った。
「あの、今お客さんで男の子っていますか?」
「はい?ええっと、何かうるさかったですか」
「いえ、そういうわけでは」
実際うるさかったのは琴子だ。
「確か御一組男の子を連れた家族がいらっしゃいますが、まだ小さいですからね、泣いたりもあったかもしれませんね」
「あ…そうですか。いえ、本当にうるさくはないんです。ちょっと見かけたので」
「そうですか。今日は良い天気になりそうですが、山ですので急に雨が降ることもございますから、お気を付けくださいましね」
「はい」
仲居が出ていった後、琴子は首を傾げた。
小さいってどれくらいだろう、とつぶやいている。
少なくとも、琴子の思っている男の子と、おふくろの知っている男の子っていうのは、多分違うような気がする。
ただ、それで琴子の中では少し落ち着いたらしく、それ以上口にはしなかった。

(2016/07/27)


To be continued.