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おばさまに連れられて、画家の記念館に行ってみた。
それほど遠くもなく、この温泉地の売りの一つらしい。
その画家の絵は思ったよりもロマンチックな絵を描く人で、決してつまらないばかりじゃなかった。
美術館って、正直どこがいいとか悪いとかよくわからないし、歴史的背景がどうのこうのと言われてもさっぱりだし、面白いとか好きか嫌いかくらいでしか見ることができない。
おばさまはそれも一つの見方よと優しく言ってくれて、「ほら、これなんか今の時代でも広告に使えそうでしょ」とあたしが飽きないように説明してくれたりもした。
それでも複数見ていると、あ、この人はこの女の人のこと好きだったのかなとか、大切に思って描いたんだろうな、とか、これは生活のためにやむを得なかったとか?とかいろんな楽しみ方を覚えた。
隣にいる入江くんは、ただ黙って鑑賞していて、時折あたしとおばさまの会話がわずらわしいようだったけれど、隣にいる裕樹を気にして、一人でさっさと歩いて行ってしまうことはなかった。
夏休みシーズンなので、あたしたちのほかにも家族連れやカップルがいたりする。
それぞれ顔を寄せ合ったり、ささやきあったり、黙って見つめていたりとそれぞれの楽しみ方をしている。
あたしもいつか入江くんとこんなふうにして…。
そんなことを考えながら歩いていたら、おばさまが喫茶コーナーがあるから、少し休憩しましょうと誘ってくれた。
せっかく湯治に来たのに歩かせてごめんなさい、とあたしの足をずっと気遣ってくれた。
最初に痛めた時よりもずっと良くなっていて、もう腫れもないし痛みも少ないのだけどね。
入江くんと裕樹は少しその喫茶室の雰囲気に顔をしかめながらついてきた。
喫茶室もどちらかというと女性が好みそうな雰囲気だからかな。
それでも少し疲れたみたいだし、喫茶室ではフレッシュジュースとかコーヒーとかをそれぞれ頼んで休憩となった。
おばさまは今朝ののぞきに関しては宿にちゃんと問い合わせてくれて、ちゃんと後で見回っておきますという話だった。
そもそもあの別棟の辺りはほとんど宿泊客も歩き回らない場所で、掃除の従業員などが通るくらいなんだって。
でもあたしが見たのは事実なのだから、とおばさまは強く抗議してくれて、きちんと調べますと旅館の女将は言っていたらしい。
あたしはそれで少しほっとしたのだけど、当分は大浴場の方に行こうかなと思った。
お茶をした後はおばさまと二人でお土産を選んで、理美とじんこにそれぞれお菓子とかを買ってみた。
「ほんと、琴子ちゃんとこういうところに来ると、お土産を選ぶのも楽しいわ〜。お兄ちゃんたちたら、お友だちに何か買おうとかそういうの全くないんですもの」
入江くんがお土産…。
誰に…?
渡辺君…は今違う大学だから、松本姉とか?いや、そんなっ。
えーと、まさかの須藤さんとか。
んー、ないない。
あたしは知らない顔をして土産コーナーの外で待っている入江くんを見ると、つい笑ってしまった。
入江くんがお土産渡す姿なんて想像できない。
思わずぷっと吹き出すと、その吹き出した意味を知ってか知らずか、入江くんがあたしを軽くにらんだ。
だいたい入江くんって、誰かに何かを買ってあげるイメージ全然ない。
あたしの誕生日知ったって、きっと何にもくれない気がする。
「琴子、誕生日おめでとう。これ、プレゼント」
「そんな、いいのに」
「あまり高いものでないけど」
「そんなの気にしてないわ。入江くんがくれるだけで」
「そのうち、自分で稼ぐようになったらもっといいものを…」
「入江くん…」
「おい、行くぞ」
…現実の入江くんは、ただの仏頂面で、あたしに早く来いと促す。
「はぁい」
あたしはおとなしく返事をして、おばさまと裕樹がこちらを向いて待っているほうに歩き出した。入江くんはあたしに声をかけただけで、それ以上振り向かない。
でもいいの。
行くぞって言ってくれたってことは、置いていかないってことだもんね。
隣を歩きながら、入江くんの腕につかまって歩いた合宿の帰りを思い出した。
今つかまったら、振り払われるかな。それとも仕方がないってそのままにしてくれるかな。
勝手につかまるなって怒鳴るかな。
もう半ば癖になりかけているひょこひょこ歩きに顔をしかめられながら、あたしは一所懸命入江くんの隣を歩き続けた。
途中、地元料理を出す店で昼食を済ませて旅館へ戻ると、あたしはとある別棟の前にいる男の子を見つけた。偶然首を横に向けたらいたのだ。
五、六歳といったところかな。
あたしはその男の子を見てピンと来た。
きっとこの子だ、ってね。
あたしは急いで隣にいた入江くんに言った。
「入江くん、きっとあの子よ」
入江くんはあたしが袖を引っ張ったのにつられて、あたしが見た方向に首を回した。
「あ…」
男の子はすぐに別棟の陰に入ってしまって、入江くんが見たかどうかはわからなかった。
「見た?」
「子どもか」
「うん」
おばさまと裕樹は少し先を歩いているせいか、あたしが見た方向は見なかったみたい。
「あの子がのぞいてたとしたら、何となく納得。のぞかれてたとしてもあたしのダメージも少ないかな」
「どこかの変態よりはマシだろうな」
「でしょ!」
あたしの足がこれだから、走って追いかけて、見てみようって気にはならなかった。
ましてや入江くんが追いかけてくれるなんてこともなかった。
* * *
琴子の声に琴子が見ているほうに顔を向けた。
別棟の陰にさっと隠れた何かがいた。
いたのを見ただけで何かはよくわからなかった。背の低い何か。
強いて言えば子どもかもしれない。
「見た?」
そう聞かれたので「子どもか」と問い返した。
「うん」
琴子は納得しているようだ。
もしあの板塀の後ろからのぞいていたとしたら、子どもなら可能だろう。しかも男の子なら、ああいう隙間に入るは冒険気分で入ることもあるかもしれない。
まあ、どこかのおっさんが露天風呂のぞきに来ていたと考えるよりはずっと自然で現実味もある。おまけに、いくら男の子としてもおっさんよりはマシだろう。
そのまま追いかけることもしなかったが、追いかけて捕まえたところで何になる。
のぞいただろうって?
そんなことを子どもに責めても仕方がないだろう。
部屋に戻ると、さすがに琴子は足が疲れたのかさすっている。
もう一度露天風呂と行きたいところだろうが、ちらちら見るだけでさすがに躊躇している。
「汗かいたから露天風呂入ってくる」
そう言えば、琴子は「えっ」と振り向いた。
「お兄ちゃん、僕も入る」
琴子と違って、のぞかれてもどうってことはない。本当にのぞかれていたらそりゃ気分はあまりよくないが。
大浴場とはまた違って、手軽に入れるところが露天風呂付きの部屋のいいところだ。
それが入れないとなるともったいない。
二人ぐらいは余裕の大きさで、裕樹も随分と気持ちよさそうに入っている。
琴子がのぞかれていたという板塀に向かって入ってみるが、さすがにもう一度のぞこうという誰かはいない。もっとも、野郎の身体を見ても仕方がないのかもしれないが。
さっぱりして出ると、琴子がそわそわしていた。
気になって仕方がないのだろう。
おふくろはそれを察したように「琴子ちゃん、一緒に入りましょう」と誘っている。
「大丈夫よ。きっとどこかのいたずら小僧がちょっとのぞいていただけよ」
「そ、そうですよね」
そう言って琴子はちらりと俺を見た。
「誰ものぞかねーよ、おまえとおふくろなんて」
少しだけむっとして「そうよね!」と風呂の準備を始めた。
躊躇していたくせに、入るとなるとかなりのんびりと入っていて、あっという間に夕食になりそうだった。
「ふー、ふやけちゃった」
そう言って先に出てきた琴子に裕樹がすかさず言い返す。
「本当だ、しわくちゃばばあだな」
「そこまでじゃないわよ!」
ところが後から出てきたおふくろがにんまりと笑って言った。
「誰がしわくちゃばばあですって?」
「マ…ママのことじゃないよ!」
裕樹が慌てて首を振った。
「あら、じゃあ誰のことかしらねぇ」
「それは…」
さすがの裕樹もここで琴子だと大きな声では言えないようだ。
その時、外で誰かの話し声がした。
「まあ、ひろむくん、こんな方まで。ここは今お客様がいらっしゃるので邪魔しちゃいけません」
思わず別棟の戸口の方を見た。もちろん戸口どころか部屋の出入口も閉まっていて見えるわけではない。
それでも思わず見てしまうのは、その誰かが話している相手が男の子だと思われるからだ。
琴子もそれを聞きつけたのか、俺の顔を見た後、急に立ち上がって戸口へ走り出した。
間髪入れずに戸口を開け放し、自分の目で男の子を確認したのか「入江くん!ほら、あの子よ、きっと!」と大声を出した。
…バカだ。
むしろその小学生だか小学生以下だかわからない子ども並だ。
裕樹ですら呆れて琴子の所業を口を開けて見ていた。
おふくろは、さすがに動じない様子であらまあと笑っていた。
夕食前にお茶セットを交換しようとやってきた仲居の話では、あの男の子はこの旅館の経営者の孫、ということだった。
当然住まいも旅館の隣にあり、旅館の敷地内をまるで自分の庭のようにして歩いているので、時々宿泊者にも注意されるのだそうだ。
しかし、そこはまだいたずら盛りの男の子。注意されようがばれなきゃいいというので、変わらずにあちこちを歩き回っているらしい。
琴子が見たのもどうやらこの男の子だったようだ。
それをさりげなく言うと、仲居のせいではないが深々と頭を下げてお詫びを言った。
お人よしの琴子はそれだけで「いいんです」と気にしていないと手を振った。
つまり、おふくろが聞いてきた神出鬼没の男の子というのは、この経営者の孫だったわけだ。
確かにすばしっこさはかなりのもので、琴子があの子だと叫んだ時には既にその場を逃げ出していた。
仲居からでは注意で済むが、これが経営者の娘、つまり女将であり男の子の母親にばれてしまうとこっぴどく叱られるのは目に見えている。
女将は言わなかったが、部屋のお札のようなものももしかしたら同じいたずらの類かもしれない。
やれやれとため息をついたところで二日目の夕食がやってきた。
琴子は朝の謎が解けてすっきりした顔をして並べられる夕食を眺めている。
同じように裕樹がほっとした顔をしているのを俺は苦笑しながら見ていた。
(2016/08/03)
To be continued.