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夜は大浴場に行くことにして、あたしはおばさまより先に別棟を出た。
入江くんは暗い中すっ転ぶなよと言われ、裕樹にはまさかこの距離でどうにかなるわけないだろうとバカにされた。
小道には点々と灯りがついている。真っ暗ではないからあたしでも大丈夫。
小道を歩き出したところで男の子に会った。
こちらの別棟をじっと見ていたので、どうやらあたしたちが泊まっているあの別棟付近はこの子の遊び場になっているのかもしれない。
「こんばんは」
そう声をかけたら、少し驚いたようにあたしの顔を見た。
「…こんばんは」
「いつもここで遊んでいるの?」
「…そうだけど、いつもじゃない」
「そっか」
あたしはそれだけ言ってじゃあねと手を振りつつ大浴場に行くことにした。
時間が経っているのでいると思っていなかった男の子が、まだそこにいた。
「まだ戻ってないの?もう夜も遅いから、戻った方がいいんじゃないかな」
あたしは思わずそう言った。
いくら敷地内とは言え、小学生が外でうろうろするにはそろそろ遅すぎる。
「おねえさんは、ここにとまってるの?」
「うん」
「あの、あさの…」
「あ、ああ」
あたしはなんとなく言いたいことがわかってちょっと目をそらした。子どもとは言え、のぞかれたんだった。
「ごめんなさい。おふろ、入ってるところのぞくつもりじゃなかったんだ。いつもはあさ、おとがしないから」
「いいよ。わざとじゃなかったんだね」
「女の人だとおもわなかったから。もうのぞかない」
「うん。その方がいいね。ここに泊まる人はみんなお客さんだもんね。ちかんが出たなんて言われたら、お母さんたちもきっと困るよ」
「うん」
なかなか素直じゃないと思ったところで、あたしはそう言えば、と思った。
「ねえ、ひろしくんだっけ」
「…ひろむだよ」
「ああ、ごめん、ごめん。ここの旅館の子なんだよね」
「うん。でもないしょにして。お母さんにまたおこられる」
「うん、言わないよ。ねえ、部屋の中って入ったことあるの?」
「…あるよ。お客さんのいないとき」
「そうか。それなら、かけてある絵の裏に何か貼ったりした?」
「ううん、ぼくじゃない」
「あ、そっか。それなら、いいんだ」
「だれかがはった」
「誰かって?」
「しらない」
「琴子」
呼ばれて振り向くと、入江くんが立っていた。
「いつまでもしゃべってんなよ」
「ああ、うん。ちょっと、気になって。それより、この子…」
そう言って男の子を振り返ると、男の子は逃げるようにして一目散に駆けていった。
入江くんが怖いのかな。
だって、今だって眉間にしわ寄せて怖そうだもんね。
「俺も風呂行ってくるから、裕樹が起きたら先に行ってると伝えてくれ。今寝てるんだ」
「うん、わかった」
入江くんが行ってしまうと、あたしはちょっとだけ先ほどの男の子が気になったけど、もう見えなくなってしまっていたので、そのまま部屋に戻ることにした。
扉を開けて中に入ろうとすると、部屋のテーブルの陰で誰かが座っていた。
裕樹かと思って声をかけた。
「裕樹くん」
その人影は振り向かなかった。
「あれ?」
あたしが首を傾げて瞬きをした瞬間に、その人影はなくなっていた。
テーブルの陰か何かを見間違えちゃったかな。
そのまま部屋の中に入って隣の部屋を開けると、裕樹が大の字になって寝ていた。
「ああ、いた」
あたしは少しほっとして、なんとなく揺り起こしてしまった。
「裕樹くん、裕樹ってば」
「う、うーん」
裕樹は目をこすって「なんだよ、うるさいな」とつぶやいた。
「あのね、あのね」
「何だよ」
そこまで言っておきながら、あたしは何て言っていいかわからなかった。
まさかテーブルの影と人影間違えちゃった〜とか?
そんなこと言ったらバカにされるだけだわね。
「えーと、入江くんが先に風呂行ってるって」
「起こしてくれればよかったのに」
「…ついて行ってあげようか?」
「一人で行ける!」
裕樹が顔を真っ赤にして怒った。
「ついて行ってあげてもいいわよ」
「おまえこそ一人でいるの怖いんだろ」
「えっ、まっさか〜」
そう答えながら、あたしは心のどこかで一人になるのが怖かったのだ。
「そう言いながら、本当は怖いんだろ」
「こ、怖く、ない、わよ」
あたしの様子に不審を感じた裕樹があたしの顔をうかがうようにして言った。
「…何だよ、何かあるのか」
「…何にもない、わよ、多分」
「多分って、何だよ多分って!」
「多分は多分よ!あたしだってわかんないんだから」
逆切れってわかってるけど、そうでもないと何となく落ち着かなかった。
「ぼ、僕は行くからな、風呂に」
ちょっとだけ語尾が震えている裕樹にほら自分だって怖いんじゃない、とのどまで出かかった。
「いいわよ、行けば」
正直、ちょっとだけ一緒に行こうか、と思ってしまった。
でもおばさまもすぐに帰ってくるだろうし、入江くんだってそんなに長湯はしない、よね?
その時、窓の外でガタンと音がした。
「ひっ」
あたしと裕樹は思わず二人で寄り添った。
「な、なに、今の」
「ただの音だろ」
その音が問題なんじゃない!
「み、見てくる?」
「誰がだよ」
思わずお互いを指さした。
「何で僕なんだよ!」
「だって男の子でしょ」
「おまえの方が年上だろ」
無理!むりむりむり!
「わかった」
裕樹は立ち上がった。
あ、割と素直に行ってくれる?
「僕は風呂に行ってくる!」
…と思ったら逃げるつもりね!
「あ、ちょっと、ずるい!」
お風呂のセットをつかんで裕樹が扉の方へ向かおうとする。窓とは反対の方向だ。
思わず引き留めようと裕樹にしがみついた。
裕樹が足にしがみつかれてそのままどてっと転んだ。
「置いてくつもり?!」
「やめろ!放せ!」
いいえ、放さないわよ!
もがく裕樹の足にしがみついていたら、後ろの窓がゆっくりと開いた。
二人して開いていく窓を見つめる羽目になった。
* * *
風呂に行こうと裕樹を揺すったが、なかなか起きない。
あちこち連れまわされたから、疲れたんだろう。
少し寝かせておくことにして、先に風呂に行ってくるかと思ったが、一人で置いておくのもかわいそうな気がして、おふくろか琴子が戻ってくるのを待つことにした。
おふくろは多分遅いだろうな、という気はしていた。
マッサージだの何だのと張り切っているからな。
琴子はさっさと戻ってこればいいものを、何をぐずぐずしているんだか。
もちろんあいつも女だから、髪の毛だの何だとの風呂は長い方だ。
しかし長すぎる、と思ったら、表の方で声がした。
どうやらとっくに戻ってきたにもかかわらず、小道で誰かと話しているようだ。
これ幸いと風呂の用意を持って外に出ると、やはり琴子は男の子と話していた。
これがどうやら仲居が言っていた旅館の子で、外から戻ってきたときにいた男の子らしい。
しかし、俺の顔を見ると一目散に逃げていきやがった。
「入江くんの顔、ちょっと怖いもんね」
そう琴子がつぶやいて一人で笑ってやがる。
おまえに怒ってんだよ!
裕樹のことを頼んでさっさと風呂に行くことにして、その場を離れた。
部屋の露天風呂もいいが、どちらかというと大浴場の方がゆったりとして落ち着く。というか人が少ない。
やはり部屋にある露天風呂を使わない手はないのだろう。家族でも一緒に入ってゆっくりできるだろうし。ましてやカップルなんてそのためにこういうところ予約するんだろうし。
ひと風呂浴びて戻ってくると、何故か小道から見える板塀の一部が外れているように見えた。いや、外れているのではなく、扉になっていて、そこの鍵が開けられてぷらぷらと揺れているのだ。
普段はぴっちり閉じられているだろうそこは、外からはよく見ないとわからない作りだ。
子どもがいたずらでもしたのか、本当に痴漢でもいるのか。
しかもその板塀の内側に見たような額が落ちていた。
裏を見ると確かにお札みたいなものが貼ってあり、最初にかけられていた額だとわかる。
いったい誰がこんなところに?
女将が回収したんじゃなかったか。
それともやはりあの子どもが?
それを拾って板塀の扉から庭に入った。
そこには奥に露天風呂が見える。もちろんダイレクトに見えるわけではないが、のぞこうと思えばここから出入りも可能なのだろう。いや、多分掃除のためなんだろうが。
一応板塀の扉を苦労して閉めて気が付いた。
ここは内鍵だ。
内側からじゃないと開かない仕組みだった。
掃除のためとはいえ、外から出入りできるのはやはり問題なのだろう。
しかも部屋の中から何か言い争う声が聞こえる。
「いやー、置いていかないで!」という琴子の声と「放せー!」という裕樹の悲鳴のような声がした。
…本当にまた何やってんだ、あの二人は。
姉弟喧嘩のような声が響き、そのまま庭から部屋に入ると、二人は蒼白な顔をしてこちらを見た。
琴子など、あの日見たような見開いた目で今にも倒れんばかりの様子だ。
裕樹はすでに琴子にしがみつかれてズボンまで脱げそうな勢いで倒れている。
「何やってんだ、おまえら」
俺の顔を見た途端、二人は魂の抜けたような顔で脱力した。
琴子はそのままぱったりと倒れ込んだ。
そのまま倒れていてくれればよかったのに、目敏く俺の手にあるものを見つけた。
「それ、そ、それ」
「ああ、これ?お札付き額」
そう言いながら額を振ると、「何でそれが!」と琴子が後ずさりをした。
面白いので、そのまま額を琴子の方に振ると、どんどん後ずさりする。そのまま同じようにどんどん前に出るとさらに後ずさるので、とうとう琴子は壁際に追い詰められた格好になった。
「い、い、い、入江くん、どこにあったの、それ」
「…庭の入口」
「…庭?」
琴子は一瞬ぽかんと口を開けて俺を見た。
無防備すぎる顔はとことん間抜けだ。
「お兄ちゃん、どうやって庭から入れたの?」
琴子を追い詰めていて忘れていた。
後ろから裕樹が今気づいたというように言った。
名探偵なら、ここでいいところに気が付いた、とでも言うのだろう。でもそんな気分ではなかった。誰かが、あの扉を開けたのだから。
「庭を囲む板塀に扉があったの知ってるか?」
二人は顔をぶんぶんと横に振った。
そうだろうな。そうでなければあれほど庭から俺が現れる前に怯えるはずがない。
「開いてたんだ、扉が。俺はそこから入ってきた」
「じゃあ、さっきの男の子かも」
琴子がこれで解決とばかりに勢い込んで言った。
「扉は内鍵だ」
「え、じゃあ、中から誰かが開けたってこと?」
「もしくは最初から外れていた、ってことだ」
「じゃあ、やっぱり誰かがいたずらで…」
「そうかもしれないが、この額は誰がいつ置いた?」
「えーっと、さっき?」
「まあ、そんなとこかもしれない。ひろむくんとやらはさっきまであの辺にいたからな。しかも女将の子どもだから、額を持ち出すこともできるかもしれない」
琴子はほっと息をついた。
「この額にどんな意味があるんだ?何でここに持ち出した?最初から板塀の内鍵は開いていたのか?」
俺はそう独り言を言っていたらしい。
琴子が困ったように眉根を寄せていた。
「どちらにしても俺たちは午前中、全員で出かけていたわけだし、その間に仲居がシーツやなんかを取り換えに来てる。その間にあの子が来ていてもおかしくはない。むしろ遊び場にしていたならなおさらだ。俺たちは知らないが、ここで働いている者なんかはあの板塀に内鍵がついていることを知っているだろう」
それでも額の謎はまた別だろうが。
「そう言えば、裕樹、おまえたち何やってたんだ」
「えっ」
「何かあったのか」
「こ、琴子が!琴子が何かあるって言うから、ちょ、ちょっと怖くなって…。そうしたら庭で音がしたから、もう風呂に行こうとしてたのに、琴子が置いていくなってうるさくって、行かせないようにしがみついてきたんだ」
「だだだだって、何だかちょっと怖かったんだもん。誰かいたような気がしたし。
そう、音よ。音がしたから急に怖くなったのよ。まさか入江くんがそんなところから入ってくるとは思わなかったんだもん」
…音。
「バッカだ〜。お兄ちゃんが入ってくる音に驚いて」
「裕樹だって同じでしょ!」
正直言えば、俺は音を立てていない。
しかも、その音を聞いていないのでわからないが、俺が来る前に子どもはいなかった。
俺があの小道をやってきて、誰もいないとすれば、その音は何がたてた音だろう。
扉の開いた音、とか?
いや、扉は開いていたんだ。
額が置かれた音?
まさか。額はもう、置かれていた。他に誰もいなかった。
じゃあ、何が?
「お兄ちゃん、風呂行ってくるね。もう一人でも大丈夫」
「…ああ」
裕樹がズボンを上げつつ出入口の方から風呂へ行ってしまうと、部屋には琴子と二人残されることに。
「えーっと、入江くん、お茶!そう、お茶入れようか」
急に二人であることを意識した琴子が不自然にはしゃいでお茶を入れだした。
いらないと言おうとしたが、琴子が手にしたのはお茶っぱの方ではなく、ティーバッグの方だったので、そのまま放置した。
「琴子、音って、どんな音だった?」
「え?だって、入江くんが」
「いいから、どんな音を聞いたんだ」
「…ガタンって、何かが当たる音みたいな」
「ふうん」
「何、何かあるの?」
「別に」
「だって…あつっ」
「バカっ、早く冷やして来い」
琴子はよそ見をしてお湯をこぼした。
少し手の甲にかかったらしく、俺は慌てて洗面所に引っ張っていった。
「入江くん、音がどうかしたの?」
洗面所で流す水の音を一緒に琴子の声が響いた。
「別に、何も」
今は、何も。
そのままぼんやりとおふくろが戻ってくるまで琴子の手を冷やし続けていた。
(2016/08/11)
To be continued.