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入江くんが何か隠しているようで少し不安だった。
額は結局その日は返しようがなくて、でも部屋に置くのは躊躇われて、玄関先の下駄箱の上にそっと置かれた。
お風呂から戻ってきた裕樹はさっぱりしたらしく、あまりそれには触れずにさっさと部屋で寝てしまった。疲れていたのもあるのかも。
入江くんはしばらく本を片手に起きていたようだけど、あたしはなかなか眠れなかった。
隣でおばさまはよく眠っている。
入江くんと裕樹は、間の部屋を挟んで向こうの部屋だから、あたしはそっと起きてみた。
水でも飲んで少し落ち着こうかなと。
もちろんさっきはすごく怖がってしまったけど、真相はやっぱりススキの何とかだったりするのよね。
あたし用に真ん中の部屋は薄く豆電球がつけられている。トイレとかに起きたりするときににもつけておけばいいわよとおばさまが言ってくれたからだ。
もちろんそんなに夜中にトイレに起きることなんてない。たいていは朝までぐっすりだもの。
でも今日は最初から眠れなかった。
おばさまに悪いから、ふすまをゆっくり音のないように開けて出ると、ふすまをしっかりと閉めた。
庭の方からは虫の声が聞こえる。
日差しは暑いけど、お盆も過ぎてすでに季節は秋に向かっているみたい。
備え付けの冷蔵庫から水を出すと、あたしはペットボトルのまま飲んだ。
冷たい水はすっとあたしの体にしみわたるようだった。
足の具合はかなりいい。
もともと少しひねっただけで、捻挫といってもあまりひどくはない。
もちろんサポーターくらいはしてあるけど、それも夏休みが終わるころには必要なさそうだ。
あたしは足を痛めてテニス部はお休みしてるけど、他の皆はまた明日から秋の大会に向けて練習をするのだろう。
入江くんは…聞くだけ無駄だわね。
だって、結局お休みしていようが、練習に出ようが、部内で一番強いみたいだし。一所懸命練習してる人にしてみたら、それってどうなのって感じだけど。
そんなふうにぼんやりしていたら、隣のふすまがいきなり開いた。
あたしはびっくりして悲鳴を上げるところだった。
入江くんはまずいという顔をして、あたしの口をとっさにふさいだ。
大きな入江くんの手があたしの口に当たっている。それだけで少しドキドキだよ。
「悲鳴上げるな。皆起きる」
短くそう言われて、あたしは暗い中入江くんの乱れた髪を見つめていた。
「わかったな?」
聞いていないと思ったのか、入江くんは念を押してあたしを見た。
慌ててうなずくと、入江くんは疑わしそうにあたしの口からゆっくりと手を放した。
びっくりした。
まさか起きてくるとは思わなったから。
入江くんは無言で冷蔵庫を開けて、ちっと舌打ちした。
座卓の上にあたしが置いた水のペットボトルを見つけると、「最後の一本か」とふたを開けてあたしが抗議する間もなく飲んでしまった。
飲みかけだったのに。
…あたしが口をつけたのに。
入江くんも口をつけて…これって間接キッス?!
でも入江くんは気づいていない?
あたしは薄暗い豆電球の下で更に心臓をドキドキさせていた。
きっと顔も赤いだろうけど、暗いから見えないよね。
そのペットボトルはまたふたをされて座卓置かれた。
もう中身残ってない?
あたしは暗闇に弱い自分の目でなんとか見ようとしたけど、よく見えなかった。
「飲めば」
「えっ」
「そんなに飲みたいなら飲めば?飲めるもんなら」
あたしに入江くんの目の前で、これに口をつけて飲めって言ってるの?
それ、気づいていないの?それとも気付いてる?
からかってるの?それともあたしがまだのど乾いてるって思ってる?
どっちなの?
「早く寝れば?」
あ、ああああああ!
悩んでいる間に入江くんはあっさりまたお布団に戻っていこうとしている。
「だ、だって!いろいろ気になって眠れなかったんだもの」
入江くんがどういう表情をしているのか、暗くていまいちよくわかんないけど、ふーんといった感じであたしを見下ろしているに違いない。
「何か不思議なことがあっても別に自分に害がなければいいんじゃない」
「そ、そういうものかな」
「あと一日とか二日で帰るんだし」
「へ?そうなの?」
「嫌なら明日にでも帰れば」
「お父さんとかおじさまとかを待つのかと思ってた」
そっかー。そう思えば、別に怖がる必要ないか。
「ありがとう、入江くん」
あたしは少し気持ちが落ち着いて、今度は寝られそうだった。
「あたしも寝ようっと」
もそもそとあたしはおばさまが寝ている部屋をそっと開けて、「おやすみ、入江くん」と小さく言って、布団に戻ることにした。
「おやすみ」
微かにそう聞こえた声はちょっと入江くんにしては優しい感じがしたけど、あたしは振り向きもせず布団に潜った。
* * *
裕樹は隣でよく眠っている。昼寝をした割には寝られてよかったというところか。
昼間のことを考えながらうつらうつらしていたせいか、隣の部屋からなんだかごそごそと音がしていた。
…琴子か。
鳥目なくせして、夜中に起きること多いよな、あいつ。
暗いからと確か豆電球をつけているはずだが、それでもあいつには見にくいだろう。
どうにも気になって起き上がると、襖を開けて部屋を出た。
…途端に悲鳴を上げそうな気配がしたので、慌てて琴子の口をふさいだ。
どうしてこいつはこうも落ち着きがないんだ。
騒ぐなと言っているのに、ぼんやりして聞いていない。
眠いならさっさと寝ろよ。
悲鳴を上げて騒がないことを念押ししてからようやく手を放した。
水でも飲むかと冷蔵庫を開けたが、水が入っていない。
元々一本しか入っていなかったのかもしれないが、今から買いにいくほど喉も乾いていないし、かと言ってわざわざ水道の水を飲むほどでもない。
座卓を見ると、水のペットボトルが置いてあった。
おまえかよ!
腹立たしくて、そのペットボトルの水をこれ見よがしに飲んでやった。少しだけ残して。
案の定、琴子は水が残っているかどうかこの薄暗い中ではよく見えなかったらしい。ちょうどラベルの所に重なっているせいもあるが。
目を細めて何とか見ようとしているが、首を傾げているところを見るとわからなかったんだろう。
しかも何だかやたらとうきうきしている。この夜中にテンション高いやつ。
そこでようやくああそうか、と気づいた。
琴子が飲んだペットボトルに俺が口をつけたから、間接キスとかなんとか考えているんだろう。
腹立たしさで一気に飲んだ水の冷たさに気をとられ、そこまで考えていなかった。
今琴子は、残った水を飲もうかどうしようかと考えているのかもしれない。
…一度はキスをした。
それと比べれば、ペットボトルの回し飲みなどたいしたことではないはずだ。
琴子は悩んだ挙句、飲まないだろう。
飲めばと促せば、そんな!と驚く。
飲めるもんなら飲めばいい。
ここでずっと悩んでるつもりか?
「早く寝れば?」
隣でごそごそされると、俺が寝られないんだよ。
琴子はいろいろ気になって眠れないと訴える。
嘘つけ。
気が付くとこういうやつほど先に寝るんだ。
どうせここにずっと住むわけでもなし、嫌なら明日でも帰ればいいんだし。
俺の言葉でちょっとふっきれたのか、琴子はもう寝ると布団に戻っていった。
単純なやつ。
琴子がごそごそと布団に戻った後、俺はなんとなく座卓のペットボトルの水を再び飲んだ。
ペットボトルを握ったその手は、先ほどのぬくもりを程よく冷やした。
一口二口飲んだところで何だかバカバカしくなり、少し残して座卓に置いた。
隣の襖から、寝息が聞こえ始めた。
悩むまでもない。
琴子はそういうやつだ。
俺も布団に戻ることにした。
何度か寝がえりをした後、俺もいつの間にか眠っていた。
朝起きると、座卓の上にあったはずのペットボトルがなかった。
もうおふくろが片付けたかと思ったが、まだこちらの部屋に出てきていない。
ちなみに琴子は昨日の夜のことが響いているのかまだ起きてこない。
裕樹は今俺と同じく起きてきた。
座卓の上には、ペットボトルのふただけが残されていたのだった。
(2016/08/18)
To be continued.