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おそばを食べ終わって店を出ると、正直閑散としていた街並みに人が大勢いた。
今日の夜の花火大会のためだろう。
浴衣を着た女の子たちもいる。
あたしはそれを横目で見ながら思った。
いつか、あんなふうにして入江くんの横を歩けたらいいなって。
おばさまに願えば、もしかしたら速攻で浴衣を用意してくれたりするのかもしれないけど、それはさすがに図々しくて頼めない。
来年はお父さんに頼んでみようかな。
あ、でも来年の誕生日を過ぎたらもう成人式のお祝いになっちゃう。
着物も着てみたいし、そこまではあたしだってねだれない。
浴衣は、またにしようっと。
「あら、琴子ちゃん、浴衣、着てみたい?」
「あ、いえ。いいなとは思うんだけど、あれ着ると歩くの大変かなっと思って。ここって結構でこぼこがあって、段差とかつまずきそうで」
「琴子なら間違いなくつまずくよね」
「あたしだってわかってるわよ」
悔しいけど、裕樹の言葉には一理ある。おとなしく上手に歩くことができるのかどうかなんてわかんない。
あ、でも入江くんの浴衣姿、見てみたいな。
入江くんなら、何着ても似合うだろうなぁ。
「来年は、浴衣、用意しましょうね、琴子ちゃん用のものを。もし着たいなら、もしかしたら旅館にあるかも?何なら、今からでもお店に行って買っても…」
「あ、いいです、おばさま。もったいないですし」
「わたしとしたことが、花火大会忘れていたから、浴衣を用意するのも忘れちゃって」
「本当にいいですから」
「琴子ちゃんの足が治ってきて良かったけど、この道はさすがに心配だったのよね」
「琴子なんて何もなくたって転ぶから一緒だよ」
おばさまは、浴衣を持ってくるのを忘れたとしきりに気にしていた。
では入江家にあたしの浴衣が置いてあるのかと言えば、ない。
あの家がつぶれた騒動で持ち出せたのもわずかだったし、ましてやお母さんが持っていたかもしれない、しまっていたかもしれない浴衣なんて、あったかどうかもわからない。
それに、お父さんも適当だから、お母さんの浴衣をちゃんと保存している、なんてことはなかったと思う。
それに、あの頃のお母さんが浴衣を買えるほどの家計だったのかどうかも怪しいし。
秋田から…もっとないだろうな。
そんなことを考えていたので、宿に戻ってから突然女将が浴衣を持って現れたのにはびっくりした。
どうやらおばさまがやはり浴衣をレンタルできるところはないかと聞いたら、旅館にあった浴衣を貸してくれることになったらしい。
特に今日は花火大会だし、そういうサービスは任せてください、と。
そういうわけで、あたしはおばさまの手によって浴衣を着せてもらっていたりする。
持ってきてくれた柄は、白地に淡いピンクのなでしこ柄と青地に朝顔柄の二つだ。
両方ともかわいくて、どちらにしようか迷った。
おばさまと二人で考えて、青地や紺地は今後歳を重ねるにつれて着るようになるだろうからって、白地のものにした。
白地といっても薄紫色とピンク色が混ざったような風合いで、濃いピンクと紫のなでしこ柄がかわいい。
ただ、あたしが着ると少し幼い感じもするけど、大丈夫かな。
「まあああ、琴子ちゃん、かわいらしいわ」
おばさまはいつだって絶賛してくれるけど、裕樹は一目見て「…近所の子どもが着てるみたいな柄だな」とか言うの。自分だって小学生のくせに。
「あたし、やっぱり…」
「何言ってるの。この良さがわからないお子ちゃまは放っておきなさいな」
入江くんと目が合った。
「どうかな、入江くん」
「…さあ、馬子にも衣裳でいいんじゃない」
「それってほめてるの?」
「あら、いつもなら無視するお兄ちゃんにしたら最大限に褒めてるのかもね」
ふーんだ、素直にほめてよね。
「ところで花火大会、いい場所があるからって、女将さんが言ってくださったの」
「じゃあ、よく見えるところに行くんですね」
「ええ、楽しみね」
おばさまの言う通り、花火大会の始まる頃になると仲居さんがこちらへどうぞと連れ出してくれた。
旅館の裏手に進んでいくのを見て、何となくわかった。
ひまわり畑のほうかな。
その道は少しだけ登りのあぜ道を通るから、あたしは慣れない下駄で苦労した。ひまわり畑に下りるには、更にその登り道の反対側から下りることになる。
浴衣を汚さないように、と思うように足が出ない。
もたもたしているうちに一発目の花火がどーんと打ちあがったようだった。
後ろを歩いていたはずの入江くんがいつの間にか前にいて、舌打ちしながらもあたしに手を差し伸べて、手を引っ張ってくれた。
「あ、ありがとう」
ずっとこの登り道が続いたら、ずっと手を引いてくれたのかなと思ったけど、登り道はほんの一瞬なので、ひまわり畑の上にはすぐに着いてしまった。
暗闇が苦手なあたしは、それ以上移動することは出来なくて、頭上の花火と下に広がっているひまわりが見えるくらいだ。
今夜は花火が見えるけど、いつもは真っ暗だという。
皆は暗闇に慣れてきたみたいだけど、あたしは鳥目なせいかよく見えないのだ。
夜に見ると、それはまた同じ向きに無数の顔があるようで、どこかの花畑のようにライトアップがなければ不思議な光景だ。
「おねえさん」
いつの間にかひろむくんがいた。
* * *
蕎麦屋を出ると浴衣姿が増え、季節もいよいよ終わりを告げる花火大会の様相を呈してきた。
お盆の頃ではなく、何故今頃なのかは知らないが、観光客は大喜びだ。
夏の初めにとお盆の頃には別の行事があるから、観光客向けといっても過言ではないだろう。
突然琴子の浴衣を思いついたらしいおふくろは、何故用意しなかったんだと後悔していたのもつかの間、早速旅館に聞いて手配してきた。切り替えが早いのも手回しが早いのもおふくろの得意技だ。
二種類の模様のうち、琴子が選んだのは薄い色に濃いピンクの模様で、それはそれで琴子らしい。
「…近所の子どもが着てるみたいな柄だな」
裕樹の言葉にそれだ、と思いついて笑えた。
もちろん帯は子どもが一般的に着けるような兵児帯ではないので、思ったよりも違って見える。
おずおずとどうかと聞いてくるので、「…さあ、馬子にも衣裳でいいんじゃない」と適当に答えたら、おふくろともどもいい方に解釈したらしい。
また街に戻って花火大会とか屋台とかそういうものに歩き回るのかと思うと、琴子の足の湯治はどうしたと聞きたくなる。ここに来ても結構歩き回っていたから、家にいた方が実は治りが早かったんじゃないかと思う。
時間前になると仲居がやってきて、外でよければ見やすい場所を提供するとのことだった。
歩き回るよりは、と異存はないから案内に従って歩き始めると、そこは昼間に訪れたひまわり畑の上だった。
琴子も半ば予想していたと見えるが、ひまわり畑には下りずに上のところで見るらしい。まあ、下に下りてしまうとひまわりで花火が見えなくなるのは当たり前だからな。
前を歩いていた琴子が、皆が次々に抜かしていってしまっても、まだぐずぐずと登り坂を歩いている。
慣れない浴衣と下駄で、しかも足を痛めていたことを考えると確かにきついかもしれない。
すぐに抜かして前に立つと、登るのに必死で気づかない。
仕方なく手を出してやると、ようやく手をつかんだので、引っ張り上げることにした。
ほんの短い登りだったのだが、それでこんなに苦労するとは、どれだけ鈍いんだ。
ぐずぐずしている間に一発目の花火が上がった。
東京のように何万発も上がるわけではないようなので、次々上がるわけではないし、長い時間上がるわけではないのだろう。ゆっくりと花火が上がっていく。
琴子は登り終わっても、暗闇の中で身動きもしない。
多分鳥目のせいで足元もほとんど見えていないのだろう。動いて転ばれても困るので、その方がいいかもしれない。
そのうち皆が揃ったのか、旅館から花火を見ている人たちに、と冷たいお茶が提供された。
それを受取ろうとしていると、「おねえさん」と旅館の子どもがやってきた。
琴子は下をじっと見てから「ひろむくん」と応えた。
「おねえさん、め、わるいの?」
「う、うん。ちょっと鳥目でね」
「とりめってなに」
「鳥さんのように夜になると目が見えにくくなるんだよ」
「ふーん。でもふくろうはよるにもみえるよね」
「そ、そうだね」
そうだねと言いつつ、琴子の頭の中ではそうだっけ?と疑問符が渦巻いているのが見えるようだ。
「昼間は、誰を追いかけていったの?」
そう言えば、子どもは誰かを追いかけて行ってしまったと言っていた。
「かこちゃん」
「その子が毎年来る女の子?」
子どもはうなずいたらしいが、琴子にはよく見えなかったらしい。
「かこちゃんってどんな子?」
子どもは首を傾げている。
「…ぼくよりちょっとちいさいおんなのこ」
それじゃ特徴にもなってない。
「それで、会えたの?」
首を振っている。…が、気配で察したのか、琴子は「そっか」と応えた。
花火の種類まで詳しくは知らないが、小規模の割にはなかなか悪くない。
「ひまわり、かこちゃんがすきなんだって」
「え?」
「おじいちゃんがいっていた」
「だから植えてるんだ」
琴子は子どもと話しているせいか、花火を見ていないに等しい。子どもの目線に合わせるために下を向いて屈みこんでいるからだ。そこまでしないと花火の音で会話しにくいのもある。
「琴子ちゃん。どう?」
裕樹がおふくろとやってきた。
裕樹が屋台を見てみたいと珍しく言ったので、それなら、とおふくろは喜々として裕樹を連れて通りの方に出ていったのだ。
「あ、おばさま」
裕樹は「ひまわり畑、昼に見たらすごいだろうね」と感心している。実際に昼に見た身としては、確かに壮観だったと言える。
「で、お兄ちゃんとどうだった?」
「え、そんな、何もないです」
これだけ周りに大勢人がいて、どうにかなるわけないだろ!
そもそもどうにかなる要素がどこにあるんだ。
「お兄ちゃん、これ食べる?」
そう言って裕樹がかき氷を差し出した。
「ああ、ありがとう」
裕樹もかき氷を手にしていたので、二人してかき氷をつついた。
「あの子、ママが言ってた男の子?」
琴子の隣にいる子どもを見て言った。
「ああ。この旅館の子どもだそうだ」
「そうなんだ。僕、女の子かと思った」
「何でだ」
「女の子みたいな子、見たから」
「ふうん」
実は俺も見た、と言えば話は早いんだろうが、裕樹はその話はあまり興味がないのか話したくないのか、かき氷を食べながら花火を見上げている。
「あ、ずるい、かき氷」
裕樹を見て琴子が言う。
「そう思うんなら自分で買ってこれば?」
裕樹の言葉に琴子が声を曇らせた。
「え…無理」
そうだろうな。
この暗い道を引き返して、また自分で坂を登るなんて芸当は、琴子にはできないだろう。「…やる」
そう言うと、手に持っていたかき氷を手渡した。
「え、でも」
「まだ食ってない。つついただけ」
「…いいの?」
裕樹はこちらをちらりと見た。やっぱりな、という顔だ。
かき氷は嫌いではないが、多分裕樹は俺が琴子に譲るのを予想していた気がする。
「せっかく裕樹にもらったのに、そんなに恨みがましい顔されたらおちおち食ってられない」
「そんな、恨みがましいなんて」
「悪いな、裕樹」
「いいよ、お兄ちゃん。琴子の食い意地を計算してなかった僕が悪いんだから」
そう言うと、裕樹は自分の分のかき氷を頬張る。
俺からかき氷を受け取った琴子は、うれしそうに食べ始めた。
「ふふ、ラッキー。冷たくておいしい」
「あら、琴子ちゃんにはこっちかと思ってタコ焼き、買ってきたんだけど」
「あ、それも食べます」
夕食も食ってるくせに、どんだけ食べるんだよ。
「あ、ひろむくん、一口食べる?」
「え、いいよ」
「遠慮しないで、ほら」
そう言って山盛りのかき氷をすくう。
「はい、あーん」
遠慮がちに逃げ腰だったが、子どもは琴子の言葉につられて口を開けている。
琴子はその口に決して上手とは言えない放り込み方をした。
「づめっ」
冷たいと言いたかったのだろうが、鳥目も相まって琴子の放り込み方が雑だったので、変なところに入ったのか、気の毒に子どもは少しむせていた。
「ああ、ごめん、ごめん」
いい加減にもほどがある。
ドンと鳴った花火に皆が上を向いたとき、何故か俺は横を向いていた。
ひろむという子どもの向こうにもう一人、子どもを見たからだ。
俺の視線を感じたのか、ひろむという子どもも振り向いた。
「あ…」
ひろむという子どもはそう言って琴子のそばを離れた。
「え?ひろむくん?」
花火を見ている客たちの間をすり抜けていく子どもの後を、あろうことか琴子が追いかけた。
「バカか」
花火の明かりしかないこの場所で、それは無謀だ。
「お兄ちゃん?」
裕樹の声を背に、俺は琴子の後を追いかけたのだった。
(2016/09/11)
To be continued.