結婚狂想曲



3.夜想曲〜ノクターン


ごく普通のデート。
待ち合わせをして、コンサートを鑑賞して、食事に行く。
コンサートはクラシック。
食事はレストランで、最後はきちんと送り届ける。
相手はお嬢様。
たとえ同じコースでも、一緒に家を出て、コンサートで寝てしまうだろうあいつ。
レストランに行こうとして失敗し、あきれながら家に帰る。

俺は沙穂子さんの前で思わず吹き出した。
彼女は不思議そうに聞く。
…こんな風にまた思い出すこともあるんだろうか。

彼女を家に送り届けて帰ると、かなり遅くなった。
彼女の家で引き止められたからだ。
もちろん上がりこんでお邪魔するようなことはなかったが。
彼女の両親は海外に行きがちで、それで余計に大泉会長がかわいがっているのだという。
デートの初日だというのに、おふくろはすごい形相で待っていた。
息子のデートにいちいち文句を付けるおふくろも、相手が琴子なら全く違うことを言うのだろう。
俺が一番忘れなければならないのに、いつも比べている。

日曜におやじが退院することになり、退院祝いのパーティをするという。
俺はその場に沙穂子さんを呼ぶことに決めた。
こうなったら徹底的に結婚までの道を固めて、後戻りできなくなるようにすればいい。
いつか笑って話せるように、早めに思い出に変えてしまえばいい。


 * * *


土曜日の朝、起きると琴子はいなかった。
デートだと言う。
どうせ金之助とか辺りとなんだろう。
裕樹が焼いてくれたトーストを食べながら、ぼんやりと考える。
俺が結婚したら、あいつはどうするだろう。
あいつも当たり前のようにデートして、結婚したりするのだろうか。
ああ、今、デートに行ってるんだっけ。

「お兄ちゃんってば」

しばらく呼んでいる裕樹にも気づかなかった。

「ああ、悪い」
「僕、コーヒー入れるの無理だから、どうする?牛乳でいい?」
「いいよ、それで」

いつもコーヒーだけは琴子が入れていたっけ。
今はおやじもいないし、俺は寝ていたから、今日は準備がしていないらしい。
沙穂子さんは料理が得意らしいから、朝から殻入りのスクランブルエッグなんて食べさせられることはないだろう。

「ねえ、お兄ちゃん。琴子がいないと静かだね」
「…そうだな」

裕樹の言葉に答えながら、新聞を広げる。
平和な日常。
静かな部屋。
望んでいたものが手に入るというのに、どうしてだろう、あまりうれしくないのは。


会社の書類を見るのにも疲れた頃、もう一度時計を見た。
おふくろと裕樹はまだ病院から帰ってこない。
琴子もまだ帰っていなかった。
まるで保護者のように皆の帰りを気にしていても仕方がない。
俺は風呂に入ることにした。
風呂に入っている間に能天気な声が聞こえてきた。
俺は風呂から出て、さりげなさを装う。
琴子は上機嫌に歌まで歌って、お茶漬けを作っている。
…よく食べるやつ。
ついでに声をかけた。
デートしていたことをちょっとからかってやったら、なぜか慌てている。

「今夜は帰ってこねーのかと思ってたよ」
「なっ!そ、そんなんじゃあな…」

そのときだった。
琴子は急須のお茶をひっくり返した。
なんてドジなやつだ。

「きゃ!!あっつ…」
「琴子!!」

バカなやつ、本当にバカなやつ…。
俺は琴子を抱えて風呂場に走る。
琴子は急須のお茶を足に引っかけたのだ。
今まさに沸騰したてのお湯。熱いはずだ。
味噌がどうとかバカなことを口走っている。
あまりごちゃごちゃとうるさいので、思わず叫ぶ。

「黙ってろ、おまえは!医者になるはずだった人間が言ってんだ」

やっと静かになった。
そのまま風呂場でやけどした足に水をかけ続ける。
俺が入ったばかりの風呂場は、まだ湯気に満ちていた。
パジャマがぬれたが、気にしていられなかった。
しばらく水で冷やしたら、やけどした足はうっすらと赤みが残る程度になった。
同時に俺の頭も少しずつ冷えてくる。
琴子の顔も見ずにずっと目を伏せていた。
風呂場に二人きり。
…だめだ。
こんなに触れるほど近くにいたら、何を口走るかわかったものじゃない。
琴子が小さくお礼を言うのが聞こえた。
冷えてきたはずの頭が、またくらくらするのを感じる。
自分の意思を超えて、身体が動く前に、もう一度頭を冷やしてしまおう。
ふと琴子の足を見てつぶやいた。

「太え足」

俺の言葉に失礼なとでも言いたげな琴子だったが、その引きつった顔さえまともに見られなかった。

「ほら、もう、いいだろ」

水を止めて俺は立ち上がった。

「入江くんまでぬらしちゃったね」
「ちっ、また着替えるか」

足を拭いて、二階への階段を上る。

「着替えたら薬塗ってやるよ」
「えっ、いいよ」

琴子は慌てて断る。

「おまえ自分でうまく手当てできるのか」
「…そ、そう言われると…」
「味噌なんて塗るんじゃないだろうな」

俺の言葉にしばしの無言。
もしかしたら半分本気でやるつもりだったのかもしれない。
琴子は少し戸惑った後、
「…お願いします」
と素直に言った。
俺は自分の部屋で着替えている間に、ようやくいつもの冷静さが戻ってくるのを感じた。
琴子も服を着替えて下りてきてから、やけどの処置についてしつこいくらい忠告しながら薬を塗ってやった。
琴子は今度は文句言わずにハイ、ハイと聞いている。
こいつのことだ。話の半分くらいは忘れるかもしれないが、今度は味噌を塗るような真似だけはしないだろう。
俺はそれで満足して、おふくろと裕樹の帰りも待たずに寝ることにした。


(2006/07/31)


To be continued.