Lost memory




「えー、琴子が浮気?!」
「まっさか〜」
「でも、入江先生まだ神戸でしょ」
「琴子に限って〜」
「だけど、ほら、外来で運命の出会いとか」
「ああ、あれ?」
「そうそう、例のMRとね」
「ちょ、ちょっと待ったーーーー!!」

その言葉を耳にした桔梗幹は、その噂をしている同僚の間に分けて入った。

「ちょっと、その噂、どの辺まで回ってるの」
「どの辺って、病院中?」

幹は昼頃から病院中でささやかれていた噂はこれだったのだとようやく悟った。
見ようによってはそう見えなくもないMRとの噂。
能天気に患者と話をしている琴子を横目に、幹はため息をついた。

こりゃあ当分この噂でもちきりね。

「あ、モトちゃあん!」

駆け寄ってきた琴子は、カタカタと血圧計を手に戻ってきた。

「高田さんたらおかしいの。なんだかね、入江先生には内緒にしてあげるよって。この間点滴失敗したことかなぁ」
「はぁ…」

患者にまで…。

幹は頭を振る。

「お、琴子ちゃん。なんだよ、どうせならあんなぼんくらじゃなくって、僕にしておけばいいのに」
「…西垣先生?」
「入江に飽きたんならいつでも言ってくれよ。琴子ちゃんの予定はいつでも空けてあるからね」
「飽きません!もう、西垣先生ってば懲りないわよね〜」

西垣医師はすれ違う看護師全てに声をかけながら、陽気に去って行った。

「琴子…」
「なぁに?」
「落ち着いてよく聞いてちょうだい」
「うん、落ち着いてるわよ」
「あんた、あのMR君と浮気したことになってるのよ」
「浮き輪?」
「浮気よ、浮気!!」

その幹の剣幕に、通りがかった女性患者たちがひそひそと噂する。

「ほらぁ、やっぱり」
「あんないい先生を差し置いて…」

幹と二人して、通り過ぎた女性患者をぎょっとして振り返る。

「な、なんであたしがっ」

つかみかからんばかりに興奮する琴子を止め、幹はちょっとだけ面白そうにつぶやいた。

「あら、でも、こんな噂、入江さんが聞いたらどうするかしら」
「え…、入江くんが…?」
「そうよ、入江さんでも慌てたりするのかしらね」
「む、無理だと思う」
「…どうして?」
「啓太のときで懲りたし」
「…ああ、あったわね、そんなこと」
「あれで入江くん怒るとすっごく怖いし」
「まあ、琴子が浮気っていう時点で、すでにありえないと笑われるだろうけど」

どちらにしても、最近これといった話題がないので、案外この噂は面白おかしく吹聴され、長引くことになるかもしれないと幹は思った。

「入江さんには…」

琴子はぶんぶんと勢いよく顔を振った。

「…言えないわよねぇ」

少し青ざめた琴子の顔を見ていたら、逆におかしくなってきた。

「でも、あのMR君も今頃噂されて懲りてるんじゃないかしら」

…と、このとき幹もそんな風に軽く考えていた。


 * * *


噂の一端を請け負っているMRの日比野智志は、他のMRから奇異の目で見られていた。

まさか、こいつが?!

いつも弱々しい仕草でびくびくしながら廊下を歩いていて、医局で出会ってもしまったという顔しか思いつかない。
他社ならともかく、自社の別のMRにさえも出し抜かれる間抜けな男。
そういう印象だった。
その男があの入江医師の奥さんと不倫?!

…ありえない。

しかし、噂はすでに病院中を駆け巡っている。
いや、だからこそ不倫がばれないように、今までビクビクしていたのだろうか。

それにしても、よりによってあの入江夫人と?!

そんな感じの視線は痛いほど降り注いでいるというのに、当の本人はそんなことにちっとも気づいていなかった。
公に噂するやつなどいないからである。

「こんにちは〜、マイザーの日比野です」

医局に医師がいるのは昼休みか時間外と決まっているが、時々息抜きに戻っている医師も何名かいる。
そういう時は他社のライバルも少なくて、医師ものんびりしてるから割と話しかけやすい。
おまけにそういう医師は結構地位の高いものが多い。
若い医師は今頃外来に手術に回診にと忙しい頃合だ。
それに上のほうの医師でなければ薬に決定権はないのだから、これ幸いというべきだろう。

というわけで、MRの日比野は、医局にただひとり残っていた医師を無事に捕まえることができた。

「あ、西垣先生、マイザーの日比野です。先日お話した当社の新製品はいかがでしょうか」
「んん?日比野?」

ちょっとした隙にサボりに来ていた西垣医師だったが、マイザーの日比野と聞いて思わず振り返った。
コーヒーを片手に面白そうに日比野を見返す。

「ああ、やっぱり君か。いやー、入江の奥方と不倫とは、君もなかなかやるね〜。結構彼女は入江一筋だったはずなんだが、いったいどうやって落としたのか僕にも教えてほしいね」

日比野は西垣医師の話をさっぱり理解できなかった。

「…えーと、あの、失礼ですが、不倫とは…?」
「なに、ここだけの話にしておいてあげるよ」
「ちなみに、どなたとどなたが?」
「またまたぁ、そうすっとぼけなくても結構噂になってるよ、君」
「は、はあ?」
「で、琴子ちゃんとはどこまでいったの?」
「あの、琴子ちゃん、とは、もしや入江先生の…?」
「あれ?知らないで不倫してたの。そうか、それもまたいいのかもしれないなぁ、うん」
「ふ、ふ、ふ、ふ…」
「ところで、琴子ちゃんはどうなの」
「不倫、ですってー?!」
「え?今さら何を」
「ぼ、僕が、ですかっ?!」
「そうじゃないの?」
「し、し、し、し、してませんよっ、ふ、ふ、不倫なんてっ」
「あ〜?違うの?ああ、そう?ふーん、やっぱりね。琴子ちゃんは落とせなかったか〜」
「い、いり、入江先生の奥さんとはそんな関係じゃ…!」
「いや〜、おかしいとは思ったんだよ。僕が落とせないのに、君がだなんてね〜」
「め、滅相もありませんっ」
「ああ、そう。ふ〜ん、そうか〜、それはそれは」
「ええ、違います」
「…いいことを聞いた」
「は?」
「いや、何、心配しなくてもいいんだよ。うまくいったら、マイザーの製品の一つや二つ」
「はあ、ありがとうございます」
「じゃっ!」

…と手を挙げて、西垣医師は先ほどから白衣のポケットの中でブルブルと震えていた電話に手を伸ばして歩いて行ってしまった。

なんだったんだろう。

一人取り残された日比野は、静かになった医局の中で渡しそびれたパンフレットを手に、先ほどの西垣医師との会話を反芻してみた。

えーと、僕が、入江夫人と不倫…?

何がなんだかわからないが、どうやら世間ではそういうことになっているらしい。

なんで?!どうして?!いったい、何が原因で?!

全て自分の行動のせいだとは、このときの日比野には思いつかなかった。
そして、西垣医師のちょっとしたイタズラ心が、またもやとんでもない噂となって駆け巡るのをこのときの日比野はまだ知らなかった。


(2008/05/06)


To be continued.