Lost memory
4
呆然としたまま医局を出たMRの日比野智志は、何気なしに外科の病棟まで来ていた。
うわああ、ぼ、僕は、また、こんなところに!
いくらなんでも不倫は言いすぎだが、実際に入江夫人に会っていたのでなんとなく後ろめたい。
おまけにまたもや外科の病棟にまで来てしまった。
入江夫人にご迷惑をかけては…と、日比野はそのまま病棟から回れ右して逃げ出した。
その様子をあれ?という感じで桔梗幹が見ていたが、回りに琴子の姿がないのを見てまたもや首をかしげた。
そしてなんだかわからない寒気を感じる。
あらヤダ、なんだかもっと面倒なことが起こりそう〜。
首をすくめて急いでナースステーションへと戻った。
* * *
神戸で忙しい合間に、ふと先日までの騒動を思い返していた。
今はいない人影を思わず探していた。
自販機からコーヒーを取り出しながら、医局へと向かった。
本当はもう少し残るつもりだったが、この分だと予定より早く帰ることになるかもしれない。
実際には予定よりすでに滞在が伸びていて、元の斗南大病院にも迷惑をかけていることだろう。
神戸の病院から非常に珍しい症例を紹介され、その手術と術後治療をぜひこの目で見てから帰りたかったのだ。
そして神戸の病院からはその症例と引き換えに滞在を伸ばすように要請されたという裏事情もある。
幸い斗南大病院のほうは、ぜひ見学して帰ってくるようにとお墨付きをもらった。
結果的に直樹が持ち帰ってくる研修内容は、多ければ多いほど斗南大病院のためにもなるのだ。
琴子はそんな事情を把握しきれずにいたが、滞在が伸びて一緒に帰れないということだけが強く不満だった。
もちろん一緒に帰れればよかったというのが本音だが、そんなことはおくびにも出さずに帰してしまった。
今頃は…。
時計を見てふと微笑む。
前もこうやってよく思い出していた。
神戸での一年間はお互いにとってかけがえのない存在だとわかった。
初めてこの自分が仕事か、琴子か、迷った瞬間だった。
医局でコーヒーを飲み干して立ち上がったとき、携帯電話が震えた。
院内専用のPHSは白衣の中だが振動はなく、直樹自身の携帯がカバンの中で振動していた。
メール?西垣から?
怪しく光るディスプレイの文字は西垣医師からの着信を知らせていた。
なんとなくそのままにしておこうかと一瞬思ったが、何か斗南大病院でのことかと思うと無視するわけにもいかず、仕方なしにメールを開いて読むことにした。
『琴子ちゃんが冴えないMRと浮気してるぞ。あのタイプには母性本能くすぐられるんじゃないのか〜?』
メールを読んで、やっぱり開くんじゃなかったという思いがこみ上げてきた。
…MRというのは昨日の話か?
直樹は昨日の留守電メッセージを思い出していた。
歯切れの悪いメッセージは、確かに少しおかしいと感じていた。
だからと言って浮気を疑えるものはない。
きっとからかうために西垣が送ってよこしたのだろう。
そういう結論に理性では落ち着いたが、頭の別の場所では違うことを考えていた。
つまり、浮気と噂になるような何かがそのMRとあったということだ。
空になった缶を投げつけるようにゴミ箱に放り込んで、直樹は足早に医局を出て行った。
数人いた医局員は、その様子にしばらく瞬きもできなかった。
しかもその後の鬼気迫る仕事ぶりに誰もが恐れをなして、今日は早めに帰りたいと申し出た直樹に誰も逆らえなかったという。
* * *
琴子が家に帰り着くとすぐに電話が鳴った。
「はい、入江です」
『………です』
「…え?」
『マ、マイザーの日比野です』
「えーと…」
『先日入江さんにアタッシュケースをぶつけたMRの日比野です』
「あ、ああ!(そうだった)」
『突然お電話差し上げて申し訳ありません。病院では何かと差しさわりがあるかと思いまして…』
「そ、そうですね、ちょっと」
『それで、ですね、電話で失礼いたします。実は記憶を失くされている件につきまして、当社の製品で一度お試しいただきたいものがあるのですが、いかがでしょうか』
「く、薬ってことですか?」
『そ、そんな怪しい薬じゃないですよ。きちんとした当社が誇る脳血流の改善薬で、記憶障害にも効くようなので、是非にと思いまして』
「そうですか。あの、そういえばどうしてうちの電話番号を…?」
『西垣先生にお聞きしました。頼んだわけではないのですが、親切に病院では話づらいだろうからと』
「へぇ、西垣先生がね〜」
『お薬の方はどうでしょう、試してみませんか?』
「う〜ん、でも、勝手には飲めないでしょ」
『それはもちろん、西垣先生が処方してくださるということで』
「か、考えておきます」
『はいっ、よろしくお願いいたします』
いったいどこがどう不倫という話になるんだろう…。
琴子は受話器を置きながら噂って怖いなーと、昔味わった噂の力を思い出していた。
* * *
チッ。
直樹は電話をベッドに叩きつけながら舌打ちした。
何度かけても出ない。
これほど早く帰宅したのは久しぶりだった。
琴子が神戸にいた頃は、なるべく早く帰れるようにしていた。
それなのに、だ。
「ったく、何やってんだ」
自分のイラつきに対してなのか、琴子に対してなのか、思わず口に出した言葉の口調の強さに自分で驚いた。
頭をガシガシと掻き上げて立ち上がると、冷蔵庫からビールを取り出した。
家で一人でなんて滅多に飲まない。
飲まないが、何か別のことをしていないともう一度電話を片手に怒鳴りつけてしまいそうだった。
琴子が買ってきて残していったビールは、苦く舌に残った。
* * *
部屋に戻った琴子は、自分の携帯電話に不在着信記録が残されているのを知った。
あれ、いつの間に…。
って、入江くん?!こんな時間に?何で?
不在着信記録はまぎれもなく直樹からだった。
琴子は留守番記録に何か残されていないかと電話をいじってみたが、どこにも何も残されていないのを知ると落胆した。
気を取り直してかけてみることにした。
もしかしたらつながらないかもしれない。もう仕事をしてるかもしれない。
でももしかしたらまだ待っていてくれてるかも。
そう思いながらも電話の向こうに思いを馳せる。
何度かのコール音の後、『留守番サービスに…』と聞こえたときには、聞こえてくるコールサービスの女の人の声にすら嫉妬した。
もう、ヤダ。
何であたし電話手放してたんだろう。
せっかく入江くんから電話くれたのに。
…入江くんから電話。
…そういえば、何で?
滅多に直樹からかけてこないことが不満ではあったが、逆に電話ががるということはそれなりに用事があったということだ。
ということは、留守番サービスにもメッセージが残されていない、もしくはメールすらも残されていないこの状況は、もしかしたら何かあったのかもしれない。
それとも、何か怒ってる…?
琴子は留守番サービスに電話を部屋に置いたままだったこと、何か用事があったのか気になっていることだけを吹き込んだ。
電話を閉じてからもしばらくそのまま電話を見つめていた。
携帯電話なんてものがあっても、実際に電話に出なけりゃ役に立たない。
おまけにメールだって打ち込んで送ってくれなければ意味がない。
連絡手段がある今のほうが、ずっと現実的ですれ違いが悲しい。
琴子は大きなため息をついて、今度はしっかり電話を握ったままキッチンへと下りていった。
* * *
風呂から出た直樹は、携帯の着信を知らせるライトを見つめていた。
風呂に入っている間にどうやら琴子から電話があったようだった。
もう一度かけ直そうか、それとも用事は特にないとメールを打とうか、しばらく思い悩んだ。
それでも西垣医師からわざわざからかいのメールを受けて心配になって電話をしただなんて、まさかそんなことを伝えるのか。
冷静になって考えてみれば、いったいどうやってそんなことを問いただすのか。
琴子のそばにいれば嘘かどうかすぐにわかる。…そばにいないからこうして心配にもなるのだが。
結局思い悩んだまま、仕事の調べものをしているうちにきっかけを失った。
(2008/05/12)
To be continued.