Lost memory
5
神戸から帰ってきてまだ5日しかたっていないのに、随分経ったような気がしていた。
直樹と話さない日はなかったのに、もう二日も話していない。
それも、電話をかけたときはお互いに出られず、メールではあたりさわりのないことだけ。
病院では相変わらず不倫の噂が付きまとい、琴子は疲れていた。
「元気ないのねぇ」
さすがに見かねた同僚の桔梗幹が声をかけた。
「男のモトちゃんとどれだけ話してようが噂になんないのに」
「ま、そりゃあね」
斗南大病院では、幹の女言葉と女のように美しい容姿であまり一般的な男とも認識されず、かと言って女の枠にはめるには中途半端で、色恋沙汰の噂には程遠かった。
「というより、入江さんもいないし、大きな事件もないし、要するに皆暇なんじゃない」
「暇だからって…」
なおもブツブツ言い続ける琴子だったが、予定では少なくともあと2,3週間は直樹が帰ってこず、いつもの出張より段違いに日々寂しくなってきたのを自覚していた。
「…入江くん、早く帰ってこないかなー」
「帰ってくるのはいいけど、神戸で何か約束してたりしたら、目も当てられないわね」
「え、約束って、約束って、それ何?」
「だ、だから、たとえばの話よ」
「はあ、なんだ、モトちゃん驚かさないでよ」
「でも本当に忘れてるんじゃ、もし約束があったってわからないわよね。入江さん、それ忘れてるから怒ってるなんてことないわよね」
「ええっ、わ、忘れてるのかな、あたし」
思わず幹に詰め寄った。
「ぐ、ぐるじい…」
もしそうだったら、どうしよう…。
幹の襟を離し、琴子は一人悶々と思い悩む。
「はぁ…。じゃ、その記憶が戻るかもしれない薬でも出してもらえば?」
幹は休憩室に置いてあった琴子の土産の菓子を一つ取った。
「これ、おいしーのよね。どこで買ったの?」
そう言うと、琴子が恨めしそうに幹を見やった。
「あ、覚えてないんだったわね」
幹は黙ってお菓子をほおばった。
「あたし決めたわ!薬、飲むことにする」
「ま、やってみれば〜」
琴子の決意はともかく、案外直樹が戻ってきたらあっさり解決するんじゃないかという気が幹はしていた。
だから、適当に返事をしてその場はやり過ごした。
* * *
『あの、薬、なんですけど、本当に身体に害はないんですね?』
「もちろんです。では、試してくださるんですね?!」
『はいっ』
「では、早速西垣先生に連絡して…」
『じゃ、お願いします』
電話を切って一つため息をついた。
病院の中庭、すでにお昼で患者も皆病室に戻っている頃である。
マイザー製薬のMR、日比野智志はまぶしい日差しに目を細め、早速西垣医師を探しに病院内に戻っていった。
* * *
直樹は仕事の合間に何度も携帯電話を見つめた。
かければすぐに解決する。しかし、いつ仕事でいつが休みなのか、まだ神戸から帰ったばかりで勤務予定を聞いていなかった。
たとえ仕事中でも電話がかかってきたのを知れば、すぐにかけ直してくるだろう。
それは琴子にとってプラスにはならない。
自分で言うのもなんだが、自身が絡むと仕事すら危うくなるのをいつも苦々しく感じていた。
昼の休憩でなんとなくもう一度携帯電話の画面を見た。
『メールを着信しました』
嫌な予感がしたが、とりあえず開く。
『西垣』
一瞬西垣からのメールは着信拒否にしようかと思った。
いつもろくな連絡をよこさない。
今までもよこしたメールといえば合コンの誘いだの、当直の変更だの、主治医の変更だのと気乗りしないものばかりだった。
おまけに前回は琴子の浮気とかいうろくでもない噂だったりしたので、直樹にしてはメールを開くのをかなり躊躇した。
しかし、思い直す。
前回の噂の続きが何かわかるかもしれないと開くことにした。
琴子にかける前に見ておけば、いっそ聞きやすい。
『琴子ちゃんはお前のことを忘れて、僕に頼みごとをしてきたぞ。MRとのことらしいが』
何とも中途半端なメール内容だった。
…絶対わざとだろ、てめー。
直樹は携帯電話を放り出したいのを我慢した。
医局の中では隅のイスで他の医師たちが雑談をしているのが聞こえる。
今ここで放り投げたら何事かと思われる。
いや、思われるのは構わないが、携帯電話を壊しては元も子もない。
というわけで、何とか怒りを抑えて、医局の壁に貼ってある一枚の紙に向かった。
* * *
はっはっはっはっ。
どうだ、入江、今頃はわけがわからなくて不安に陥ってるに違いない。
あー、できることなら今すぐに神戸に行ってそのツラを見てやりたい。
昼の休憩も終わりがけな斗南大病院では、西垣医師がイスにふんぞり返って携帯電話を眺めて上機嫌だった。
『琴子ちゃんは(神戸での)お前のこと(と他全て)を(頭をぶつけたせいで)忘れて、僕に(薬を飲むために)頼みごとをしてきたぞ。MRとの(噂を否定するようにも言ってきたし、ぜひ思い出したい)こと(がある)らしいが』
嘘は言っていない。
ところどころ(大幅に)抜けている箇所はあるが、基本的には琴子の記憶が抜けてしまったことを気に病んでいるらしいという報告だ。
なんだかよくわからないが、琴子ちゃんは一時的な部分記憶喪失になっているようだ。
おぼえていないのは神戸での2ヶ月間のみ。
その期間だけを忘れるということは、入江に対して忘れたい何かがあるのか、もしくは忘れてはいけない何かがあるのか。
あのぼんくらMRがしでかしたことらしいが、なあに、記憶なんてものはいつか戻るもんだろ。
いっそ入江のこと全部忘れちまえば面白かったのに。
…などと西垣が思っているとはつゆ知らず、琴子は西垣が処方した薬を薬局で受け取ったのだった。
* * *
処方された薬を小脇に抱え、琴子は昼休みが終わらないうちに病棟へ戻るべく急いでいた。
あ、そうだ。やっぱり入江くんにちゃんと話しておこう。
ちょっとくらい記憶がなくたって別に話をするわけじゃないから大丈夫よね。
そう思うとポケットから携帯電話を取り出した。
片手でメールを打ちながら文章を考える。
えーと、『忘れたことを思い出すために西垣先生に』…。
やっぱりダメ。
西垣先生のことなんかメールに書いたら、きっとあまりいい顔しないわよね。
消去、消去…。
うーん、『お仕事はどうですか。最近電話で話ができなくてさみしいです。この間の薬屋さんが』っと…。
あまり人気のない廊下ではあったが、メールを打ちながら移動する能力が琴子に備わっているわけがない。
当然のごとく角を曲がった瞬間に誰かにぶつかった。
「うわっ」
「えっ、あっ、ご、ごめんなさい」
「うわああ、すみませんっ」
琴子は思いっきり角を曲がってきた人物に頭突きした。
頭突きされた人物は、とっさに手に持っていたアタッシュケースを手放して、ぶつかってきた人物を受け止めた。
前回の事件の賜物である。
「あ、日比野さん」
「い、入江さ…わわわっ」
琴子はやっと名前を覚えたらしい。
頭突きをくらったのはMRの日比野だった。
日比野はというと、せっかく受け止めたものの耐えられずに結局後ろへ倒れこんだ。
それでもとりあえず琴子の身体はしっかりと抱きとめたままだ。
日比野の上に倒れこんだ琴子は、至近距離でメガネのずれた顔をのぞきこんだ。
「ごめんなさい、あたし、携帯なんか見てたから」
日比野は琴子の重みに耐えながらかろうじて答えた。
「い、いいえ、ご無事ならいいんです」
実は結構苦しいんですとは言えず、琴子がどいてくれるのをひたすら待った。
その重みと同時に何ともいえない心地よさも感じていた。
日比野は学生時代はともかく、社会人になってから女との付き合いがなく、話をするのは女医と会社の同僚、それからいつも行く店の店員だけという生活を送っていた。
…お、重いけど、柔らかい。
うわあああああ、何を考えているんだ、僕はっ。
琴子にのしかかられ、おまけに急激に頭に血が上り、日比野は廊下で意識が遠くなりかけた。
彼女は人妻…。
入江先生の人妻…。
断じて不倫なんかじゃないぞ…。
だって僕は…。
「日比野さんっ?!」
だ、大丈夫です。
ちょっとどいてくだされば大変ありがたいのですが…。
「あーーーーーー!!」
叫び声とともに身体が急に軽くなり、やっとのことで日比野は起き上がった。
叫び声のお陰で遠くなりかけていた意識もしっかりと取りもどした。
「まだ途中だったのにー」
少しほっとしたところで日比野は先ほどの重みを思い出し、あたふたと立ち上がった。
「そ、それじゃ、また」
まだ廊下に座り込んでいる琴子を振り向きもせず、一目散にその場を立ち去った。
後に残された琴子は、ぶつかった拍子に押してしまったらしいボタンを悔やみながら、『送信しました』という画面を見つめていた。
ふと気がつくと昼休み終了の時刻になっており、慌てて病棟に戻った。
主任に怒られる前に業務に戻らなければならず、そのまま続きの文章を送ることはできなかった。
(2008/05/29)
To be continued.