Lost memory




直樹は一通りの仕事が終わり、家でできそうな仕事は持ち帰ることにした。
携帯電話を見るとまたもやメールの着信。
一応確認すると差出人は琴子。
開いてみたが、直樹は黙って携帯電話をポケットにしまった。

『お仕事はどうですか。最近電話で話ができなくてさみしいです。この間の薬屋さんが』

また『薬屋さん』という単語が出てきたのを見て、さすがに直樹は気になってきた。
いったいその薬屋さんとはなんなんだ、と。
おまけに琴子からのメールも途中で送ったらしく中途半端で、さっぱり内容はわからない。
ただ、さみしいという言葉に気をよくして、家に帰り着いたらもう一度家に電話してみようという気になった。
ところがそこへ医局にかかってきた電話。
こういう帰り際にかかってくる電話というのは、実はあまりいい知らせはない。

「はい、外科、入江です」
『入江先生、小児科です。手術予定だったアサミちゃん、腹痛と嘔吐です。血圧も下がっています』
「小児科の左京先生は?」
『今コール中です。…あ、連絡つきました。
え?ああ、そう。…やはり手術早まるかもしれないそうです。外科にオンコールかけてくださいと言われました』
「わかりました。まだ何人か残っているはずですので、すぐに行きます」

直樹はチラッと時計を見て、今日は帰れそうにないなと思った。
そして、他の医師に連絡を取りながら駆け出していった。


 * * *


昼休みが終わり、黙々と働いて数時間後。
ようやくその日の勤務を終えた琴子は、もらった薬を抱えて帰ろうとロッカー室へ向かった。

「ホントよ、見たの!」

ゆっくりと押し開けたロッカーで響いた声。

「琴子と例のMRが抱き合ってるところ!!」

そのまま琴子は固まった。
後ろから同じようにやってきた他の同僚も、その声が聞こえたのか琴子の後ろで固まった。

数秒置いて「ええーーーーーっ!!」という声がロッカー室の内外から響き渡った。

一応断っておくが、桔梗幹は別のロッカー室である。
中身はともかく性別は男なので。
というわけで、幹はこの新しい噂について知るのは翌日のことだった。

ロッカーの中で驚いた声をあげた連中もさすがに噂のご本人登場とあっては口をつぐんだ。
琴子はもちろんしばしのタイムラグを置いてから必死に否定した。

「違う違う違う!!そんなわけないでしょ!あたしには入江くんという世界一のだんな様がいるんだから」
「でも、昼休みに…」
「あ、あれはっ…」
「抱き合ってたのは事実なんだ?」
「だから、あたしが転んで…。それに、抱き合ってないっ」
「なんでそう都合よく転んだところに噂のMRがいるのよ」
「だって、本当に偶然なんだもん」
「もしかしてMR君のほうがストーカー?」
「まさか、琴子に?」

他の同僚に揶揄されながらも琴子は必死だった。
また変な噂が広がったら、きっとずっと言われるに違いない。
何せ周りはライバルばかりで、直樹が帰ってきてからもなおしつこく言われそうだったから。
あわよくば琴子の後釜に納まろうとするささやかな計画は、日常茶飯事である。
その場にいた全ての人間に強く否定して回り、その剣幕に一応その場は皆、わかったと言いながら帰っていった。

…なんでそういう噂になっちゃうのかしら。
それもこれも入江くんが神戸から帰ってこないのがいけないのよね。
…早く帰ってこないかなぁ。

さすがに琴子は大きな大きなため息を落とした。


 * * *



『メッセージは6件です』

『入江くん?あの、メールのことなんだけど。途中で送っちゃってごめんね。歩きながらメールしてて、またぶつかっちゃったの。そうしたらボタン間違えて押しちゃって…。
あ、でもね、今回はそんなにひどくなかったの。ちょっと前に一度ぶつかった事があって…。
あのね、その、ぶつかったときに…。あ、そのときは別にメールはしてないよ。何か考えながら歩いていたみたいなんだけど、それが』

『転んで頭を打って、少しだけ思い出せないことがあるの。あの、あの、そんなにね、心配はないんだけど。
でね、その思い出せないことを思い出せるように、薬を出してもらったから大丈夫。
そのぶつかった相手が薬屋さんでね、その薬屋さんがどうですかって勧めてくれたから、西垣先生に出してもらったの。
ずっと言いたかったんだけど、うまく言えなくて…。そ、それに』

『えーと、さっきの続きだけど、思い出せないことの中に、その、入江くんと約束したことがあったかなーなんて…。
あの、ごめんなさい。ちゃんと思い出すから!だから怒らないでね。
でも、あきれてる?またため息ついたでしょ。
あたしだって忘れたくて忘れたわけじゃないんだもん。でもどうして』

『また続き、なんだけど、なんだったけ。
ああ、そうそう。人間てどうして頭打つと忘れちゃうのかな。よくドラマでもあるわよね。でもそれって大抵何かきっかけがあったりして忘れちゃうじゃない。
あれ?ということはあたしにも何かきっかけがあったのかな。
でも、全部忘れたわけじゃないの。だってあたし、自分が入江琴子だってこともわかってるし、入江くんが頭がよくてかっこよくてあたしのだんな様だってこともちゃんと』

『もう、すぐ切れちゃうんだから。
どうして今日入江くんいないの?当直?それとも何か呼び出し?
あたしは明日が夜勤なの。だから今日はゆっくり起きていられるんだ。
それからね、皆にあげたお土産、どこで買ったんだっけ?皆がおいしいって。今度神戸に行く機会があったら買いたいって言っ』

『…えへへ。何回もごめんなさい。忘れたことって、いつになったら思い出せるかな。薬って効くのかな。あ、何もらったかって?えーとね。えーっと…。

琴子、いい加減にしろよ!
お兄ちゃんだって疲れ…

もう、いいじゃない。しばらく話してないんだもの。あたしだってたま』

深夜、直樹は疲れた頭でメッセージを聞いてみて、ようやく浮気云々の流れがわかった気がした。
積極的に噂をばら撒いている誰かがいるには違いないが、とりあえず事の次第がわかって安心したのか、直樹はいつの間にか眠りに就いていた。


 * * *


入江くん、ちゃんとメッセージ聞いてくれたかなぁ。

ぼーっとした起きぬけの頭で一番に考えたことはそれだった。
直樹からの返信を待っていたが、深夜になっても返信は来ず、それでもあきらめきれずにいて、ベッドの上でゴロゴロしているうちに眠ってしまったのだった。
ぼさぼさになった頭をかき上げて、琴子は洗面所へ向かった。

今日は夜勤だから入江くんとは話せないなぁ。

さすがに仕事中に電話する暇も余裕もない。
神戸での2ヶ月間にあったことを琴子は自分が書いた報告書で知った。
看護部長からダメだしされたレポートは、神戸での生活をやけにこと細かに書いていて、それだけ読めば自分がどんな生活を送っていたのかはわかった。
もちろん本当に些細なことは書いていないので、実際にどんな風にして直樹と会ったのか、食中毒騒動のとき自分がどんな風に執刀介助をしたのかもわからない。

あたし、なんで思い出さないんだろう。
もしかして、思い出したくないことでもあったのかしら。

そんな風にまで思ってしまう。

ダメだしされたレポートを直そうにも無理で、そのまま事情を話してレポートは再び看護部に引き取ってもらった。

そろそろお昼も近くなってきたところで電話が鳴った。
直樹かと思い、ダッシュで電話を手に取ったが違った。

『こんにちは、日比野です。その後副作用とかはございませんか?』

少しがっかりした琴子は、返事が遅れた。

『入江さん?あの、大丈夫ですか?』
「え、あ、こんにちは。副作用…は、ありません。大丈夫です」
『そうですか、よかった』

しばしの沈黙。
琴子は改めて日比野を思い出す。まじめそうな人の良さそうな顔。あくまで態度は丁寧。
もちろん直樹の影響かもしれないが。
それでもいつもこうやって心配をしてくれている。
日比野自身も不倫騒動の影響はあるはずだ。
それでも気遣ってくれるのだから、本当にいい人なんだろう。

「あの、日比野さん。もうそんなに気を使わないでください。思い出せないこと以外は大丈夫ですし、入江くんにも話しました。忘れたって言っても2ヶ月くらいのことで、特に困ったことはありませんし。
そりゃ最初はちょっとびっくりして動揺してしまったけど…。
だから、もう、電話もいいです」

きっぱりと言った言葉に日比野が電話の向こうで息を飲んだのが聞こえた。

『わ、わかりました。いろいろご迷惑をおかけしました。今までどうもすみませんでした。あの、どうぞお大事にしてください。入江先生にはお帰りになってから改めてお詫びに伺います』

日比野から聞こえた声に一言言おうと思った琴子だったが、その隙も与えず通話は切れた。

…なんだか悪いこと言っちゃったかしら。

後味が悪いと感じたのは、ただ自分の都合なのか良心か。
日比野からは本当にそれっきり電話はかかってこなかった。


(2008/07/27)


To be continued.