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神戸の駅に降り立ったときには、身動きもできないほどの荷物を抱えていた。
直樹に見られれば「バカ」と言われるだろう。
荷物は簡潔に、必要なものは現地で。
そういう言葉は琴子には通用しない。
東京にあるものが神戸にはないとでも思っているのだろうか。
そして、大荷物の片手にはもちろん東京銘菓が。
これからタクシーで病院へ行って、看護部に挨拶に行かなければならない。
こんなにぎりぎりで着くつもりではなかった。新幹線のチケットさえ忘れなければ…。
来たわ、入江くん!
ざわめく周りの人々の中で、琴子は仁王立ちして駅の改札を見つめた。
ちょっとだけ再会の妄想を繰り広げたが、はっと我に返って、ようやくタクシー乗り場に急いだ琴子だった。
* * *
神戸は初めてかと聞かれて首を振った。
以前に奈美ちゃんの手術に協力したことがある。
おまけに直樹が働いていた。
看護部の外の様子が気になって、話をしている看護部長そっちのけに後ろの扉の向こうを気にしていた。
いろいろ聞かれたが、どれも満足に答えられなかった。
どうせ斗南大学病院から資料が届いているはずなのに、と琴子は思った。
もちろんその内容を考えるとちょっとだけ冷や汗が流れるが。
看護部が用意してくれるというマンスリーマンションを断った。
「夫がいますので、そこへ置いてもらいますから」
どうしても言いたかったセリフだ。
看護部長は資料を見ながらうなずいた。
「ああ、同じく斗南からお見えの医師も入江先生でしたね」
「そうです、すっごく優秀なあたしのだんなさまなんです!」
看護部長はとりあえずもう一度うなずいた。
「しかし、そのマンションは単身用だと思いますので、あなたにはこちらで用意したマンションに入っていただきます」
「…ええっ!」
「先生と一緒に過ごすのは構いませんが、一応私もあちらの部長に頼まれた責任というものがありますので」
「…はい」
看護部から送られた資料には、くれぐれも脱線しないようによろしくと書いてあったのだ。
何故そんな看護師を送ってくるのか理解に苦しむ。
しかし、かつての同僚で仲間でもあった斗南大病院で勤める看護部長が、ただのトラブルメーカーを送ることはないだろうと一応信頼している。
くれぐれも…以下の文は、看護部長としてより親友として自分に宛てた文だとわかる。
彼女は確かにトラブルメーカーで、いろいろ騒動も起こすが、素直な頑張り屋で…などと、一看護師を超えたフォローもされている。
だから、興味がわいた、というのが本音。
穏やかに過ぎているこの病院に、新しい風を入れるのも悪くはないと派遣を決めたのだ。
少々のことは目をつぶろうと看護部長は覚悟した。
一つだけため息をついて、目の前に立っている琴子に声をかけた。
「辞令をもらいに院長室へ行きます。付いてきて下さい」
「は、はいっ」
がさっと大荷物が音を立てた。
「…荷物は置いていってください」
「…はい」
というわけで、いざ院長室へ。
病院内をうろついたことならあるので、およその位置は把握できている。
それもラッキーだった。
斗南大学病院でも覚えるのに1週間はかかった琴子だ。
看護部から院長室への道のりは決して長くはない。
その間も琴子はきょろきょろと落ち着かない。
一段と奥まったところに院長室はあった。
看護部長に促されて中へ入ると、院長が座っていて、入ってきた琴子を見て驚いた。
「ああ、あなたは入江くんの…」
「ご存知なんですか?」
看護部長は少しだけ首をかしげた。
「いえ、お見かけしたことがあるだけですよ、斗南の帰りにね。
そうですか、同じ入江なので珍しいと思っていましたが。
では、辞令をお渡ししましょうかね」
院長は一枚の紙を手渡した。
…大学病院看護師として…(略)…勤務を任ずる
初めて看護師として辞令をもらったときのことを思い出し、またもやしばし妄想にふける。
「入江さん」
何度か呼ばれたらしく、眉をひそめた看護部長が退室を促していた。
慌てて退室をすると、視界の隅で院長が笑っていた。
その親しげな様子にほっとしたのか、琴子はようやく緊張がほぐれてきた。
* * *
その頃、直樹はようやく手術を終えて、病棟に向かうところだった。
ぼんやりとエレベータを待っていると、外来を横切る看護部長の姿が目に入ったが、その後ろをきょろきょろしながら歩く人影には気づかなかった。
一目見たらその落ち着きのない歩き方で琴子とわかったかもしれない。
しかし、どう見ても外来をうろつく不慣れな患者にしか見えなかった。
残念ながら再会の場は病棟へ持ち越された。
琴子は看護部長に連れられて外来の説明を受け、しばらく派遣される病棟に連れられていった。
派遣されている間、およそ2週間ごとに内科や外科、専門科などを順番にめぐっていく予定だった。
それを聞いて琴子は「ええっ」と大きな声で驚いた。
まずは慣れた外科から派遣されることは聞いていたので、そのままずっと外科にいるものだと思っていた。
もちろんそれは説明されていたはずだが、直樹との再会シーンをしつこく妄想していたがために聞き逃していたのだった。
しかしとりあえず再会するまでのシュミレーションは、(琴子の中では)完璧だ。
きっと劇的になるに違いないと、またもや細かい説明をしている看護部長の話も上の空だった。
いざ病棟に降り立つと、外科は手術後の患者の処置で忙しそうだった。
ナースステーションへと近づくと、向こうに術後の指示を出している医師たちが見える。
直樹の姿は見えない。
琴子は背伸びをしながらあちこちをきょろきょろと見回す。
かなり挙動不審だ。
そんな琴子をナースステーションの中から看護師たちは見ている。
看護部長と一緒にいるのはいったい誰だろう、と。
一人が思い出したように言った。
そう言えば明日から斗南大から派遣されてくる研修看護師がいる、と。
ええ!どんなん?!とざわめいて、ナースステーションの中も騒がしくなる。
琴子はまだそれに気づかない。
あくまで探しているのは直樹一人である。
看護部長に促されて師長のいるところまで移動すると、さすがの琴子も周りの様子に気がついた。
「入江琴子さんです」
「外科看護師長の川岸です」
「は、はいっ、明日からお願いします」
慌てて師長に向かって頭を下げる。
見た目はおっとりした感じの師長だった。
よかったと琴子は少しばかり安堵する。
頭を上げると、部長がうなずいて軽く頭を下げた。
「入江さん、こちら…」
琴子は後ろを示され、慌てて振り向いてまた頭を下げた。
「おねがっ」
ゴン…!
琴子の額に何かが直撃した。
「いっ…!!」
いったーいと思いながら額を押さえて、自分の額にぶつかったものを確かめる。
よく見ると、それはカルテ。
「ちょっと!危ないじゃない!…んですか」
思わずカルテを持った人に勢いよく注意しかけて、もしも偉い人だったら…と思い直して語尾があやふやに。
ぷっ。
ぷ?
思いっきり吹き出されて、琴子は怒りとともに顔を上げた。
そこには…。
「い、い、い、い、…入江くん!」
「よお」
思いっきり笑いをこらえた直樹の姿がそこにあった。
驚いた琴子は、自分がシュミレーションした再会シーンが崩れ去るのを知った。
(2007/11/21)
To be continued.