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直樹は朝一番の手術を終え、病棟へ術後指示を出しにやってきた。
病室に見に行った後、徐々に覚醒して痛みを訴える患者に痛み止めの指示を出した。
ここまでは斗南大病院だろうと他の病院だろうと変わりはない。
ナースステーションへ入ると、看護師たちのざわめきが耳に入る。
「今日だっけ、斗南大から研修が来るのは」
「ああ、そうそう。ほら、あの部長と一緒にいるのが…」
斗南大?
直樹は、自分以外にも誰か研修で来たのかと興味を持った。
思わずカルテを持ったままそちらへ視線をやると…。
「入江琴子さんです」
…琴子?
緊張した顔で師長に頭を下げる琴子の姿があった。
直樹は一瞬聞き間違いかと思ったが、顔を上げたその横顔は、紛れもなく琴子。
いったいどんな手を使ったのか、まさかここまで来るとは思っていなかった直樹である。
驚きとともに笑いがこみ上げてきた。
多分琴子のことだ、再会するにあたって今まで内緒にするくらいだから、感動的なシーンを思い描いているに違いない。
そのまま琴子の後ろに近づくと、看護部長と目が合った。
逆に驚かせてやろうとそのまま気づくまで立っていた。
ところが、本人は顔も確認しないうちから頭を下げた。しかも自分から額をカルテに直撃。
「ちょっと!危ないじゃない!…んですか」
勢いで怒鳴りながら、語尾は弱気に。
そのあまりのおかしさに思わず吹き出した。
「い、い、い、い、…入江くん!」
「よお」
顔を上げた琴子は、一気に紅潮してどもりまくった。額にはカルテの痕付きである。
二人が会話をした瞬間、周りが再びざわめいたが、二人にとっては蚊帳の外である。
「ひ、ひどいっ、せっかく驚かせようと思ったのにっ」
「…いや、十分驚いた」
「入江くん、会いたかった!」
思わず琴子がしがみついた。
…瞬間にナースステーションであがる悲鳴。
「な、何?!入江先生とどういう関係?!」
「いやーーーっ、どういうこと?!」
こ、こほんと咳払いとともに部長が割って入る。
「…入江さん、とりあえず行きますよ」
琴子がはっと気づいて離れると、名残惜しそうに視線を向けたので、直樹は素知らぬ顔で「またな」と告げた。
「入江く〜ん」
小さくつぶやきながら去っていく琴子を背にして、直樹は仕事を続けることにした。
またきっと騒々しい毎日になるに違いない。
そう思いながらも楽しみにしている自分に気がついて、人知れず苦笑する。
その様子を見ていた外科病棟の看護師たちは、鉄面皮の入江医師が見せた思わぬ顔に噂が止まらない。
…明日からの琴子の運命はいかに。
* * *
看護部長から解放されたものの、琴子はすぐに病棟へは行けなかった。
斡旋されたマンスリーマンションに行くことになったからである。
何せ大荷物。
おまけに勤務は明日からだというので、白衣の支給に細かい事務手続きも山ほどあった。
琴子は離れ行く直樹の姿を目で追いながら、自分の思い描いた再会シーンを思い出していた。
入江くんが病室で「カルテ」とか「ガーゼ」とか言うの。
それでね、あたしがさりげなく手渡して、振り向いた入江くんがあたしに気づいて驚くの。
そこであたしは
「本日付で外科病棟に派遣されました入江琴子です」
ってさりげなく言うのよ。
入江くんは突然の再会に感動して
「よく来たな、会いたかった!」
って抱きしめて…。
やだ、ここは病室よって、うふふふふふ…。
となるはずだったのに!!
現実にはカルテに額をぶつけて笑われて、しかも突然現れたのは入江くんのほうで、抱きついたのもあたしのほうだった…。
そんなことを思い出している間に、ちょっとだけ禿げ上がった人事部の人が、全く話を聞いていないらしい琴子に恨めしい視線を送っていた。
「あの、マンションの説明をしますので」
琴子は突然覚醒した。
「入江先生のマンションはどこですかっ」
その勢いに押されながら人事部担当は答えた。
「えーと、あの、お教えするわけには…」
「なんで?!」
「その、ご迷惑になるので…」
「だって、あたしは入江くんの妻よっ」
その瞬間、人事部担当を含めた事務所内であがる驚きの声。
「えーーーーーっ!!」
思わぬところから上がった声に、琴子は思わず事務所内を見渡した。
聞き耳を立てていたであろう事務員の驚きの顔。おまけにその大半は女。
琴子は冷や汗が垂れる。
そういえば入江くんてば前にいたときもすっごくもててたんだった。
そんなことを思い出し、琴子は決意を新たにする。
前のときはどうだったか知らないけど、今度は入江くんに私という妻ありってことを認めてもらわなきゃ!
そんな気合とともにマンションへ向かう琴子だった。
* * *
その夜、マンションで一人琴子は待ち構えていた。
もちろん直樹のマンションの部屋はリサーチ済み。
人事部担当を散々困らせて(こっそり)聞き出した。
幸いにも琴子のマンションも同じ(ところにしてもらった)。
一応自分の部屋の中からマンションの外を見張っていた。
ほとんどストーカーの如しである。
夜遅く見えた人影に琴子は部屋を飛び出る。マンションの入口へ一目散。
入口に現れた人影に、直樹は驚きもせずに言った。
「額、大丈夫か?」
思い出したのか、少しだけ笑いを含んでいた。
はっとして琴子は額を押さえる。
「だ、大丈夫」
直樹はそのままエレベータのほうへ歩いていく。
「え、い、入江くん、それだけ?!」
直樹は怪訝そうに振り返った。
「…真夜中にマンションのホールで再会のあれやこれをする気か?」
「そ、そういうわけじゃ」
「ほら、行くぞ」
「うん」
「どうせ同じマンションにしてもらったんだろ」
「…うん」
エレベータに乗り込むと、まじまじと琴子の顔を見た。
「…しかし、本当にどんな手を使ったんだ」
「へっへ〜、驚いたでしょ」
「驚きすぎてこえーよ。ストーカーもびっくりだな」
「え、ひどい」
頬を膨らませた琴子の肩をつかむと、直樹は琴子に唇を落としていく。
チーン!
「着いたぞ」
直樹の言葉にしばし呆け気味の琴子だった。
(2007/12/17)
To be continued.